ぼくが勤めている会社の近くには、貨物線の線路が通っている。以前はこの線路も旅客用の在来線として使われていたみたいだけど、遠い昔に旅客路線は廃止され、今では貨物専用の路線になっている。この線路がどこに向かって伸びているかというと、埋め立て地の端にある米軍の油層所(ゆそうじょ)である。ここには海を渡ってきた貨物船が接岸して燃料をタンクに貯蔵しているのだけど、この貯蔵された燃料が貨物列車で国内の米軍基地に運ばれていくのだそうな。話しによると、ここから横須賀の米軍基地まで運ばれるそうである。
そんなわけで、ぼくは毎日の通勤の途上で貨物線の線路脇を歩き、米軍の油層所の脇を通って通勤しているのである。
ところで、油層所に大型の貨物船が着岸し、タンクに燃料をおろしている様子を見ることはこれまでも少なくなかったのだけど、貯蔵された燃料が貨物列車で運ばれていく様子を見たことは一度もなかった。フェンス越しに見える広大な油層所の敷地内には、JR根岸線などで見かける燃料運搬用の緑色の貨車がいつもとめられているので、この貨車を使って運び出していることはほぼ間違いないのだけど、転勤になってから数か月、貨車が貨物路線を走っているのを見たことは一度もなかった。
そんな折、宿直当番明けで早くに帰宅できることとなったある日、視界に入った貨物線にいつもと異なる風景を見た。米軍基地内ではなく、米軍基地を出た貨物路線の線路内に貨車が止まっていたのである。しかも、貨車を引くための朱色のディーゼル動力車に連結されていたのである。
朝夕と通る道の脇の線路に貨物車が止まっているのを見たのは初めてである。動力車ならなおのことである。こ、これは初めて見る光景であり、そして、ぼくが以前から見たかった光景である。ついにこの光景を目にすることができたわけである。
ぼくのココロはにわかにザワめいた。
※こ、これは初めて見る、しかもずっと見たかった光景・・・!
ぼくは宿直の際にはマイカー通勤をしている。会社にただ泊っているだけでいいとは言っても、宿直の日はなんだか神経が疲れるので、早めの終業時間を迎えるとともかく早く帰りたくて、ガソリン代も高速道路代も支給されないにもかかわらず、マイカー通勤をしているわけである。この日もとにかく早く帰りたくて、クルマを走らせていた。しかし、その視界に先に書いたとおり貨車と動力車が停車していたのである。米軍基地に向かって動力車が貨車をけん引するような形で停車している。
さて、これは状況はどういう状況だろう。空になった貨車を基地内に引き入れようとしているのか、または燃料を積んだ貨車を内陸側に引っ張っていくところだろうか?
宿直の緊張感から解放されたばかりのぼくには、状況を把握する思考力があまりなくて、写真を数枚撮っただけで、そのままクルマを走らせてその場を後にした。とにかく早く家に帰りたかった。
道はしばらく貨物路線と並行して走り、橋を渡って途中で別の貨物路線と合流する。内陸に向かうのであれば、橋を通る貨物線の写真なんかも撮れそうである。これはなかなかいい構図になりそうだ。せっかくのチャンスかもしれないのに、やはりこの時のぼくの思考力は低下していたようである。そのまま道を進んでいったのである。
しかし、走っている車窓からちらっと見えたものがあった。貨物路線が別の貨物路線と合流する辺りである。遠くてよく見えなかったけど、作業着を着た数人の人が立っているようである。彼らは何をしているのだろう。
いや、これは憶測である。もし先ほどの貨物車が内陸に向かうことになっていたとすれば、あの合流地点では線路を切り替えて貨物車を所定の路線に誘導するはずである。そうなれば線路を切り替える作業をする人も当然に必要である。だとすれば、先の貨物車は内陸に向かうのかもしれないではないか。おお、貨物車が走るところを見られるかもしれない。一旦静まったぼくのココロは再びザワめいた。
ぼくはクルマを切り返してUターンし、再び会社のある方向に走り始めた。あの貨車がどうなるか見てみたい!早く帰りたいけど、これは千載一遇の機会かもしれない。
https://youtube.com/shorts/uSQTN2yXH28?feature=share
※咄嗟のデキゴトにとりあえずカメラを取り出して、走るクルマから撮影してみた。
ぼくが切り返して会社の方に走っていくと、貨物車は先ほどと同じ場所に止まったままだった。ぼくは道路脇にクルマを止めて、スマホを持って歩き出した。とりあえずもう一度写真を撮っておこうかな。
次の瞬間である。貨車に隠れて見えなかったけど、先頭にいたはずの朱色の動力車が物凄い勢いで隣の線路を走ってきたのである。動力車はぼくが先ほど行き過ぎた後、貨車から連結を外されていたようである。そして単独になった貨車はどこかの合流ポイントから隣の線路に移行し、その線路を内陸に戻ってきたのである。
そして動力車は隣の線路から貨車を越していった辺りで停車した。もはや知識のないぼくには何が何やらさっぱり分からなかった。しかしぼくが戸惑いつつもいろいろ思考を巡らせる間もなく、今度は動力車が貨車の方に向かって走り出したのである。既に隣の線路から元の線路に合流していたのだろう。
当然ながら、これは何らかの目的のために厳格に規定された手順である。ぼくは鈍った思考力をフル稼働させて、その意図を探ろうとした。
動力車は一般的に貨車をけん引するものである。だから当然、進行方向の前方に動力車が配置される。今回、動力車がわざわざ貨車を回り込んできたということは、これから陸側に貨車を引っ張っていこうということではないか?だとすれば、動力車の側に立っていれば、目の前を動力車に引かれた貨物車が通るところを見られるハズである。ぜひいいアングルで写真を撮りたいものである。
ぼくが動力車に向かって歩いていくと、巨大な動力車が貨車に連結されている作業をしていた。ほら、やっぱり陸側に引っ張っていくつもりなんだな。ぼくは車両から少し距離を取って、走り出した貨物車を捉えられる位置に立った。さあいつでも発車してくれていいですよ。
※物凄い勢いで貨車に向かって走る動力車。
※連結の様子。こんな間近で見られるなんて。
結果から言えば、やはり、ぼくの思考力は鈍っていたようである。ちゃんと考えれば想像できたことである。もちろん、一般的には動力車は貨車をけん引するものである。しかし、目的地で線路が行き止まりになっているなど車両の前後を切り替えられない場合は、先だって動力車を切り替え、「動力車が貨車を押す」ということもあり得るのである。そして、米軍の油層所には動力車を切り返すような複数の線路はないのである。だから、油層所の手前で列車を一旦止め、動力車を切り替える必要があったのだ。この時のぼくにはここまで思考を巡らせることができなかった。
ぼくが列車から少し距離を取って待っていると、止まっていた動力車は「ピィーッ!」という甲高い発車の合図を出して、貨車を押すように米軍の油層所に向かって走り出したのである。
あぁ・・・完全に予想を外してしまった。そうか、たしかに油層所に貨車を搬入する最終工程において、動力車は貨車を押す形になるよな。結果を見れば簡単に思いつきそうなものだけどね。これは完全にアテがハズれたわ。
落胆するぼくから貨車がどんどん離れていく。そして、踏切のない道路を渡って米軍油層所に入っていく・・・あ!あそこはたしか道路と線路が交差している箇所だ。貨物車が通ることは頻繁ではないし、道路の交通量も多くないので、そこには踏切設備が一切なく、ただ道路を線路が横切るだけなのだ。つまりここだけ列車が車道を走っているように見える場所なのだ。ああ!米軍油層所に向かうということは、つまりあの踏切設備のない踏切を通るということか!これはこれで稀有な光景である。視界の遠くの方で、たしかに道路を緑色の貨車が横切っていた。遠すぎてここからクルマで向かっても間に合わない。これはぜひ間近で見ておきたかった。
ぼくは失意の中でクルマに乗り込み、再びUターンして家路に就く。そもそも貨物路線が別の路線と合流する辺りにいた作業者はなんだったのだ。まあ彼らのおかげで稀有な光景に出逢えたわけだけど、彼らの存在が貨物車を陸側に向かわせるという間違った予想に導いたこともまた事実である。帰りがけにもう一度確認してみたところ、彼らはまだその場にいて、何やら線路上の設備に向き合っていた。あれはおそらくだけど、電気設備かな?実は米軍油層所への貨物車の入線とは一切関係のない人たちだったかもしれない。
※ほとんど会社の方に戻ってきて、米軍油層所内に停車する車両を捉えた。
まあ稀有な光景が見られたので、良かったかな。
疲れた身体だったのに、クルマを切り返して、貨物車を追う意欲は残っていたわけで、これが鉄道マニアの持つ情熱なのだろうか?いや、ぼくは鉄道マニアでもないし鉄道を追いかけているわけでもなくて、鉄道を通して絵なぞが描ければいいなと思ってるに過ぎないのだけなのだ。
それでも貨物車に向かってカメラを向けたりするぼくの姿を見て、通り過ぎる人たちはきっとぼくを鉄道マニアだと思っただろう。しかも、ぼくはスーツ姿だったので、「普段はまじめなサラリーマンを装いつつ、内実は極度な鉄道マニア、しかも時に運行に迷惑をかけることもあるという『撮り鉄』だ」なんて思っただろうな。だからぼくは逃げるようにその場を立ち去ったわけだけどね。
そんなわけで、普段は見られない珍しい光景を見ることができた。予想と違う展開になった部分はあるけど、いい勉強になった。次回も同じようなことがあれば、読み違えることはないだろう。またそういう機会に出逢えるといいな。