オクターブアップ!

「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
今年3枚目。

先週は出張から戻ってずっと絵なぞを描いていた。集中して作業できたおかげで、1枚を描き上げることができた。
今年に入って3枚目である。今年は絵なぞがどうしても描けない冬の時代がどういうわけか長くて、1月に1枚描いた以降は9月までずっと描けないでいた。このまま絵なぞが描けなくなっちゃうんじゃないかと心配になるほどだったけど、先月何とか1枚描き上げて、続いて今月も1枚を描き上げることができた。通常の年なら、描けない期間はあるものの、その後巻き返して結果として一年で12枚ほどは描けるのだけど、さすがに今年はあと数枚といったところだろう。
それにしても、今回はある事故というか事件によって、描き上げるまでが難産だった。
ほとんど描き上げていたところで、ふいに部屋に入室してきた愛猫・フクがぴょんとデスクの上に飛び乗ってきて、多分に水を湛えたパレットの上に足を付き、バランスを崩してひっくり返り、そのドタバタの中で描きかけの絵なぞを汚してしまったのだ。紙の上に絵の具がぐちゃぐちゃというほどではなかったけど、絵の具が紙に飛び散ってしまったのだ。絵の具を踏んだネコの足が、紙の上でキレイな足形になっていたら、それはそれで良かったんだけどね。
そこで、念のために予備に用意していた下絵で再び着彩を始めたんだけど、今度はどうしても色味がいい感じで出なくて、結局予備の下絵も使い切り、再度描き直しになってしまったのだ。
ただ、描き直しになって良かったのは、当初の下絵で微妙に狂っていたデッサンやディティールを見直すことができたことである。描き直したことで、その点の完成度は上がったと思う。
とは言え、絵なぞを汚された当初は、フクに対する憤りを隠せず、でもネコ相手に怒りをぶつけたところでどうしようもないのは分かっていて、「こういうことが起こるのが『ネコを飼う』ということなんだ」と自分に言い聞かせつつ、それでも完成間近の絵なぞを汚された悲しみを前にどうしてもフクの目を見ることができず、しかもフクもそういうところは妙に察しが良くて、「あ、ボク、いけないこと、しちゃった?」的な感じで、ぼくから少し離れたところでじっと様子を伺うような目を向けていて、それが狂おしいほどにかわいかったりするのだ。フクを前にいろんな感情がグルグルと渦巻いてしまったよ。

 

そんなわけで、フクの粗相のおかげで少しだけ完成度のあがった絵なぞである。そもそもなんでこんな巨大なカッターナイフを描いたのか、自分でも分からないけど、まあそれなりにいい感じになってるので良しとしよう。
さて、来月は絵なぞが描けるかなー。

| 日記 | 12:21 | comments(0) | trackbacks(0)
絵葉書を求めて。

朝の新大阪。新幹線の乗車を1時間後に控えて、しかしぼくは焦っていた。新大阪の駅は、どこのターミナル駅と同じで、多くの人が行き来していて、ぼくは焦る気持ちを持て余しつつ、人の間を縫うように早足で歩いていた。
ぼくが何に焦っていたのか。新幹線の発車時刻まで1時間ほどある新大阪の駅構内で、実はぼくは絵葉書を探していたのだ。
新大阪の駅なら改札の外にも多くのお土産屋があり、そのどこかには大阪らしい写真の絵葉書が置いてあると思ったのだ。しかし、いくつかのお土産屋を回っても、店員に聞いても、絵葉書はないという。参ったね。

 

実は、最近の泊りがけの出張では、ぼくは自宅のさきこ宛に絵葉書を書いていた。と言っても、過去数回ほどのことなので、これがぼくの出張時の定番になっているというわけではないのだけど、今後そういう風にできたらいいなと思っていたところで、ここ大阪の地で早くも頓挫した形なのである。
絵葉書に物凄いコダワリがあるわけではないのだけどね。まあ、ぼくとさきこは30年来の付き合いなので、当時は携帯電話もメールもない時代だったから、直接会う以外の意思疎通は、自宅に恐る恐る電話をかけるか、手紙を書くかしかなかったのである。だから最近の便利ツールもいいけど、手紙を書くというのもぼくには結構大事なことだったりするのである。

 

さて、絵葉書である。いや、それにしてもお土産屋に絵葉書がないというのは、ぼくにしてみれば信じがたい事実である。別に絵葉書自体が消えつつある文化というわけでもなかろう。いや、出張の度に自宅に絵葉書を送るという酔狂はあまりいないかもしれないけど、それでも外国人旅行者の増えた昨今においては、絵葉書って定番のお土産だと思うんだけどなー。数軒も店を回ってそれでもないというのは、ホントどうしたことか。
ちなみに、新大阪の駅には文房具店と書店がある。外国人にウケる絵葉書なんかは、この文房具店で売ってるのかもしれないね。そういえば、先日銀座の伊東屋に行った時も、外国人にウケそうな絵葉書がたくさんあったな。ぼくが探していたのは、そんなコテコテな外国人ウケするような絵葉書だった。大阪城がどーん!みたいな絵葉書を探していたのだ。しかし、文房具屋や書店が開店するのは、ぼくが新幹線に乗った後の時間である。
いっそ、官製葉書を買って大阪城の絵なぞを自分で描くか。しかし駅内のコンビニに行って聞いてみたものの「葉書はないですね〜」などと返されてしまった。なんだ、関西を代表する巨大ターミナル駅に、日本が世界に誇る郵便事業が1ミリも入り込んでいないというのか。大阪の人は葉書を送る習慣とかないのか?ぼくが絵葉書や官製葉書を求めて聞いて回ってるのを店の人たちは、「あの人、葉書が欲しいとか言ってましたわ」「いや〜アホでんな〜」「ホンマですわ〜」とか言ってたりするのだろうか。
そういえば、今年の冬に福岡に出張に行った時、休みと繋げて門司港や下関に遊びに行ったけど、その時もお土産屋で葉書を買うのに苦労した。門司港の駅舎の絵葉書はかなり多くあったんだけど、当時の門司港は絶賛工事中で、建物の片鱗すら見えなかったから門司港の絵葉書を買うのはなんだか違う気がして、いくつか店を見て回って関門海峡大橋の絵葉書をゲットしたんだった。ぼくが6月に門司港に行った時に市街の道にちょっと詳しかったのは、そんな事情も関係している。

 

いやそれにしても、実際のところ、絵葉書なんて日本人にとっては過去の遺物になりかけているのかもしれない。最近はメールやメッセージアプリがかなり普及している。デジカメどころか携帯やスマホで手軽に写真が撮れるので、それを添付してメッセージを送れば、かつて絵葉書でやろうとしていた「今、大阪にいます云々」などということは簡単にできてしまうのだ。いや、絵葉書で「今、大阪に〜」と書いたところで、宛先に到着するのはその数日後であり、その時にはもう大阪にいるわけではないハズである。「今、大阪に〜」と書いて文字通りその通りになるのは、メッセージが瞬時に届くメールやメッセージアプリを使った場合である。絵葉書の役割は、もはや外国人向けのお土産くらいしかないのだ。いや、今どきの外国人だって、スマホやメッセージアプリを使いこなしてるから、絵葉書なんて買わないのかもしれないね。
そう思うと、ホント寂しい時代になったものである。
かつて旅行とは、数日がかりだった。交通網が発達していない時には、大阪に行くのに数時間、十数時間をかけていた。だから大阪に行くからには、日帰りや1泊なんかじゃなく、数日の滞在が一般的だった。数日間も不在にする自身の近況を知らせるために絵葉書が活用された。「今、大阪にいます」と書けば、それを受け取った人は送り主が無事に大阪に着いたことに安堵しつつ、楽しんでいる送り主に思いを馳せることができただろう。
この状況が変わったのは、まず新幹線の登場である。最近の新幹線なら、新大阪まで2時間半である。日帰り出張ももはや一般的である。そんな中で葉書なんぞ書いて「今、大阪に〜」と伝えたところで、とっくに戻ってきていたりするわけである。
そして先に書いたメールやメッセージアプリ、デジカメやスマホのカメラ機能の登場である。これにより大阪城に行って大阪城の絵葉書を買って切手を貼って送るよりも格段に手っ取り早く、大阪城に行ってカメラで撮影してメッセージと共に相手に送ることができる。同じ内容を複数の人に送ることも簡単である。
このような状況では、絵葉書がなくなっていくのももはや必然なのかもしれない。でもなんだろうな、手紙や葉書で育ってきたぼくにはイササカ以上に残念な感じである。

 

そんなわけで、絵葉書も官製葉書も買えず、ぼくは新幹線に乗った。
再来週も大阪出張が控えている。今度はちゃんと文房具屋で絵葉書を買うか、いやいっそ自宅にある葉書サイズの画用紙を持っていって、現地で絵なぞを描くか、いや、そんな時間はないか。いやでも、絵葉書を送る文化が滅びつつある中、これからはホントに葉書を自前で用意して、自前で絵なぞ描いて送るなんてことになるかもしれないね。まあそれはそれで楽しいのだけどね。

| 日記 | 09:35 | comments(0) | trackbacks(0)
大阪出張。

今、大阪某所のコーヒー屋でブログを書いている。9時前、ちょうど出勤時間帯である。既に仕事の準備ができていて、10時からの打ち合わせを待つばかりである。つまり1時間以上も時間を持て余している状況である。かなり早めに到着してしまったわけである。
実は本来なら、新大阪で新幹線を降りて、そこから自転車で事業所近くまで向かうハズだった。距離にして6キロほどだから、信号待ちなんかも含めて30分ほどで到着し、30分ほどクールダウンして仕事モードに転換して10時からの打ち合わせに臨むという手はずだった。
この予定を狂わせたのは、他ならぬ天気である。今日から明日、明後日にかけて、日本列島を縦断するように停滞前線が居座り、雨を降らせるんだそうな。雨の予報を前に仕事道具を背負ってサイクリングするのはキツいので、やむを得ず自転車を諦め、だから電車で移動することになり、結果として時間を持て余して約束の時刻まで待機しているというわけである。
自転車を持ってこなかったので、翌日のサイクリングも当然中止である。暗峠のサイクリング(いやウォーキングか)を楽しみにしていたんだけどなー。当初の予定では、大阪から暗峠を超えて奈良に至り、東大寺とか奈良公園とか散策した後に奈良から京都まで電車で移動して、京都から新幹線に乗るつもりだった。サイクリングができないのなら、奈良・京都経由で帰ることもないので、新幹線の時刻を変更して、土曜日は早々に帰途に就く予定である。早めに帰れるなら早くに帰りたい。さきこの調子もまだ悪いからね。
そう、さきこの調子はまだ快復には至っていない。熱は治まったのだけど、喉の痛みや咳が治まらない。特に咳が酷くて、夜になるとゴホゴホが酷くなり、眠れないほどである。さきこが咳をしているのを見ていて、ホント気の毒になる。病院に行って薬を貰って徐々に治りつつあるんだけど、時折咳が酷くなる。予定が変わった以上、こういう状態のさきこを放っておけまい。ここは可能な限り早く帰りたいものである。
大阪出張の機会はまだまだ続くからね。果たしてどんな展開になるやら、不安だけど楽しみでもある。

| 日記 | 09:42 | comments(0) | trackbacks(0)
近況。

さきこの調子が悪い。
2週間くらい前のキャンプから帰ってきてすぐにナゾの体調不良にやられ、一時は体温が39.5度にまで達し、ぼくも会社を休んで病院に付き添ったりしたものである。39.5度もの高熱は、大人になってから一度も経験したことのない。これは驚いたわ。結局このナゾの体調不良は、理由もはっきりしないまま、3日ほどで快方に向かい、その後はいつも通りに会社に行ったりしていたんだけど、一昨日辺りから風邪っぽい状況になっている。キャンプ後の体調不良とは関連がないと思うけど、ここのところさきこの体調不良が続いているので心配である。
ちなみに、ネコたちは、さきこがベッドで伏せっていると、近寄ってきて添い寝などするみたいである。マスクをしていると、マスクを取ろうと爪を出してくるそうな。まるで、さきこの体調不良の元凶がマスクであると思っているかのように「これが体調不良の原因かニャー、取ってやるニャー、この、この」とか言っているようである。
最近は寒くなってきたので、朝方はベッドで寝ているぼくの足元で、身体を寄せ合って眠っている。足元ではなく、顔の方に来てくれればいいのに、コウくんもフクくんもシャイなので、顔の近くでは寝てくれない。ぼくも寝返りを打つ時に無意識に足のやり場に気を付けたりするので、実はなかなか安眠できていないのも事実である。でも、ネコの癒しは何にも代えがたいので、ホントにネコと一緒にいられて良かったなと思う。

 

さて、今週末は久し振りにサイクルイベントに参加する。途中の坂道を上れるだろうかと不安だけど、ぼくには伊豆半島を一周してきた自負があるわけで、ここは気合いを入れて頑張ろうと思う。
また大阪に出張することになり、自転車を持っていこうと画策中である。以前にも書いたけど、今回は暗峠を超えて、奈良の方に行ってみる予定である。修学旅行でしか行ったことのない奈良はどんな世界なのか。ちょっと楽しみである。
ランニングの方もいよいよシーズンが本格化してきた。今月下旬に今季初のランニングイベントがある。ダイエットの効果がどこまで現われるか、ちょっと楽しみである。
そんなこんななので、絵なぞがなかなか描けない。いや、時間があっても気分が乗らない時も多い。自室に入ってくつろいでしまわないで、ちゃんとデスクに向かうようにすればいいのに、つい足を投げ出して、リラックスモードに入り、そんな折にネコが近寄ってきて「ニャー」とか言うと、もうお絵描きどころではなくなってしまうのだ。この悪巡回を絶たないと、いつまでも絵なぞは描けないだろう。書籍も増えてきたので、収納棚が欲しくなってきたところだし、ネコの誘惑にも負けないストイックな感じで自室改造計画を進めないとダメかなー。

 

10月になり、今年も残すところ3か月弱になった。いや、つい先日年賀状を書いたかと思ったら、もう冬である。早いものである。仕事もプライベートも今年度下期を頑張ろう。

| 日記 | 12:17 | comments(0) | trackbacks(0)
昭和62年10月2日。

ぼくとさきこが交際を始めてから、ついに30年もの歳月が流れた。1987年10月2日に部活からの帰り道にぼくとさきこは交際をスタートさせたわけである。あれからもう30年である。時間が経つのは早いものである。まあここ数年はさらにあっという間に過ぎちゃった感じがするけどね。
1987年と書くと、四桁の数字になるから30という数字が随分小っちゃく見えるけど、昭和62年と書くとぐぐっと一層昔の感じがする。来年で平成も終わろうかという中、昭和の時代からさきことの付き合いが続いているわけで、それはホントに長い時間だなーと思うわけである。
ちなみに、来月11月13日はこの交際開始日からカウントして1万1千日目である。ついこの前1万日記念に指輪を作ったと思ったら、あれから早くも1千日、3年弱がが過ぎたわけである。歳をとるとホントに月日の流れが早くなる。この分だと、40周年の記念日もあっという間に来そうである。40年というと西暦2027年である。和暦では平成が終わって、新元号の9年である。うん、今から考えるとなかなかの未来である。さて、そんな10年後の未来にぼくは何を思うのだろう。まだ子供みたいなことを言ってるんだろうなー。まだブログを続けているのだろうか。今と同じく、さきこと仲良くやってるかな。思いを馳せるとなんだか、これからの人生が楽しみになってきた。
そんなわけで、新しい時間がこうしてまた始まったわけである。

| 日記 | 11:55 | comments(0) | trackbacks(0)
野生の証明。

先週末は楽しみにしていたキャンプだった。今回は少し足を延ばして朝霧高原まで行ってみることにした。ネットでの評判も高かったし、以前この辺をサイクリングした際に森の向こうに巨大な富士山が見えて、この景色をずっと見ていられるキャンプができたらなんて素晴らしいんだろうと思ってたのである。
しかし、実際には富士山がキレイに見られるほどの晴天には恵まれず、高速道路を走っていても見えるハズの富士山は雲の中で、さらに昼前に到着した現地では、富士山が見えるエリアは手練れのリピーターらしきキャンパーに既に押さえられていて、ぼくたちはキャンプ場の中を場所を探して右往左往するハメになり、結局富士山どころか、西側に居並ぶ南アルプスの山々でさえ木々の隙間からちょこっと見える程度の場所を選択せざるを得なくなった。事前予約した区画に確実に入れるオートキャンプ場は区画自体がそれほど広くなく、隣の区画がすごく近くなるのが難点で、今回は区画予約のいらないキャンプ場にしたわけだけど、それは要するに早い者勝ちなので、昼前に現地に到着したぼくたちにいい場所は残っていなかったわけである。まあ、スゴくいい場所になったとしても、富士山は見えなかったわけだし、今回ぼくたちが決めた場所は背後が雑木林になっているこもとあって、周囲をキャンパーで囲まれることもなく、まあそれはそれでいい場所ではあったんだけどね。予約不要のキャンプ場は、場所取りが何より重要だということが分かったわ。

 

さて、天気のせいで富士山が見えなかったけど、曇り空とは言え、最後まで雨に降られることはなかったのは良かった。前回のキャンプで夜半から豪雨に見舞われるという、キャンプの楽しみを根こそぎ持っていかれたような展開にならずに済んだ。実は当初の予報では、深夜に1ミリ程度の雨が3、4時間降るとのことで、結局降られなかったものの、この天気予報を見たぼくが「この程度の雨であればキャンプの実施に何ら支障はない」とまったく気にしなかったあたり、前回の大雨の経験でかなりメンタルが鍛えられたことを実感した。ちょっと成長した感じである。

※今回のキャンプサイト。まあ落ち着ける場所になったかな。

 

そんなわけで、悪天候に見舞われなかったキャンプでの最初の楽しみは食事である。今回は夕食に単にバーベキューをするのではなく、少し変化をつけてみることにした。キャンプの夕食でバーベキューに次ぐものと言えば、何と言ってもカレーライスである。大学生の頃に友達とキャンプに行った時もカレーを作ったけど、余り物のベーコンなんかを入れたら、これが非常に美味かったのを未だに思い出す。やはりキャンプの王道はカレーである。最近はあまり食べなくなったから、スパイスの効いた感じではなく、欧風カレーに近いマイルドな感じのカレーが食べたかった。色で言えば、インドカレーのような黄土色のカレーではなく、濃い茶色のカレーである。
前日にスーパーでカレーの素やカレー用の牛肉、野菜なんかを購入し、これを煮て最後にカレーの素を投入しようかというそのタイミングで、とんでもない事実が分かった。
投入しようとしているのは、カレーの素ではなく、なんとシチューの素だったのだ。
スーパーでパッケージが欧風カレーの雰囲気だったものを選んでいたら、その隣に陳列されていたシチューの素を手にしていたというわけである。
まあカレーもシチューも作り方は似たようなものなので、鍋の中にシチューの素を投入すればいいのだけど、カレーライスを期待していたぼくは、自分自身のミスでご飯にカレーではなくシチューをかけて食べるというカレーライスならぬシチューライスを食べるハメになってしまったのである。まあキャンプにはこういうことも起こるし、それが楽しかったりするんだけどね。

※いや、衝撃の事実が発覚したものである。

 

期せずしてシチューを食べるという事故はあったけど、楽しめることもあった。
焚火である。前回は雨のせいでまったくできなかった焚火である。今回はバーベキューで肉を焼く前からちょろちょろ始めて、食後には残った薪をすべて投入して、小さなキャンプファイヤーを楽しんだ。
これが非常に楽しかった。
最初に薪に火を入れたのが17時頃だったと思うけど、そこから夕食のバーベキューなどを経て、23時前までずっとぼくは焚火台の前にいた。夕食後はさきこも火の前に座って、二人でただ燃えるのを見つめていた。
なんだろうな、焚火の火をずっと眺めていて、全然飽きないのである。ココロが安らぎつつも、どこか静かに興奮している感じもあって、今こうして振り返ってみると非常に不思議な感覚だった。
よく言われるのは、原始的な生活を送っていた時の名残りで、ニンゲンは火に安らぎや安心を感じるそうである。遺伝子にそういう性質が刻み込まれているのだそうな。だから寝室などは火の色と同じ暖色系の照明を使うわけである。理屈では分かっていた話しが、こうして実際に火を目の前にして、強く実感できた。ニンゲンは火や炎に安らぎを感じるのである。
興味深いのは、「火は危険である」という動物としての感覚もあるということである。炎が思いのほか大きく燃え上がると、ちょっと危険を感じたりする。それまで和んでいた気持ちがいきなり赤信号になるのだ。この変化はどういう感覚なのだろう。安らぎは副交感神経、危険回避は交感神経なわけだけど、炎の大きさによって相対する神経系の優位が入れ替わったりするのだろうか。その時に脳神経はどういう動きをするのだろうか?
火に安らぎを感じつつ、一方で火を恐れるという相反する感覚をニンゲンがどう制御しているのかが、実はニンゲンと動物を分ける分水嶺になっているんじゃないかと思うと、かなり興味深いね。
火を見ながら、ニンゲンと動物の根源的な感覚に身を委ねているのだった。
ちなみに、炎が発する光を見ていても、あまり眩しいと思わないことに気が付いた。周囲が真っ暗な中、瞳の瞳孔はかなり広がった状態なんだろうけど、その状態で炎を見ても、眩しいとか不快な感じがしないのだ。原始の時代から暗闇と炎のある生活を送ってきた人間だから、目にも炎に関する何らかの仕掛けがあるのかもしれないね。ぼくの身体に動物として、野生が刻み込まれてる証拠なのかもしれない。
ちなみに、この時に飲むワインがハチャメチャ美味しかったのも付記しておく。ぼくもさきこもそれほど量が飲めるわけではなくて、それでもシチューライスやバーベキューの合間に缶ビールを2本くらいは飲んでいた。食後の焚火タイムでは、さらに小さいボトルの赤ワインと白ワインを一本ずつ空けてしまった。それで飲み過ぎた感覚はまったくなかった。まさに何かに憑りつかれたかのように火を見ていたわけである。20本ほどまとめた薪の束が2つあったのだけど、結局これを完全に使い切り、さらにすべてを完全に燃焼させて灰にした。薪の最後の一本を投入する時に感じた寂しさは如何とも表現できない。
焚火をするためだけに焚火をする幸福感。これは焚火を経験した人じゃないと分からない感覚なんだろうなー。また次回もぜひ焚火を楽しみたいと思う。

 

※まだ明るいうちの写真だけど、焚火に向けて準備万端なぼくである。

 

さて、次回は11月を予定している。今季はこれで最後かな。寒くなる時期のキャンプがどういうことになるか、これも楽しみである。もちろん、寒い中で囲む焚火も楽しみである。
ちなみに、次回は少し場所を変えてみようかな。富士山の絶景が見られたり、冬特有のキレイな夜空が楽しめたりする場所を他にも探さないとな。そして、区画のないキャンプ場では、とにかく早くキャンプ場に行くことだろう。快適なキャンプサイトを設置するためには初動こそ大事というわけである。
寒い中、厚着しつつ目の前にゆらめく炎を見るのは、どんな気分なのか、今からとても楽しみである。

※さきこも楽しそうで良かったわ。木漏れ日がタープに映る気持ちいい朝。

| 日記 | 12:39 | comments(0) | trackbacks(0)
迷宮近所。

週末はせっかくの三連休だというのに、出かけることもできず、自宅でネコと一緒にまったりした時間を過ごしつつCSテレビでやっていたアメリカの某連続テレビドラマの一挙放送なんかを観て、気が付くと数時間が経過していたなんて感じで過ごした。
それでも、自宅から一歩も出ずに終わるというのもツマラナイので、さきこと夕食の買い物がてら散歩に出かけることにした。雨の中、二人で傘を差して歩いて出かけるというのも、あまりないことである。天気が良ければ散歩も楽しいけど、雨の中、しかも既に辺りが暗くなった夕方過ぎに出かけるというのも、なんだか変な感じである。
もしかしたら、人知の及ばない何かに誘われたかもしれない。
というのも、夕食の買い物に出かけたハズなのに、近くのスーパーを通り過ぎ、さらに商店街も通り過ぎ、当初の目的を逸してただテクテクと歩き続けたからである。「散歩がてら買い物」が「散歩」に変異していた。雨の降る夕方に散歩とはちょっと奇異というか不可解な行動だけど、ぼくもさきこも特に疑問を感じなかった。

 

バス通りから派生する細い路地があって、何気なく足を向けてみた。住宅地なので、街灯と住宅から漏れる僅かな灯りが道を照らしていた。車道の喧騒を離れ、傘に降る雨音を聞きつつ、少し坂道になっている道を上っていく。
坂は次第に急になり、道幅も狭くなっていった。ぼくが住む近所にはこういう場所が多いのは知っていて、このまま袋小路になる場合もあれば、どこかで大通りに出たりすることもある。実家のある場所に近く、小中学校ではこの辺りを通って通学していたさきこだけど、この路地は初めて通るようである。暗い中だから余計に土地勘が働かないのかもしれない。
坂道が唐突に終わり、その先は急な階段になっていた。これもなかなか急な階段である。手すりがあるけど、気を付けないと足を踏み外したり、バランスを崩してしまうかもしれない。このまま住宅に突き当たるだけかもしれないけど、後ろから大きなバッグを提げた学生がぼくたちを通り過ぎてこの坂道を上っていったので、きっとこの先にも道が続いているんだろうと判断して、ぼくたちも階段を上ることにした。
先日も散歩したけど、ぼくの住む街は想像以上に広大な住宅地である。その中を複雑に入り組んだ路地が縫っている。40年以上この辺りに住んでいるさきこでさえ知らない道があるのだ。
階段を上ると、まったく知らない景色が広がっていた。見知った建物が遠くに見えたり、眼下にバス通りが通っているのも見えたのだけど、初めての光景である。近くに町内会の地図が掲示してあったので確認すると、その先は大きな公園とそれに隣接する駅に続いているようだった。公園も駅もぼくやさきこが何年も前から利用してきたものである。よく知った場所に繋がっているのだから安心して先を歩き始めたのだけど、周囲はどんどん不気味な感じになっていく。
雨なので道に人影はなく、雨音が妙に大きく聞こえる。家には明かりがついているけど、なんだか生活感はない。まさか変な場所に迷い込んじゃったりしてないよなーなんてオカルト的なことを考えつつ、道は公園に続いていた。左手は急な斜面になっていて、そのため視界が開け、バス通りを見下ろしつつ、視線を上げると遠くにみなとみらいのビル群が見えたりした。なかなかいい景色である。しかし一方で右側は、深い竹やぶが迫っていた。暗い竹やぶの竹と竹の隙間に深い闇があり、吸い込まれそうな感じすらする。この闇に何かが潜んでぼくを見ていたりしてね・・・なんて、さらにオカルティックな思考に囚われつつ、公園の道に入っていく。この先に駅があるのは分かっているんだけど、それが信じられない。暗いし生活感を感じない。路上に置かれた何台かの自転車も雨に濡れているからか、ずっと前からここに放置されているかのようにも見えた。それにしても、この辺に住んでいる人たちは、この道を駅への近道として普段から使っているのだろうか。帰りが遅くなった日にゃちょっと勇気がいるよな。そう言えば駅にはコンビニも銀行も立ち食いそば屋もあるので、帰宅前に済ませたいことはある程度済ませることができるわけで、つまりわざわざ遠回りして用事を済ませなくても、駅で用事が済んでしまう。そうなれば、あとはこの暗い道を通って帰ってこざるを得なくなるわけである。深夜とか雨の降る夜は通りたくないものだな。
公園に入ったものの、何度も来たことのある公園なのに、見知った道に出ることもなく、しばらく歩いてやっと見知った道に出た。とは言え、雨の夜に来たことなんかなかったので、見知った道に出てもどうしても違和感があって、完全に記憶と符合するのにちょっと時間がかかった。駅に繋がる階段を降り始めてやっと安心した。
冒頭に感じたように、何かに誘われたのかもしれないね。まあ無事に帰宅できて良かったわ。

 

先に書いたとおり、ぼくが住む街には、まだまだ知らない路地がたくさんある。何度も来ている公園にしても、これに繋がる路地は他にもたくさんあって、そのどれもが未踏破の道である。またこの公園の脇にはなぜか温泉旅館が営業していて、これも深い竹林の先にあり、敷居が高いのかどうかも含め、未知のゾーンになっている。
ぼくがこの辺りに住むようになって20年くらい経つけど、まだまだ知らない場所は多い。40年住んでいるさきこが知らないというのは、さすがに迷宮の度が過ぎているとは思うけどね。
休日は遠くに出かけるのもいいけど、近くで散歩するのもなかなか楽しいものである。でも、不思議で不気味な体験はもう結構かな。

| 日記 | 12:42 | comments(0) | trackbacks(0)
クイズ番組に思うこと。

自宅にいてふとテレビをつけるとクイズ番組を放送していた。
ぼくはクイズ番組が好きである。近頃はいわゆるオーソドックスなクイズ番組ではなくて、物凄く簡単な問題を出題してそれが解けない芸能人のリアクションが楽しいとか、逆に紙と鉛筆がないと絶対に解けないような超難問を出題して、それをすらすらーっと解いてしまう一般参加の回答者を見て、スゲー!と思わせつつ、そんなスゴい回答者が何人も競い合う中で誰が勝ち残るのかをワクワクしながら応援したりとか、いろいろ趣向を凝らした番組が増えてきた。
ぼくはいわゆるオーソドックスなクイズ、出題者が問題を読み上げ、それを早押しで答えるみたいなクイズが好きである。そう、アメリカ横断ウルトラクイズとか高校生クイズみたいな感じが大好きだ。
ぼくはそんなクイズ番組を見ながら、テレビの出演者と一緒に答えを考えたりして楽しむ。ぼくが出した答えと同じものをテレビの中の早押し回答者も答え、それが正解だったりすると、とても嬉しい。クイズ番組で正解の時に鳴るピンポンピンポーンって電子音は、もうほとんど条件反射のようにぼくの脳内にエンドルフィンをどばどば分泌させるのだ。ぼくの至福の瞬間なんて、クイズ番組があればなんともお手軽に手に入るものなのだ。
でもこれはおそらく一般的にも言えることだろう。つまり、ぼくと同じような楽しみ方をしている人はたくさんいて、いやそもそもクイズ番組とはそういう風にして楽しむものなんだろうと思う。
しかし、先に書いたようないろんな趣向を凝らしたクイズ番組が出てきたことで、ぼくが考える「クイズ番組の楽しみ方」は本当にそうなのかな?と思うようなことがある。もしかして、クイズ番組の出演者と一緒にクイズに答えたり、それこそ出演者が早押しするよりも早くに答えを出しちゃったりするのは、一般的な楽しみ方ではないのかもしれない。最近は「超難問」とか「正答率5%」なんて表示があるクイズもあって、これに答えられたりすると快感もより一層大きいのだけどね。
いやいや、ぼくはクイズに答えられる自分をひけらかしたいわけではない。もちろん、テレビのクイズに答えられたら、そりゃもう気持ちいいけどね。だからと言って、クイズ番組で出演者よりも早く回答を答えられる自分を、あえてブログでひけらかすことではない。純粋にクイズ番組の楽しみ方ってどういうものなんだろうと思うわけである。

 

以前、こんなことがあった。
ぼくの自転車仲間でとあるイベントに参加した時のことである。イベントを翌日に控え、一緒に参加するメンバーと旅館の同じ部屋に宿泊することになった。旅館に着いたのは夕方近くだったけど、部屋に入るなり缶ビールを開けちゃう人や寝転がってしまう人なんかもいる中、ある人はテレビの真ん前にどかっと座ってテレビにかじりつくように見入ってしまった。いわゆるテレビっ子というヤツか。ぼくも分からなくもない感覚だけど、その人がテレビを観ながらテレビに向かって喋っていたのには驚いた。
どんな番組か忘れたけど、おそらく夕方のニュース兼情報番組みたいなものだったのだろう。「〇〇動物園でゾウの赤ちゃんが生まれました〜」みたいなニュースに「へー、そんなんだー」とか言ってる。呟くにしては少々声が大きい。ほとんどテレビと会話してる感じである。いや、テレビと会話する人ってウワサでは聞いたことがあるけど、ホントにいるんだなー。
テレビでは、既に別のニュースに話しが移っていて、ちょっとしたクイズっぽい展開になっていた。クイズというほどのものではなくて、アナウンサーが何気なく視聴者に問いかけるような感じになったわけである。例えると、こんな感じである。
「今日の関東地方は暑かったですねー。太陽の活動が活発だったのでしょうか?ところで、太陽って何が燃えているかご存知ですか?」
いや、あえて問いかけに答えるまでもない。ごくごく一般常識である。時間帯を考えると、夕食を待ってダイニングでテレビを観るお父さんと子供みたいな風景を想定しているのかもしれない。親子の会話を誘発するには、ちょうどいい感じの投げかけである。ぼくはテレビを観ていなかったけど、この方がテレビと会話してる感じが面白くて、耳だけはそちらに向けていた。彼はなんて言うのかな。
「それはですねー、ヘリウムなんですねー。あの吸い込むと声が変になっちゃうあの気体ですよ」
彼の回答を待つまでもなく、アナウンサーが回答を出してしまった。まあ一般常識だから、彼もあえて口にすることはなかったのだろう。さすがにぼくよりも年上のオトナなんだから、ずっとテレビと会話してるわけでもあるまい。
しかし、次に聞こえてきた彼の声に、ぼくは思わず顔をあげてテレビの方を見てしまった。
「へぇーそうなんだ」
知らなかったんかー!
驚いてテレビの方を見ると、先ほどから変わらずテレビの前に陣取った彼の背中があった。
実際にこのエピソードは2年くらい前のことなんだけど、本来の目的であった自転車関係のイベントと同じくらい、この時の光景をありありと思い出せる。ぼくにとってはかなり意外なデキゴトだった。
ちなみに、彼は超有名な某企業のとある部門の責任者である。だからスゴい人なのだ。普通に生活してたら絶対に知り合えないレベルの人なのだ。落ち着いた雰囲気で当然頭もいいだろうし、話していても理知的なオーラをびんびん感じさせる人である。そんな人が、太陽でヘリウムが燃えていることを知らなかったのか。
世の中には、勉強ができて、物凄くいい大学に行って、そこで好成績を修め、企業に入っても仕事をバリバリこなして、どんどん出世していく人なのに、雑学的なものをまったく知らないなんて人がいるそうである。雑学にまったく興味がないという人である。世の中の不思議なことなどにはまったく興味がなく、人生で成功するために必要なことにのみ興味を持ち、その方向にのみ能力を発揮するような人。彼がそういうタイプかどうかは分からないし、ぼくにはそうは思えない。あまりにも衝撃的過ぎて、実はあのデキゴトは、旅館の部屋でまったりと過ごす自転車仲間に対して会話のきっかけを作りたかった彼のハイレベルな「振り」だったのかもしれないとすら思ってしまう。

 

こんな衝撃的なデキゴトがあったので、クイズ番組を見ている視聴者のどれくらいが、ぼくと同じように番組に参加してる気分でクイズに回答しているか分からなくなった。もしかしたら、出題されるクイズとそれに続く早押しの繰り返しをただ漫然と眺めているだけなのかもしれない。一緒にクイズを楽しむという人は、実は少数派なのかもしれない。いやいや、そんなわけはあるまい。一家団欒でクイズを観ながら、出演者と同じかそれよりも早くに回答しちゃうお父さんがいて、それを尊敬の眼差しで見る子供がいるなんて風景が日本のどこにでもあるんじゃないかとやはり思う。もしそうでないのなら、ぼくはクイズ番組に出演するべきだろう。結構いいところまで進めるんじゃないかな。
ぼくはクイズ番組を見る時、出題された難問に難なく回答できたことをさきこから感心されて、大量に分泌された脳内麻薬に酔いしれつつ、一般常識的な問いかけに答えられなかった衝撃的なデキゴト、旅館の小さなテレビの前に座るあの背中をいつも思い出すのだ。そして分かってはいるけど、ぼくがこうしてクイズ番組を楽しむことと同じ風景が、この瞬間に日本の中でどれだけあるのだろうかといつも考えてしまうのである。

| 日記 | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0)
冷凍庫を巡る困惑。

ぼくの仕事のひとつに、従業員からあがってくるいろんな要望を実現したりする仕事がある。
「仕事でこんなことをしたいのでこれを買ってくれ」などという要望である。携帯電話が欲しければ買ってやり、コピー機が必要なら買ってやる。業者と契約して要望を実現するなんてこともある。
もちろん、仕事上の必要性や効率を考えて、コストパフォーマンスに見合ったものを導入するようにはしているけど、基本的には要望自体にとやかく口出しはしない。なぜなら要望と彼らの仕事には、説明するまでもなく明確な相関関係が見えているからである。コピー機が欲しいのはコピー機で実現したい仕事上の必要性があるのはぼくも分かっているわけである。
しかし、ある日寄せられた要望には、少なからず困惑した。
「仕事で使うので、冷凍庫を買って欲しい」

 

ちなみに要望してきた部署の仕事は、いわゆる一般的な事務仕事である。デスクに座ってパソコンを操作したり電話をかけたり受けたり書類を処理したりする仕事である。一般のユーザーが書いた申込書なんかを処理したりする仕事もしていて、この仕事のどこにも冷凍庫が必要な場面はあり得ないと思われた。なんだろう、社員のモチベーションアップのためにガリガリくんでもストックしておくのか?
「いや、実は、フリクションボールペンの文字を復活させたいんです」
つまり、冷凍庫が必要な理由はこうである。一般ユーザーから申込書が来るんだけど、処理を始める前にまずこの申込書に受付番号を印字をしたい。印字はいつも使っている複合機のレーザープリンタを使うのだけど、印字の過程で複合機が紙に熱をかけるので、もし申込書がフリクションボールペンで書かれたりすると、熱のせいで無色化されてしまうのだ。無色化してしまった申込書を元に戻すために、冷凍庫に入れることにしたい。だから冷凍庫が必要というわけである。

 

・・・なんだろうな、話しを聞いた瞬間に頭に浮かんだのは、穏やかな海の水平編から違和感という名の物凄い大津波が立ち上がって物凄い勢いで押し寄せてくる映像だった。いや、物凄い違和感である。なんだこのクラクラするほどの違和感は。フリクションがどうのとかいう以前に、仕事で冷凍庫を使う理由がさっぱり分からない。なんだか仕事のイロハがまったく通じない、異次元の新入社員と話しているような感覚である。この要望にはどこからどうツッコんだらいいのか。
ちなみに説明するまでもないかもしれないけど、フリクションボールペンで使われるインクは、高熱に晒すと無色化する。専用のラバーでこすると摩擦熱で紙面が高温になり、まるで消しゴムで消したかのようにインクが見えなくなるのだ。一方で、これは裏ワザ的な感じだけど、マイナス10度程度の環境下に一定時間置かれると、無色化したインクが現われる。高温で無色化し、低温で復活するという温度による可逆性の溶剤を使っているというわけである。

 

結局、彼らには仕事のフローをもう一度見直して、冷凍庫なんか使わなくてもいい方法を考えてもらうようにお願いしたけど、なんていうか、どういう思考回路で書類を冷凍庫で冷やすなんて発想が出てくるのか、理解に苦しんで困惑した。そもそも冷凍庫は書類を保管するために作られたものではないし、フリクションボールペンだって熱によって無色化したものをさらに低温に置いて復活させることをそもそも想定して作られたものではない。「消せる」ことを売りにはしているけど、「復活する」ことはあくまで傍流、裏ワザの世界なのである。
フリクションインクを無色化して復活させるのを正式な業務フローにしている会社なんてあるのだろうか。なんていうか浅慮の極みというか、もっとはっきり言えば、あまりにもバカバカしい話しである。

 

たしかになんでもかんでもフリクションボールペンで書く輩は多い。書き損じたらゴシゴシこすって消すことができるし、インクの発色もいいので、見た目としてはキレイに書けそうである。しかしこういう輩は、書類が高熱にかかって消えてしまうリスクをまったく考えていない。だから大事な書類をフリクションボールペンで書く事例が後を絶たないそうで、たとえば役所なんかでは非常に苦労していると聞く。婚姻届をフリクションボールペンで書く若いカップルがいるなんて話しを聞いたことがある。また、郵便の宛先や履歴書をフリクションボールペンで書く人もいるそうな。
履歴書や封書の宛先をフリクションで書いたとして、夏の炎天下のポストが一体何度くらいになるか知らないけど、または郵便物を輸送中のバイクやトラックが何度くらいになるか知らないけど、場合によっては真っ白な封筒の中に真っ白な履歴書が入ってるなんてこともあり得るかもしれないのだ。そういう危険性を分かっていない人もたくさんいるんだろう。いや、もしかしたら、郵便局には、既に冷凍庫が常備されているのかもしれない・・・なんてね。
そもそも冷凍庫で冷やしても、高温で消えた文字ばかりか、筆記者が書き損じて消した文字だって現われちゃうから、返って判読できなくなる恐れだって高いのにね。

 

それにしても、フリクションボールペンを開発した某メーカーはこういう状況をどう思っているのだろう。
これほど爆発的に普及し、同時にリスクも増大している中、どうして企業として注意喚起しないのだろう。いや、ボールペン自体に小さな文字で注意書きが書いてあるのは知っているけどね。それでも、重要文書をフリクションボールペンで書く事象が現に起こっているのだから、企業として指をくわえているのはどうなのかと思ったりする。たとえば、近年になって社会問題化しつつある自転車が関係する交通事故なんかでも、自転車メーカーがもっと注意喚起があってもいいんじゃないかと数年前から思っている。社会問題が深刻化して、何人もの人が交通事故に遭ってから企業が重い腰を上げるのはどうなのよと思うわけ。いや、実際には今現在でもなお自転車メーカーは目立った注意喚起にまで動いてはいないけどね。フリクションボールペンを取り巻く環境も、これとなんだか似たような状況になりつつあるなーと思うのだ。
これは完全にぼくの想像であり妄想だけど、フリクションインクは筆記用具メーカーの中ではほとんどタブー的な存在だったんじゃないかな。紙に書いたものを消す道具というのは、たとえば消しゴムのように紙に載った炭の粒子をこすり取るとか、修正液のように不透明の白いインクで上塗りするとか、砂消しゴムのように紙自体を薄く削り取るというものだった。それはどれも「書く道具」と「消す道具」という2つの別個の存在が必要だった。
しかしフリクションインクはインク自体に消える要素が内包されている。それまでの筆記用具とはその根本の原理が異なるのだ。これが最近になって開発されたというけど、どうだろう。もしかすると、インク自体は何十年も前に開発されていて、しかし筆記用具メーカー各社は彼ら自身の矜持としてこのタブーを犯さないよう、消せるインクをあえて売り出さなかったんじゃないだろうか。
いくつかの溶剤を混ぜることで、さまざまな特徴を持つ溶剤を作れる化学の世界において、ちょっとした温度の違いで無色化したり色が現われたりする溶剤を作るのは比較的簡単なんじゃないのかという気がする。これをインクにして、筆記用具にするのもシロウト考えだけど、容易なような気がする。しかし従来の消しゴムや修正液や砂消しを維持し、見かけ上技術革新がないように偽っていたのは、書く能力と消える能力を併せ持つ自己矛盾のようなインクの普及をあえて避けてきたからかもしれない。筆記用具メーカーとして生み出してはいけない技術、開けてはいけない箱のような存在だったのではないだろうか。消せるインクが世の中に出回れば、大きな混乱を引き起こすことを、メーカー各社はあらかじめ分かっていたわけである。
最近は業界を問わず、従来のタブー視されてきた不文律をあえて打ち破って旧態依然とした業界に新風を吹き込む動きが顕著である。古い人間なら眉をひそめるような破天荒な行動が、新たな時代を切り開くこともある。消せるインクの普及はまさにそういう破天荒なムーブメントの一例なのかもしれない。ぼくやぼくの会社の人たち、あるいは役所や郵便局の人たちは、この大きなうねりに飲み込まれて翻弄される小舟のようなものなのかもしれない。
そしてこれに抗って、旧来的な価値観に固執しているようでは、新しい時代を歩んでいけないのかもしれない。
そう思うにつけ、事務所に冷凍庫を導入するのも実は正しいことなのかもしれないね。いやいやとてもそうは思えないけども。結局はガリガリくんをストックするのに使われちゃうんじゃないの?なんてね。
そんな妄想を暴走させるデキゴトだった。

| 日記 | 20:43 | comments(0) | trackbacks(0)
ナーーーーッツィゴンニャーーーー!

劇団四季の「ライオンキング」を観てきた。
会社で取り扱うチケットの余りがたまたま出て、社員に配布する話しがあったのだけど、その争奪戦に負け、でもいつかは観てみたいと思っていたので、チケットを購入してさきこと観てくることにした。久し振りの観劇である。

 

とても楽しい芝居だった。
役者がスゴい。その演技力、表現力に感動した。
アフリカのサバンナを生きる動物たちの躍動感の表現に息を飲んだ。動物をかたどった人形を動かしたり、顔の上に仮面があったりと、決して動物そのものには見えないのだけど、これを役者の表現力がカバーしている。いやカバーというか、役者の表現力をあらかじめ見越して、最初から動物には見えない造作をしたんだろう。つまり劇団四季ほどの役者だからこそ、動物の人形や仮面に生命力を宿らせられると言える。
たとえば、空を鳥が飛んでいるシーンで、長い棒の先にやじろべえのように2羽の鳥の模型がくっついてて、棒を回すことで、2羽が旋回しているように見せるんだけど、この棒を持つ役者は、別に目立たない格好をしているわけではない。黒子(くろこ)のように見えないお約束になっている格好ではなく、何やら民族衣装をしていて、それは決して目立たない格好なわけじゃないんだけど、鳥の模型の動きはもちろん彼の独特な動きもひっくるめてすべてが鳥が旋回している動作になって見えたところがスゴいのだ。
こんなところに、演技力の幅があらかじめ計算された、模型の「それっぽく見えなさ」が現われているようだった。
もちろん、その絶妙さは観る側の読解力による部分が大きくて、旋回する鳥にしても下で操作する人の動きがどうにも気になって鳥には全然見えない人もいるだろう。ぼくはチーターやインパラの表現がどうしてもそう見えなかったな。表現する動物に対して役者がどういう関係なのか、黒子なのか、動物そのものなのか、一部が動物の形態模写なのかが統一されてなかったのも、ちょっと気になったかな。

 

舞台装置もスゴかったな。ワイドはさほどではないけど、奥行きがかなりある舞台で、様々な幕が上から降りてくるので、場面転換や背景の表現が豊かだった。らせん状にせり出してくる階段や舞台の奥側全体が斜めにせり出してくるのもなかなかスゴい。
こういう舞台装置は、大学生時代に某大学の劇研がやっていた手法で、おそらく彼らが四季の舞台を真似したんだろうけど、だとすれば随分昔からある舞台装置の手法なんだなーとも思った。いや、こういう舞台装置を見ると、某大の劇研を思い出すので、なんだかなーという感じもした。

 

役者の表現力にしても、大掛かりな舞台装置にしても、当然ながら非常に高いレベルにある劇団四季が、オーソドックスなディズニーストーリーを演じているところに若干のギャップを感じた。たとえばディズニーのストーリーではお馴染みの「ヤジさん、キタさん」的キャラクターを登場させて、無理やりコメディにしなくても良さそうなものだけどね。いや、芝居にコメディは必要だと思うけど、わざわざディズニーのテイストを持ってこなくてもいいのにな・・・って、それがないとライオンキングとは言えないか。
その他にもいろいろ感じたけど、やはり芝居を観るのはいいものである。舞台を飛び回る役者を見ていると、不思議と元気をもらえる。同時に彼らの表現に認識力がシンクロしていくような感じで、音楽とはまた別の感覚が研ぎ澄まされる感じである。また劇団四季の芝居が観たいな。今度は動物の形態模写ではなく、ニンゲンがニンゲンを演じるような普通の芝居が観たいものである。

※大井町にある劇場。

 

※ちなみに、公演開始時刻に間に合わせるために。仕事を放り投げて出てきてしまったから、この後に会社に戻って仕事道具を持って帰ったり、そのために品川から雨の中、会社までドライブをせにゃならんかったりと、ずっとバタバタしていた。さきこを引っ張り回すことになって悪かったな。

| 日記 | 08:45 | comments(0) | trackbacks(0)
夢想の地平面
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