オクターブアップ!

「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
スカイ・ハイ。
「パイロット・イン・コマンド」内田幹樹著を読了した。
10年以上前のミステリー大賞受賞作である。内容的にはジャンボ旅客機で発生するハラハラドキドキなストーリーで、これを実際のジャンボジェット機のパイロットが書いたものということで、しゅんすけはかなり期待して読み始め、その期待を裏切ることなく読了となった。専門的なことも分かりやすく書いてあるので、気楽に読める本である。

ところで、しゅんすけは往年の読書ペースが完全に狂ってしまってホントに本を読まない人になってしまった。知識レベルは身近に起きたニュースを知ってる程度まで落ち、読み物と言えば新聞とか気になるブログとかそういったものになってしまった。いつぞやのように読書した内容を自分の脳みそに刻むようなことはなくなってしまった。本屋に行っても興味をそそるネタがあまり転がってないというのが大きな理由だけど、ニンゲンたるもの、興味は全方位でなくてはならないと思うにつけ、読書しなくなったのは完全にしゅんすけが怠慢なだけなのである。
そんな中でも小説としてはいくつかの本を読んでいる。
それでも「これは?!」という本はなかなか巡り会えていない。某人気ブロガーが推薦する小説などを読んだけど、全然琴線に触れなかった。せっかくアマゾンで取り寄せたというのに全然面白くなかった。(ブロガーご本人は世田谷図書館で借りてきたと言っていたので、つまりブロガーの方よりもコスト効率が悪いということだ)

この前さきこと品川で待ち合わせることになり、しかも少々時間があったので、品川の駅前のウイングに行ってみることにした。信号を渡った先にあるのがしゅんすけが大学生時代から行っているウイングである・・・とその前に、京急ホテルって完全に撤去されてしまったんだなー。ホテルの閉鎖に際しては従業員と経営者の間でいろいろと悶着があったようだけど、今や建物そのものが取り壊されてしまった。しゅんすけが大学に行くのに乗っていたバスの停留所がこのホテルの先にあって、何度もこの横断歩道を渡り、このホテルの前を過ぎてバスに乗ったものである。このホテルの古めかしくも何となく高級感のある雰囲気が好きで、1階に並ぶレストランにはいつか行ってみたいと思っていた。寂しいものである。
さて、ウイングの2階にはくまざわ書店がある。よくある小さな本屋さんである。以前はCDショップと併設されていて非常に広かったんだけど、かなり縮小された感じで今なお営業を続けている。そしてこの本屋さんでさきことの待ち時間を潰す中で、「パイロット・イン・コマンド」を発見したのである。う〜ん、この作者の本はしゅんすけは以前読んだことがあるかもしれない。あの本は旅客機の運行や操縦なんかにかかわる小ネタをエッセー風にまとめた作品で、しゅんすけが持っている飛行機の知識のおよそ60%ほどはその本から得たものなんだけど(残りの部分についてはまた別の機会に)、この作者と同じかどうかは忘れてしまった。小さな本だったので、自宅のどこに収納したのかもはや分からない。ま、同じ人でもそうでなくても気にしないのだ。とにかく実際に飛行機を操縦していた人が書いたストーリーにはこれ以上ないほどの真実味があるはずである。
真実味というかリアリティは確かだった。しゅんすけはまだ飛行機の操縦はしたことがないので、書かれた記述がどの程度現実に近い表現なのか分からないけど、真実味というか臨場感として迫ってくるほどの確固とした筆致があった。特にストーリーが急展開する後半部分には、そのスピード感とリアリティのバランスがとても良かった。
ただし難点というか、こういうリアリティのある表現をするには、最初っから一貫してそういう表現・描写をして読者を引き込んでおかなければならないわけで、飛行機を操縦する描写の時には感じなかったことが例えばコーヒーを飲むシーンなんかでもナニかと勿体つけた感じの描写になってしまってて、これが下手なハードボイルド小説(そういや最近そういう言葉聞かないね)のようで気になった。これはその後の表現効果のためにはしょうがないことなんだけど、冒頭辺り鼻がムズ痒くなるような感じである。またミステリーということで、当然謎解き的展開があるわけで、そのために冒頭を過ぎた辺りから布石を打ったり、伏線を張ったりするわけだけど、その布石や伏線が多すぎた感じである。伏線を張っていたものの、結局本筋とはまったく関係なくて、エピローグの部分でさらっと回収して済ませるようなのはなんだかなー。すべての伏線が展開にかかわってるってのもデキスギな感じだけど、伏線がありすぎるってのもどうだろう。
しかしそれは細かい点であり、展開を俯瞰すれば、飛行機の操縦とアクシデントの進行、謎解きが同時にバランスよく調和していると感じられた。登場人物も当初は多すぎかと思ったけど、結果的には絶妙なバランスだった。
それにしてもこういうお話しこそ、ショウビジネスとして向いていると思う。だからテレビドラマとか映画にしたら絶対面白いと思うんだけど、と思う反面、これをたくさんの人が見ると逆に不安を煽ったり、不快な思いをする人も多そうで、やはり小説にしておくくらいがちょうどいいのかもしれない。
※この小説の影響もあって映画「ハッピーフライト」が制作されたという話しは後で知った。やっぱ航空機を巡るお話しってのはドラマとしてはいつでも面白いものである。

ところで、航空業界の関係者もそうだけど、「手に職がある人」っていいなーと思う。子どもじみた羨望というか憧れが単純にある。ある事態、状況に陥った時、それを収拾できるのは専門職の人間だけである。飛行機にトラブルが生じた時、これに対処できるのは航空関係者だけである。同様の状況は、医療の世界にもあって、ドラマなんかで飛行機に乗ってる時にトラブルが発生して「お客様の中でお医者様はいらっしゃいますか」なんてシーンがあるけど、未だにこういう展開にワクワクしてしまうほど、しゅんすけの中にはこういった職業の人への純朴な憧れがある。そう思うにつけいつも想像が広がってしまうのだけど、しゅんすけが以前音楽関係でお付き合いさせていただいた人の中に、航空関係者の方がいて、その人たちだって普段はただの人でしゅんすけと何ら変わらない振る舞いをしているんだけど、飛行機に乗っている時に非常事態が発生した際には、スススッと進み出てテキパキと事態収拾に向けて協力を惜しまない振る舞いを見せるんだろうな。一般人からスーパーマンへ、いわば「変身」する姿を彼らに当てはめるだけで、こっちのドキドキが止まらないのである。
そんなしゅんすけなので、この著者の作品は読んでみようと思っている。
| 読書感想文 | 12:55 | comments(0) | -
みんな野球が好き。

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」岩崎夏海著を読んだ。
JR品川駅の駅ナカにある本屋は、駅ナカの本屋にしては、いい本に巡り会わせてくれる。以前にもこの本屋で何気に手にした本がしゅんすけにとって非常に有意義な本だったりしたことがある。逆に地元のツタヤなぞは、どんなに足繁く通っても「これぞ!」という本に出会ったためしがない。

今回の本は最近かなり話題になっている本である。しゅんすけはこの特徴的な書名を話題になるちょっと前から知ってはいたんだけど、どうにもそのノリの軽さが気になって手に取る気にはなれなかった。大きい本屋の理学系コーナーで最近よく見かける「萌え系微分積分」とか「萌え系相対性理論」とかの本と同じ匂いがしたんだよね。マンガのキャラクターに微分積分教わってもなぁ・・・。
しかし実際読んでみるととても面白い。
しゅんすけはドラッカーの著書は一切読んだことはないんだけど、それをこの本が分かりやすく書いてくれているんだと思う。あまりビジネス書を読まないしゅんすけにはいい経験だったかもしれない。
しかし、読了にあたってしゅんすけは、この本が教えてくれるドラッカーの「マネジメント」に関する教えよりも、ストーリーの方に大きく感銘を受けた。正直なところ、予想外に感動的だった。実際読んでいてウルウル来そうにさえなった。ビジネス書的な要素があり、しかもストーリーテリングとしてはお世辞にも上手いとは言えない筆致にもかかわらず、しゅんすけは何かにココロ打たれてしまったのだ。
いろいろ考えるに、きっと題材となっている「野球」にその原因があるんだと思う。野球はやはりドラマチックなスポーツなんだ。実際の試合だけじゃなく、野球を取り巻く環境そのものがドラマチックなんだろう。たとえば、この本の題材がサッカーだったり、バレーボールだったり、ハンドボールだったとしたら、ここまで大きな感動はないかもしれない。いやいやサッカーもバレーもハンドボールも野球に劣らず魅力的なスポーツであるわけだから、これは逆にいえば、「野球に感動を誘発される特別な思考回路」が備わっていると言えるのかもしれない。これは野球に詳しくないどころか、どちらかと言えば野球が好きじゃないしゅんすけでさえそう思うんだから、日本人の国民性というかDNAとも言えるのかもしれないね。
「九回裏、3−2、二死満塁、一打サヨナラのチャンス」・・・と聞いて1ミリもドキッとしない人はいないんじゃないかね。・・・ってかこれを聞くだけで、何のスポーツをやっていて、どれほど緊迫している状況かを把握できるって逆にスゴいよね。サッカーやバレーではいくら馴染みのあるスポーツとは言え、こうはいかないと思う。そういう点でしゅんすけを含めた日本人に「野球」が染み込んでいるのだ。
今回の本は、前述のとおり、ストーリーテリングとしてはお世辞にも上手いとは言えない筆致なんだけど、プロットというか展開はとても良いと思う。このレベルの小説が書ける人なのだから、この上手いとは言えない筆致自体も実は読みやすくするために故意にそうしているのかもしれないとさえ思ってしまう。実際著者はいわゆる業界の人なのだし。
そもそもビジネス書で読書感想文を書くことになるとは思わなかったし、書くつもりもなかったんだけど、後半のストーリー展開があまりにもスゴかったのでぜひ書かねばと思ったのだった。
いずれにしても最初手にした時には想像しえなかった有意義さがこの本にはあった。品川の駅ナカ本屋で結構迷ったんだけど、購入して良かったと思う。実際分かりやすい本なので、遅読のしゅんすけでさえ3日で読めたくらい。次は実際にドラッカーの「マネジメント」を読んでみるかと思いつつ、やはりビジネス書を読むのは未だにどうも気が引けるなーと思う宵なのであった。
| 読書感想文 | 23:51 | comments(0) | -
自転車レースのリアリティ。

「エデン」近藤史恵著を読了した。
この小説は自転車ロードレースの最高峰・ツールド・フランスを舞台にした小説である。しゅんすけはこの著者の前作「サクリファイス」も読んでいて、とても良かったと感じていたから、今回の作品もかなり期待して読み始めた。
でも、この著者にとって自転車ロードレースに関する小説は2作目にあたり、もしかしたら「2作目のジンクス」であまり面白くないかもしれないとの懸念もあっ。このブログにも何度か書いていることだけど、音楽にしろ絵画にしろ小説にしろ何かしらの作品を創り上げる作業において「2作目」というのは、あまりいい作品にならないというジンクスがあるらしい。中学校の時に吹奏楽部の先生に聞いてからずっとこのジンクスが心のどこかにあって、しゅんすけが何らかの創造作業をする際にはどうしても「2作目」とか「2回目」というのが引っかかることがある。その点では前作よりも面白くないかもしれないと思っていたのだけど、結果的にはまったくその心配は無用で、前作よりも格段に面白い内容になっていた。
ミステリー的な要素はかなり色薄くなりつつ、自転車レースの臨場感や選手の思いなどのウエイトはかなり大きくなっていた。これが読み進めるに従って「手に汗握る展開」になっていく。この手に汗握る展開は、後半になって一気に加速していき、チャプター2つ前で最高潮になる。そして作者お得意の急転直下な結末は最後のチャプターで待ち伏せしていて、前作同様大きなインパクトを受けることになる。この辺のプロット構成はやはりスゴいなと思う。淡々と語られる個々のステージの展開が、いつしか大きなウネリに取り込まれ、後半にぐぐぐっと加速していく様は、さながら自転車レースの展開のようである。そして何よりツール・ド・フランスをよく知っているからこそ、ツール・ド・フランスの雰囲気を損なわない程度にオリジナルのストーリーが描けるんだと思う。この作者は自転車に乗ったりするのかなとふと思った。専門家や選手にヒヤリングした程度では掴めないようなリアリティがあって、それが無理なく文字に表現されるなんて、ただ机に向かってカリカリやっているレベルでは到底辿り着けないハズである。
(自転車に乗る方だとしたら、どんなスタイルで乗るのだろうか。女性の自転車人口が増えてきたとは言え、これほどリアリティのある記述ができる作家がどんなスタイルで自転車に乗るのか非常に興味のあるところである)

ところで、ミステリーの部分が色薄くなっていると書いたけど、もともと前作も含めて「ミステリー」というほどミステリーな内容ではない。ただ物語の中で提示された疑問が、衝撃的な展開を伴って最後に謎解きされるというテイストは、前作より健在であり、それは端的に言ってしまえば「疑惑」なのである。自転車レースに付き物のドーピング疑惑をはじめとして、特に集団の戦略が展開に大きく影響するような自転車レースでは、チームに所属する個々人の思惑も疑惑に繋がっていく。チームのために働くという役目を負いつつも、いつか自分も先頭に立ちたいという個人の思いがあり、また選手契約がいつ切られるかも分からないプレッシャーの中、あいつはどんな思惑で走っているのか、他の者は・・・?そういう点で言えば、寡黙にペダルを踏み続ける自転車レースこそ、寡黙であるがゆえに誰がどんなことを考えてるとも知れない「疑惑」が成り立ちやすい環境なのだろう。
非常にいい作品に出会った。
ちなみに、これを読んだのはツールド・フランスが終わったばかりの8月である。
しゅんすけはまだツールド・フランスの初心者のようなもので、小説に出てくる地名やコースが実在するのかは分からないのだけど、読み進める中でテレビで観戦した光景が浮かんでくるようだった。その意味では、ツールド・フランスを観てから読むと面白いかもしれない。

しゅんすけも自転車に乗る者として、この人の筆致には驚かされる。
たとえば、しゅんすけもブログなどを書いていて時々困ることがあるんだけど、「自転車を走らせる」行為の描写などは驚くというか勉強になった。口語では自転車を走らせる行為について、しばしば「自転車を漕ぐ」と表現することがある。この「漕ぐ」にいつも悩まされる。漕ぐといえば、ボートなんかでオールを前後運動させる動作が連想され、このボートを漕ぐ動作と自転車を走らせる行為の表現に同じ漢字を当てることがどうしても違和感なのだ。何となく「漕ぐ」というと前後運動のようなイメージなんだけど、自転車の「漕ぐ」はペダルを回すイメージである。しかも「漕ぐ」の漢字はサンズイであり、ボートを操作する行為と何となく近い感じがするけど、路面を走る自転車にはソグワない気もする。
そんなわけで、しゅんすけはブログなどの記述でも「自転車を漕ぐ」という表現を避けてきたんだけど、実はこの小説でも「自転車を漕ぐ」という表現は遣われていない。まぁ、自転車レースにおいては、自転車を漕ぐ動作自体がデフォルトというか、当たり前の行為だからあえて書かないという考え方もできるわけで、たとえば「呼吸をしている」とか「心臓が鼓動している」とかと同じで、当たり前のことだから書かないのだと考えることもできる。そしてそれでも自転車を走らせる行為について表現しないといけない時には「ペダルを踏む」とか「自転車を走らせる」などと他の表現で言い換える。この辺の記述はしゅんすけも非常に勉強になったと思いつつ、やはり「自転車を漕ぐ」という表現は使わない方がいいのかもなーと思ったものだった。

この小説は短い小説なので、しゅんすけも実質的には1週間もかからないで読み切ってしまった。読者を引きこむ展開にどうしても目が話せなくて、朝の通勤時に新聞代わりに読んでしまったことやたまたま発生した電車遅延に乗じて振替輸送には乗らずそのまま運転見合わせの電車に乗り続けて読みふけってしまったりした。(会社には1時間も遅刻したけどね)

この小説はまだまだ続きそうである。また別のチームで、今まで背負ってきた思いにさらに別の思いが加わって、そんな「呪い」にも似た思いを背負って主人公は走り続けるのだろう。この愚直なまでのひたむきさが、この小説の中では際立つのだ。まるで疑惑にまみれた自転車レースの世界に挿し込む一条の光だと思う。
| 読書感想文 | 13:33 | comments(0) | -
ネバーエンディング・ヒストリー
しゅんすけは読書をするにあたり、あまり歴史小説というのを読まない。
たぶん過去に読んだ歴史小説のジャンルの本は片手で納まるくらいの量じゃないかな。たとえば司馬遼太郎氏の本なんかをね。かなり昔に坂本竜馬に心酔していたことがあって(あれは青年期の麻疹みたいなもんだな)、「竜馬がゆく」はもとより歴史解説書的な本を読んだりしたこともあったけど、ここ10年ではたぶん1冊も読んでいない。
別に気にしてなかったんだけど、会社の飲み会かなんかでふとした会話から歴史好きな人同士で話しに花が咲いちゃうことがある。なぜかしゅんすけの会社の同僚や上司は歴史小説が好きのようで、戦国時代の武将の名前だけじゃなく、その家臣の誰々がどうだとか話しに花が咲くのをビールジョッキを傾けて片耳で聞き流している。そんな何百年も前の戦国武将の家来が何をしたとか知らんがなって感じで、負けじとそういう人たちには幕末の志士がどうのとか話しを振っても、彼ら曰く「ネタがベタ過ぎて」面白くないんだそうな。そんなもんかねー。
しゅんすけが歴史に詳しくない理由のひとつは、たぶん「名前が覚えられないこと」である。
実生活でだって名前を覚えられないしゅんすけが、会ったこともない過去の人の名前を覚えられるわけがない。この前なんか「はら」さんを「ほり」さんと間違えちゃって、本人にとっては大失礼、まさにハラホリヒレハレ〜な失態があったくらいである。

さて、そんなしゅんすけが何を思ったのか、北方兼三の水滸伝を読むハメになってしまった。
いや、何を思ったわけじゃないんだけど、実は去年の年末から読んだ本がとても人には言えないようなハズカシー小説で、でも内容的には大変楽しめて、読んではいけないと思いつつ読んでしまう自堕落な自分を軌道修正したくて、原点回帰的な動機からこの手の本を手にしたのである。
しかも、以前から聞きかじっていた話しでは、古来から伝わるこの話しは、登場人物が物凄く多く、軽く100人を超えるそうで、その100人にはそれぞれにきっとオトコがシビレちゃうようなカッコいいエピソードがあるわけで、しゅんすけが軌道修正するにはまさにウッテツケな本だと思ったのである。
しかも、結構売れセンな本なので、歴史小説が苦手なしゅんすけも「ぐいぐい引き込まれてあっという間に読破してました」的な展開になるかもしれないと思ったのである。

・・・結論から言うと、あまり引き込まれなかった。
「あっという間に読破」ということはなくて、結構ゴリゴリ読んだ感じである。国を変えてやろうという意気込みを余すオトコたちが、細い糸をよって太い綱になっていくように気持ちを合わせていく。国に点在する点としての彼らがいつしか線になり面になって大きな勢力になっていく・・・って、こう書くと気持ちいいんだけど、この面になる人の数がしゅんすけにはやはり多すぎであった。しゅんすけはまだ1巻しか読んでないんだけど、読み進めるにしたがってどんどん増えていくだろうことは想像に難くなく、既にうんざりな感じなのである・・・と思ったら、この小説、物凄い巻数だということを知った。実に19巻、この話しってこんなに長く続くのかいな?!しかも、公式サイトによると続編もあるんだそう。
いや、読書の原点回帰、いわばリハビリ的な動機で手にした本だけど、とんでもない本を手にしちゃったものである。

そういえば、中学生の頃、友達の間で「信長の野望」なるゲームが流行っていて、しゅんすけの弟がかなりハマっちゃって、日本史の教科書にも載ってないような戦国武将の名前を知っていたりしたけど、しゅんすけはその当時から興味が沸かなかったな。ゲームと言えば水滸伝なんかもゲームになったりしてるようだけど、なんだろうね、興味がない。そう言えば、NHKの大河ドラマを観なくなって何年経つだろう。その辺にしゅんすけと歴史小説の関係のルーツがあるのかもね。
さて、1巻を読み終わろうという中、次はどんな本を手にしてみようか。
| 読書感想文 | 23:53 | comments(0) | -
名の言えぬ本。
最近あまりにも本を読まない自分が嫌になるのだが、考えてみるとかつての唯一の読書タイムである通勤時間では、ほとんど電車で寝ているか携帯電話でダウンロードしたゲームなぞをやっている。このゲームは、去年の1月に某金管バンドの練習の際に、酷い降雪に遭い、全く積もってなかった練習前からたったの3時間でクルマでの走行が完全に不可能になるほどの積雪となり、やむを得ず電車で帰ることにし、翌日これが嘘のようなピーカンの陽差しで積雪は完全に蒸発、あれはタヌキかなんかに騙されたのかと訝りつつクルマを取りに行ったんだけど、あろうことか2時間もかけて辿り着いた練習場でクルマの鍵を忘れてきたことに気づき、泣く泣く引き返し、再び練習場を訪れ、何ゆえ週末の2日間で3回も同じ練習場に来にゃならんのかと大事な休日を台無しにした自分のおバカを心底呪いつつ、この日2回目の坂道を上っている最中に、余りにも手持ち無沙汰だったために思わず携帯電話でゲームをダウンロードしちゃったんだけど、これが大して面白くもないくせになかなか抜け出せなくて、空いている時間があるとついつい手が伸びることになって、気がつくと1年近くやり込んでいることに気づき、これではいけない、何でもいいから本を読まねばならないと手にとってしまったのが、このライトノベルだったというわけである。何の知的利益もない、しかも月額料だけはしっかりと徴収されてしまうケータイゲームよりも幾分はマシだというわけである。

そんなわけでライトノベルを読んだのだが、ノベルって言ってもほとんど高校生とかが読む漫画みたいなものである。買うのが恥ずかしくてしょうがなかった。コンビニで大人が買うようなソレ系の本を買うのは何ら恥ずかしくないけど(だって大人だから)、この歳になって高校生が買うような本を本屋で買うのはホント恥ずかしい。思わず関係ない本を上下でサンドイッチして買っちゃったよ、エロ本か?!あるいは「私は出版社に勤めており、日々こうして本屋で書籍の人気度をリサーチしているノデス」的な設定の小芝居を打たないと買えない。しかし、今回の本はしゅんすけのココロに引っかかるナニかがあった。恥ずかしい思いをしても買わずにいられないナニかがあったのである。

さて、何がしゅんすけのココロに引っかかったかっていうと、この物語で出てくる独特な設定、例えば宇宙人がいるとしてそれはどういう形で存在するのかとか、時間移動が可能だとしてそれはどんな理論に裏付けされているのかとかそういう設定なのである。
別に本編よりも設定の方に興味があるってことではないし、本編だってかなり面白い。やはり世の中の○○的な方々の支持を得るのだからそれなりにいい作品なんだろうな。同様に○○的な方々の支持を集めた汎用人型決戦兵器の某人造人間が登場する作品も、なかなか面白い作品であった。こんな○○的な作品ばかり観ているとしゅんすけも○○的になってしまうのではないかと危惧するも、自分の嗜好に正直になってなぜ悪いという半ば開き直りな感情もなくはなく、そう思うにつけ、ちょっと性癖なアレなおじさんとかがいるけど、彼らのアレな性癖はどういう経緯で発現してしまったのかと言えば、もしかしたら今のしゅんすけと同じである時ふと自分の嗜好に正直であるべきと思うに至ったからなのかと思うわけで、そうであれば遠からぬ将来にしゅんすけがアレ的なおじさんになってしまう図が思い浮かばないこともないわけで、いやそりゃさすがにマズいと思うわけである。だから、今回の読書感想文は書名については一切明記しないつもりである。うっかり書名を書いてしまったり、あまりにも分かりやすいヒントが書かれていたとしても、ぜひスルーして欲しいし、ゆめゆめしゅんすけのことをアレ的なおじさんと思わないように欲しいものである。そう、しゅんすけはあくまでおじさんではない・・・いやアレ的ではないのだ。

さて、しゅんすけがおじさんなのかアレ的なのかは別として、この本の中身は前述のとおりなかなか秀逸であり、プロットや文体がしっかりしてて読みやすいことに加え、特にその背景となる設定の理論がしゅんすけの琴線を激しく弾いたわけである。今回の読書感想文は、この裏設定の理論、その中でも時間移動に関する理論について、しゅんすけが激しく琴線を弾かれたことを書くことにする。

時間移動って、タイムスリップとかタイムトラベルとか言うけど、SFとしてはかなり古い小道具にもかかわらず、一向に実現の様子が見えないばかりか、その理論的背景さえも確立していない。100年もの歴史のある夢が未だこんな状況だなんて、そっちの方が驚きなんだけど、とにかく現実世界ではどうやって時間移動するのか、そもそも時間移動はできるのかさえまだ分かっていないのである。ま、だからこそ、フィクションの世界では勉強机の引き出しの中がタイムトンネルになってるとかラベンダーの香りを嗅ぐと云々とか設定で遊べるわけだけどね。
でも、この作品の中で登場する時間移動の理論は、非常によくできていると思う。少なくとも勉強机の引き出しを開けてタイムマシンに乗り込むよりは理に適っていると思う。
その理論とは、時間平面論というそうな。
しゅんすけもよく分かってないし、本気で○○的な方々からツッコミをいただくのも嫌なので、さらっと書くけど、時間とは川の流れのような絶え間ないものではなく、静止した瞬間の膨大な集積である、とのことである。いわゆるパラパラマンガのようなもので、一枚ごとの絵は静止しているけどこれをパラパラすることで動いているように見える。時間とはまさにそういう平面の集積であるという理論なんだそうな。そして時間移動とはこのパラパラマンガのある絵(ページ)から別の絵(ページ)にジャンプすることであり、つまりパラパラマンガを飛び出して立体的(3次元的)に移動するとも説明できる。ある時間にジャンプすると、その時間の人には突如その場に現われたように思えるわけだ。う〜ん、この時間がパラパラマンガのようなものだという説明やこれを立体的(3次元的)に飛び越えるという説明は、説明としてはなかなか分かりやすいと思う。

さて、ここでしゅんすけが気づく。
パラパラマンガに例えているが、この説明では分かりやすくするために一貫して次元を1つ落としている。つまり、パラパラマンガで表現される現実世界は3次元(立体)である。立体的パラパラマンガと言ってもいい。そして、上の説明でパラパラマンガを立体的(3次元的)に飛び越えると書いた時間移動の方法も実は3+1次元的な方法、つまり4次元的方法と言えるわけである。
説明を簡単にするために次元を1つ落とすというのは、トポロジーのお話しで一度書いている。(2003.07.26Saturday「四次元へのイザナイ。」)
この時に書いた話しとは、例えばこういう話しである。相同ではあるが合同ではない平面図形や立体図形を合同にするには、その図形よりも1次元高い次元の世界でないとできない。つまり平面図形であれば3次元世界、立体図形であれば4次元世界でないとできないわけで、手のひらや耳たぶは同じような形(相同)だけど完全に重ね合わせるためには4次元世界でないとできないわけである。でも、果たして手のひらや耳たぶを重ね合わせられる4次元の世界とはどんな世界なのか。縦・横・高さにあともう一つの座標が加われば4次元になるわけだけど、この加えられる次元とは一体何か?
この4次元に向かう最後の座標は「時間T」である、なんて言われるそうだけど、しゅんすけは実感できなかった。なんで時間なのか?時間なら3次元にだって存在している。2次元に存在しない座標「高さ」が3次元への入り口だとすれば、4次元の入り口たる座標は3次元に存在しない何かであるべきではないか。だから、4次元=縦×横×高さ×時間という公式に違和感を覚えていたわけである。
だけど、先ほどの時間平面論で語られる時間移動の方法が、この違和感を解消する。
つまり、時間移動とは2次元世界のパラパラマンガを3次元的に飛び越えるように3次元世界のパラパラマンガを4次元的に飛び越えるわけで、ここで4次元という概念と時間が結びつくのである。
4次元=縦×横×高さ×時間という違和感な公式と時間平面論による時間移動。このふたつの接続がしゅんすけの違和感を霧散させた。
そうか、時間移動とは4次元的なもので、それは断続的な時間と時間の隙間を飛び越えることだったのだ。

・・・うん、すっごく分かりにくい文章である。ここまでつらつらと書いてきたけど、どうしてもしゅんすけが独りよがりで納得している感は払拭できず、これが独りよがりの域を出ないのだとすれば、それはしゅんすけの文章力の低さにのみ起因していて、ホントだったらしゅんすけは「ユーリカ!」とか叫んでスッポンポンで走り出すくらいに納得したのである。ま、この「やったー!」感は少なくとも共有したいものである。

そんなわけで、読み始めたら止まらないこの本だけど、そうは言っても8巻を3週間で読むという高速読書では、さすがにそろそろ食傷気味になってきた。
やはり漫画的な側面から脱却できてないからなのかどうなのか。
でも、この本によって、今まで蓄積してきた知見が脳みその外側で初めて有機的に結合した感じがする。なんて言うかな、今まで入力オンリーだった情報を出力して、しかも他の情報と結合させて新しい知見を得たというか。そうだね、勉強ってこういうものだよね。脳みその中に蓄えた情報を脳みその外側で紡ぐのが楽しいんだよね。
今回の本は蚕から得た生糸を紡いで糸にするような本であった。生糸ばかり蓄えてもしょうがないよね。

さて次の本は、知見を紡ぐ本か、それとも生糸を蓄える本か。
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幾何学の世界とマリオブラザーズとドラクエの世界。
「ポアンカレ予想を解いた数学者」(ドナル・オシア著)を読了した。
いやホント、幾何学の世界って・・・ってか、そもそも数学の世界って、よく分からないわ。
この本は、なかなか面白い本で、今までとは違った視点で数学を見た感じ。特に、数学に関わる近代史のエピソードでは、今までの本でもお馴染みだったヒルベルトの有名な某演説が違うアプローチで語られ、またそれに続く「不完全性定理の証明」というお馴染みの皮肉な展開が、まるで見知らぬ道を歩いててふと馴染みのある道に出るような感覚だった。
でも、やっぱしゅんすけには難解な内容だった。

この本の序盤で語られる幾何学に関するエピソードが、しゅんすけが以前から気になっていたゲームの中の幾何学の世界に繋がる部分があって、今回読了にあたり読書感想文にはこの話しを書こうと、読了直後から感想文を書き進めたり、図を描いたりしてたんだけど、その中で見つけたあるサイトでしゅんすけが書こうとしていることと同じ内容の記事をみつけ、ま、同じコトを考える人っているものだけど、結局二番煎じになっちゃうから、あえてここで苦労して書くことはしないことにした。
しゅんすけの頭の中では、それなりにまとまってるから、いつでも話すことができるだろうし。

結論的にいうと、ファミコンゲーム「マリオブラザーズ」(「スーパー〜」じゃなく)の世界は、トポロジーの世界を視覚化したような世界だということ。画面の右に消えると左から現れるこのゲームの世界は、ちょうど円筒のような世界を視覚化したような感じなわけ。
これを子供が何ら違和感を感じることなく遊べるところに、以前読んだ何かの本で言っていた「子供は生まれながらにトポロジーを理解している」の秘密があると思ったわけだけど、同じようにしゅんすけがちょっと前まで大人げなくかなりハマっていた携帯電話版「ドラゴンクエスト供廚呂気蕕縫肇櫂蹈検爾世隼廚辰拭
ドラクエ兇寮こγ録泙砲茲襪函∪召帽圓韻佚譴涼爾ら現われ、北に行けば南の端から現れる。一瞬、地球の世界地図と同じような感じで、つまり「西に行けば東から現れる」のは確かに地球と同じだけど、地球は北に行けば南から出ることはない。たとえば、世界地図を見ながら考えるに、スペインから西に向かっていくとそのうち北アメリカ大陸に到達するわけで、一般的な地図では、西に行けば東の端から現れることになる。でも、イギリスからさらに北に向かって進むと、南アフリカ・喜望峰辺りに到達することはない。地球は丸いから、北極点を通過して、たぶんカナダとかアラスカ辺りにぶつかるハズである。でも、ドラクエ兇寮こΔ蓮△修Δ覆辰討い覆ぁこれは、ドラクエ兇寮こΔ地球のような球体になっていないことを意味する。

果たして、ドラクエ兇里茲Δ弊こΔ鮓充造砲垢覽綢琉奮阿凌涎舛和減澆垢襪里?
結論的にいうと、かなり異様な世界だろうけど、図形としてはこれが存在する。
いわゆる「トーラス」というヤツである。
トーラスってのは、円柱の端と端が接合されたような図形。分かりやすく言えば「ドーナツ」と同じ形で、真ん中に穴の開いたような図形である。

この図形を長方形の世界地図のような形に展開すると、世界地図上の西の端は同じ座標の東の端に接合されており、北の端は同じく南の端に接合されているというわけだ。こんな異様な世界は現実には存在するとは言えないと思うのだけど、ドラクエ兇糧売時にはそんな「現実にはありえない世界」へのクレームは聞いたことがないし、当時中学生だったしゅんすけも何の違和感もなく遊んでいた。しかも、それから20年の月日を経た現代においても、何ら違和感を感じなかったけどね。
※現実の世界地図や球体としての地球を理解する勉強の方が優先されるべき子供が遊ぶゲームなのに、現実とは大きく隔たった形の世界をゲームで提示することに、当時イササカも騒ぎにならなかったことが、今思えば逆に違和感だけど。

そんなわけで、読んだ本から最近自分が体感した経験が惹起できるのは、なかなか楽しいもので、その辺をもちっと詳しく書きたかったけど、この期に及んでは、しゅんすけがいつでも思い出すことのできる最低限の記述に留めておくことにする。
前述のサイトには、しゅんすけが思いもよらなかった深い展開、たとえば、このトーラス図形がドラクエ兇寮こΔ世伐渉蠅靴董果たして重力はどうなるのか?とか太陽との位置関係からして、絶対に陽の昇らない地域があるハズだという話しは、この思考遊びをさらに面白くする。
※「トーラス」「ドラクエ」で検索すれば、ヒットするんじゃないかな。

そんなわけで、ひとまず幾何学のお話しは終了である。
| 読書感想文 | 01:02 | comments(0) | -
ソロコルネットに必要な気概
「サクリファイス」近藤 史恵著(新潮社)を読了した。
何気に早く退社して、そういや最近は読む本もないなーとふと立ち寄った有楽町の三省堂書店で、出会ってしまった本。ホントは、久々に数学や天文学や遺伝子学、免疫の最近の研究ってどうなってるんだっけ?などと、自然科学系のコーナーをうろついたけど、なかなか琴線に触れる本がなくて、しかもしゅんすけが前回の読書感想文でメタメタに評価した「噂の拡がり方」が置いてあったりして(本屋に置いてあるこの本を見ると、その表題の「拡がり方」をあえて「広がり方」と書かない辺りも妙に苛立たしいわ)、今日のところは本を読まずに携帯でもかちゃかちゃやって帰るかなーと思った瞬間に目に飛び込んできたのが、この本である。
サクリファイス=犠牲・・・などと、なんかイヤーな感じのするネガティブな表題に、ちょっと気圧される感じもあって、やっぱ買わないでおこうかなとも思ったのだけど、何より内容が自転車レースの話しだったこともあり、まずは読んでみることにした。
そして、今日、読了した。早っ!?ほとんど1日で読み終えた。
いや、面白いわ・・・っていうか、感動した。
素晴らしい内容だった。これは、絶対に読んで損はない。「犠牲」なんていう、ちょっと重ためな表題もこの内容なら全然納得できる。しかも、この読了後の一種の爽快感っていうのかな、何とも言われぬ感覚を味わった。そろそろ年齢的にもヤバめな最近のしゅんすけは、こういう時思わず涙腺が刺激されちゃうんだけど、今回も自宅で読んでたら、きっと訳も分からず涙腺を湿らせていただろう。

さて、内容としては、日本の自転車レースのプロチームの中で、主人公と主人公を取り巻く登場人物たちを描いたストーリーで、現実の自転車レースのようにストーリーが淡々と進行し、大きな疑惑とその裏に隠れたレーサーとしての気概みたいのが大きな感動に導いていくという、小説として特段、テクニカルな感じはしないけど、とても素直に読める展開が静かな感動を呼び起こす内容である。特に、自転車レース(競輪とかじゃなくて)をよく知らない人が読んで感動できるんだから、その筆致は著者の実力の現れだろう。

既述だけど、自転車レースは個人競技のようで完全な団体競技である。チームのエースを勝たせるためなら、自分の順位など全然関係ないというチームの論理に支配された世界である。しゅんすけがこの前初めて見たツール・ド・フランスでも、コケちゃって先頭集団から大きく遅れたエース級の選手を、再び集団に追いつかせるために、数人のチームメイト(アシスト)が自分の体力の限界までエースを先導し、風除けになっていた。数人いたハズのアシストは次々に脱落して、エース級選手が先頭集団に追いつく頃には、アシストは一人になっちゃってた。他のアシストは無理なスパートと風除けとして必要以上の空気抵抗にあい、力尽きて次々に脱落していっていたのだ。こういうチームの論理が、自転車レースにはある。アシストは、自分の勝利など一切考えない。でも、エースをとことんサポートするところに、無上の達成感を感じるのである。
風除けと言えば、レース中の集団では、本来敵同士であるにもかかわらず、みんなが一列に並んで風を正面から受ける先頭を次々に交代していく先頭交代というのがある。マラソンのように、抜きつ抜かれつのデッドヒートはゴール直前のことで、ほとんどレース中は集団内のライバル同士が風を受ける先頭を交代しながら進む。これが、自転車が紳士のスポーツと言われる所以だけど、ゴール直前ではそれが一点して、アタックをかけるタイミングを駆け引きしつつ、激しいデッドヒートが展開するんだから、面白い。初めて見たツール・ド・フランスだったけど、とても面白いものを見たという感想を持った。
こんな自転車レース特有のお約束が、この本の中で随所に説明してあるのも、良かった。改めて自転車レースの面白さを知った。

ストーリーを通して展開するのは、アシストとしての主人公の行動である。
エースを勝たせるために存在するアシスト。決して自分のためにレースをすることのない、目立つ存在ではないけど、アシストがいなければ、どんなにスゴい選手も優勝することはできない。ゴールゲートを一番でくぐることはないけど、それが彼らアシストの「仕事」なのだ。
このアシストの気概に感動した。
そして、そのアシストの思いを背負って走るエースの気概にも感動した。
とっても大人なスポーツだと思った。
スポーツは買ってナンボなところがある。そして誰もがエースになる資格を平等に持っている。野球でもそうだけど、9番ライトだからと言って、一打サヨナラという場面に立ち会った時、彼はその試合のヒーローになる権利を与えられている。でも、自転車レースでは、アクシデントでもない限りそういうことはない。アシストは終始アシストとしての期待しかされないし、アシストとしての仕事しか与えられない。でも、彼らはそれでもヒネくれたりしない。一流のエースには一流のアシストがいるのだ。

さて、ふと思い出すのは、しゅんすけが参加する英国式金管バンドである。
ヨーロッパでは吹奏楽なんかよりもメジャーなこの編成の音楽だけど、日本では全然流行っていない。
それは、自転車レースを育んだヨーロッパ人の気概と、誰もがエースになるチャンスのある野球を好む日本人の差に繋がるかもしれないと思うのだ。
金管バンドでは、そのバンドのコンサートマスターを務めるのが、プリンシパル・ソロ・コルネットというポジション。このポジションの隣にはアシスタント・ソロコルネットがいて、さらにその隣に2人のソロコルネットが座る。彼ら4人は、みんな同じ譜面を持っているんだけど、この譜面に書かれた「ソロ」の部分は、プリンシパルが必ず吹くことになっている。プリンシパル以外の3人は、決してソロを吹けない。
吹奏楽を長くやってきたしゅんすけにとって、コレはかなり残酷な話しである。譜面にはソロと書いてあるのに吹けないのだから。どんなに下手でもどんなに嫌ってても、プリンシパルのポジションになった者がソロを独占するというのは、吹奏楽の世界で1stトランペットを任されて、ブイブイ言わせた経験のある演奏者なら、まるでオアヅケを食らった犬のような気分である。そこにソロがあるのに自分は吹けないのだから。
だから、しゅんすけはソロコルネットに興味を持っていなかった。ソロと書いてあるのに吹けないのなら、他のパートの方がいいな、と。
でも、自転車レースでアシストに徹する彼らを見ていて、アシストの気概、魅力を、金管バンドのソロコルネットたちに重ねてみることができた。
自転車レースでのアシストは、エースの勝利のためにすすんで自らが犠牲になるのだ。それが彼らに与えられた重要なパートなのだから、それを犠牲とすら思っていない爽快感すらある。金管バンドも同じことだ。プリンシパルにいい演奏をさせること、いいソロを吹かせること、それがバンド全体のいい音楽に繋がるのなら、アシスタント・ソロコルネットもソロコルネットもすすんで犠牲になるのである。プリンシパルは、その犠牲の重みを背負って、ソロを吹くのである。それは、吹奏楽でたまたまあったトランペットのソロの部分をちょろっと吹くような、譜面にソロって書いてあるんだからしょうがないじゃーんみたいな気持ちで吹くソロとは、重みがまったく違う。絶対に失敗できないソロである。
プリンシパルと同じ譜面を見て、彼らはプリンシパルをどうアシストすれば、彼がいい演奏をできるか考えるのだろう。プリンシパルの演奏は、アシストのサポートに支えられてこそ存在するのである。このことを観客はみんな知っているのである。
ヨーロッパで金管バンドが主流になるのも、なんとなく分かる気がした。
同時に、なぜ金管バンドの編成で、同じ譜面を吹くコルネットが4人もいるのかというのも分かる気がした。
そして、なぜ日本で金管バンドが根付かないのか、しゅんすけの参加しているバンドのソロコルネットがいつも人員不足なのかも分かる気がした。

この本を読んで、なんとなく音楽へ対する考え方が変わった気がする。今までは、オーケストラのバイオリンって、なんであんなにたくさん必要なのか理解できないところもあったし、自分のような目立ちたがり屋は、たとえ技術があっても性格的にバイオリンなんてできないし、同じ譜面を吹く金管バンドのソロ・コルネットに魅力を感じなかったけど、何となく気持ちの変化を感じる。これが、日本にいるたくさんの目立ちたがり屋のオレ様トランペッターに理解されると、日本の金管バンドの様相も変わってくると思った。そして、いかにプリンシパルを引き立てるかに徹するアシストのパートに魅力を感じた。
奇しくも、しゅんすけの運命の本番は、今週末である。果たして、名アシストのおかげで、しゅんすけのソロは成功するだろうか。しゅんすけのプリンシパルの椅子をかけた挑戦である。本来ならしゅんすけにプリンシパルを張るだけの技術はない。そうであれば、アシストがいいなと思った。そもそもソロコルネットの4人が、誰のサポートもなく疲労せずに吹き続けられる譜面ではないのだから。
なんかこの本を読んで、今のバンドでもっと頑張ってみようと思った。
ホントは演奏会終了後、ちょっと距離を置こうかと悩んでいたけど、アシストの魅力って絶対あるよなーと思ったし、それが普及すれば、金管バンドは決して捨てたモンじゃないのである。
そして、そのためには、自転車レースをもっと日本でメジャーにするべきだと、なぜか思うのだった。
| 読書感想文 | 23:54 | comments(0) | -
人の噂も七十五日
「噂の拡がり方」という本を読了しました。
あまり聞いたことのない出版社のあまり聞いたことのない新書シリーズだったんだけど、某上大岡の本屋で見かけて、ちょっと興味を持ったので購入してみた。
結果的には、買う前に期待していたような知見は得られず、ちょっとがっかりな本でした。
噂の広がり方という社会学的な大きな命題に対して、割と即時的な話題を例に出して論じているので、理屈は理解できるにしても、「それって普遍的な理論なんだろうか」との疑いが絶えなくて、そういう意味では、一昔前にゴシップ夕刊紙みたいな感覚の書き口がいささかケバケバしくて胡散臭い新書があったけど、アレと同じとは言わないまでも、路線としてはそんな印象を持った。たぶん語り口調な文体も一因だと思うけど、分かりやすさを狙って平易に書きすぎたとは思う。
著者は最近興隆してきたネットワーク論に関して知見があって、その辺は専門家なんだろうけど、この専門知識を「噂の広がり方」というかなり広い命題の料理に使おうというのは、ちょっと無理があったかなーと思うわけです。

ネットワーク論は、それはそれで面白い部分もあって、実際「なるほどなー」と思う部分もあったんだけど、しゅんすけの興味は、都市伝説に代表されるマコトシヤカな話し(=噂)がどうしてヒトからヒトへ伝えられるのか?その原動力は何か?という社会心理へつながる部分にあって、そういう意味ではストライクゾーンからはズレていることになる。
(しゅんすけの選書眼のなさによる部分も大きいわけだが)

都市伝説はなぜ広まっていくのか。
某ラジオ番組で著名なコピーライターが言うには、「現代の社会は自分の与り知らないシステムの中で動いているわけで、そういった不知のシステムへの漠然とした不安をとりあえず解消するために、ぽっかり空いたパズルのピースをハメこむような都市伝説は広がりやすい」んだそうで、例えば「何気なく流している水道は、排水口からどこへ流れていくんだろう」という漠然とした無意識な疑問から「地下下水道にはペットが逃げ出して野生化した巨大ワニが棲んでいる」という想像に発展したり、大量に生産されている品切れ知らずの某フライドチキンを見て「きっとこの会社は遺伝子操作で脚が4本あるニワトリを作り出したんだ」との想像から都市伝説に変わっていくというわけらしい。これにはなるほどなーと感心したものである。
だけど、古来の民間伝承から最近の都市伝説まで、忘れた頃にぽっと出てきて人心を鷲掴みにする噂を、無意識に潜む不安の連鎖などと簡単に片付けちゃってるのが、しゅんすけにとってはまさに無意識な不安なわけで、もちっと理論立てた理屈を理解しておきたかったんだけど、そういう社会心理学的な理論的アプローチには及ばずに、前述のとおり、話しはネットワーク論のような展開を見せたまま次第に逸れていき、終いには不可解な数式まで何の予備的な説明もなく飛び出して、辟易したまま読了と相成った。
(「AはBとCに比例する」とか言って、「A〜B×C」とか書かれていて、おいおい「〜」って何だよ、しゅんすけが知らない未知の数学記号か?などと「〜」の説明が一切ないことが不満だったんだけど、もしかしたら「〜」は「=」の誤植ではないかと思い当たり、説明不足にしろ誤植にしろいずれにしてもゴシップ夕刊紙感覚だよなーと、下手すると読書感想文を書くにも値しない本だったんじゃ?と、読書感想文をここまで書いて思った)
また、この著者がネットワーク論を展開しようとして、噂というフィールドを選んだこの無理さ加減が如実に現れたのが、ネットワークに関する記述以外の部分でかなり多く散見されたホームページへの参照である。つまり、「○○が△△であることは□□(http://〜)に記載のあるとおりで云々」などと記述では、「○○が△△である」ことは著者の意見ではないわけで、このサイトに書いてあるから詳しくは見てね、文責は負わんよ的な姿勢なんだよね。しかも、良くも悪くも情報の流動性が身上のWEB情報を、普遍の知識の蓄積が身上の書籍が参照するというのは、電車の待ち時間とかに時間潰しで読むような雑誌に近い本ならともかく、こういう一般書では強い違和感を禁じえないわけである。それが、ひとつふたつではなく、各所に散りばめられていると、「この著者は、この本で何を訴えたいのだろう」と思わざるを得ない。ちなみに、ネットワーク論的な話しでは、そういうサイトへの参照は激減している(でも無くならない)。

そんなわけで、ネットワーク論については、とても参考になる本だけど、噂の広まり方という面においてはあまり参考にならない本でした。
ネットワーク論の基礎的な各構造―ノードとかハブとか―のネットワーク拡大における影響度とか、弱いネットワークはそのつながりの強さがなかなか強化されないのに対し、もともと強いつながりのネットワークはさらにその強靭さを増すように発展していくという「金持ちはより金持ちに」的理屈は大変参考になった。
ただ、この理屈によると、宇宙でもっとも複雑なネットワークと言われる脳神経も、強靭なつながりはさらにその強靭さを増すネットワーク論からの帰結を援用すれば、インパクトの強い(脳神経に強いつながりをもたらすような)出来事は、思い出す度にさらにそのつながりを強くするから嫌なことでも忘れないし、いわゆる自動思考が比較的容易に陥りやすいとも考えられて、でもヒトはものを忘れるし、自動思考も頻繁に発生すればココロの病と捉えられることもあるわけで、つまり実生活ではその正反対の現象が起こっていることを考えるに、脳神経ではそういう偏ったつながりを打ち消すような仕組みがあるのだろうか?または、一旦できた強靭なつながりも次第に平均化していくほど脳内の自発的活動って盛んなんだろうか?この辺は、もしかしたら今後のネットワーク論の発展と脳神経学の発展で解明されていくかもしれないと思うのでした。
| 読書感想文 | 00:35 | comments(0) | -
しゅんすけも受けたい講義
「生命に仕組まれた遺伝子のいたずら−東京大学超人気講義録」(石浦 章一著)を読了しました。
本屋で出会って購入した本なんだけど、なかなか良かったな。講義録という形態、話しがすべて口語調なのは新鮮でした。遺伝子についていくつかの最新の知見が得られたのはとても有意義でした。
その中でしゅんすけ的に目からウロコの落ちるような話しがあって、これは後述するけど、今回は読んでみた講義録(口語)の形式については、良かった点もあり悪かった点もあった。たぶん、東大の授業で先生が喋っていることをほとんどそのままテキスト化して本にしたんだと思うけど、それゆえに、知見が割と新しいという点は評価できる。主題を特定してロジカルに構成するような一般の科学書では、執筆や制作に時間がかかるのか、こういう新しい知識がしゅんすけに届くのはもっと後になってからのハズだから、比較的新しい知識を読めるという点では良かったな。
ただ、口語で書いてあるがゆえに、前後の文脈や話者のテンションも考慮しないといけないのが、他の一般書とは違っていた。「その〜」とか「これは〜」とかの指示語が多いことも口語の特徴で、読んでいて一瞬文脈を見失うこともあった。そういう意味では、講義を単純にテキスト化している編集側にも問題ありと思う。(いくつかの部分では分かり易く編集してくれているのに、もったいない)
また、口語だからなのか、たびたび脱線があったりして、テーマを見失うこともあったかな。
それでも、先生のテンションに乗って、まさに東大の教室で話しを聞いている感覚を共有できれば、非常に分かり易いし、こんな面白い授業を受けている東大生は羨ましいと思う。(高校を卒業して間もない学生、しかも難関・東大に合格した学生に話す内容としては、言葉遣いも含めて少々稚拙感もなくはなかったけどね)

ちなみに、伊勢崎の某有隣堂でこの本に出会って購入して、フロアを出る時に、ふと目に入った本があって、これは脳神経に関する本だったんだけど、この本も講義録の形式をとっていたな。今回の本とは別シリーズなので、もしかして講義録をテキスト化して書籍化するのって流行っているのかな?
だとすれば、口語調の問題はあるにしても、次回はぜひ読んでみたいと思うのでした。

さて、今回の本でしゅんすけの目からウロコをシュバシュバ落とさせたのが、色彩の感受性に関する記述でした。
「あなたは私と同じものを同じように見ているのだろうか」という、ちょっと哲学的な問題に近い話しなんだけど、要は「自分の見ている赤いリンゴの赤さ加減は、あなたの見ている赤いリンゴの赤さ加減と同じか」ってこと。
たとえば「赤」って色も、まだ幼児の頃に「これが赤ですよ」と言われれば、たとえ「緑」であっても赤だと覚えるじゃないですか。色なんてニンゲンが作ったルールでしかないわけよね。
※色は所詮ニンゲンが作ったルールでしかない・・・というのは、そういや波長という絶対的な比較指標を考えれば、必ずしもそういうわけではないか。
赤であれば、周波数として405〜480THz(長さにして740〜625ナノメートル)だから、「この周波数が赤ですよ」と言えばいいわけだからね。

色彩の感受性について遺伝子レベルで言うと、例えばX染色体上にあるオプシンというたんぱく質が関係しているそうで、このたんぱく質の記述のある遺伝子部分が組み変わっちゃったりすると、いわゆる「カラーブラインドネス」と言われる色覚異常が起こるのだそうな。
話しはその遺伝子の組み換えの中で、オプシンがいくつも複製され、例えば赤色に反応するオプシン(赤オプシン(以下、赤オ))と緑に反応するオプシン(緑オプシン(以下、緑オ))の配列が「赤オ・緑オ」という標準的な配列に対して、日本人だと「赤オ・緑オ・緑オ」など複数の緑オプシンが配列されている場合が多いんだと展開し、「緑に反応するオプシンが多い人の方が、緑に対する感受性が高いんじゃないか」と述べるに至る。確かに、緑に反応する緑オプシンが多い方が緑色に対する感受性が高いように思えるんだけど、実はこの緑オプシンの数と緑色に対する感受性の話しは単なる前フリで、興味深い事実は赤オプシンに秘密が隠されていた。

赤オプシン(たんぱく質)を構成するあるひとつのアミノ酸は、人によってその種類が違うんだそうで、人口比率は分からないけど、ある人はセリンで、ある人はアラニンなんだそうな。どちらも問題なく赤色に反応するんだそうだけど、このアミノ酸の置換によって、赤色の波長に6ナノメートル程度の反応度合い(本書では吸収率と言っているけど)の違いがあるんだそうな。
この6ナノメートルが意味するのは、例えば鉄色っぽい赤色を見たときに、これを「深い赤色だ」と判定する人と「黒だ」と判定する人とがいるんだそうな。かなり微妙な差だけど、確かにそういう人がいるんだそうな。
だから、さっきの哲学的命題では、赤については、遺伝子上の問題で「あなたの見ているリンゴの赤は、私が見ているリンゴの赤とは違うことがある」と言えるわけですね。

ちなみに、しゅんすけは別に色覚に問題があるわけじゃないんだけど、よく色味についてはさきこと意見が合わないことがある。さきこが購入したおニューのランニングウェア(彼女はいつも「前からあった」と言う)の色がピンクなのか赤なのかで意見の食い違いがあった。あれは、しゅんすけの遺伝子とさきこの遺伝子で色彩感覚に違いを及ぼす遺伝子レベルの差異があるからなんだろうか?(いや、単に色認識のレベルの違いかもしれないけど)

ちなみに、赤オプシン・緑オプシンの配列についての個体差は、
赤オ・緑オ:38%(白人:22%)
赤オ・緑オ・緑オ:40%(白人:51%)
赤オ・緑オ・緑オ・緑オ:18%(白人:19%)
赤オ・緑オ・緑オ・緑オ・緑オ:4%(白人:8%)
となっているそうだが、形質として現れるのは、ひとつめと二つ目の遺伝子のみなので、3つ目以降にどれだけオプシンが続いても、緑色に対する感受性が高まるということはないんだそうな。
(緑オプシンの数が色彩の感受性に影響しないというのは、口語調の弊害でしゅんすけの読解力では2回読まないと分かりにくかったわ)

さて、この色彩に対する感受性については、東大のエラい先生が、「色彩のバリアフリー」を提唱しているそうで、確かにカラーブラインドネスの人は、カラフルな東京の地下鉄路線図を見ても、イマイチ伝わらないだろうし、そういうことを念頭に案内図は作られるべきだと、しゅんすけも同感なのでした。
(世の中には、水色とピンク色の区別や黄色と黄緑色の区別がつきにくい人がいるわけで、そういう色を混在させて案内図を作っても、伝わらないばかりか、大きな事故を誘発する場合もある、ということ)

他にも、遅ればせながら血液型(ABO式)に関する遺伝子レベルの知識や、インディアンにはO型が多く、中央アジアからヨーロッパにかけてB型の分布がキレイなグラデーションを描くように減少している様子が語られ、大学の一般教養でこういう話しを聞くと、大学が楽しくなりそうだし、しゅんすけのように一般教養の単位を落としたりしなかっただろうなと思うのでした。
(1000年くらい前に起こった中央アジアからのB型民族の拡大は、これがどうもチンギス・ハンによるモンゴル帝国の拡大と符号していたり、遺伝子の欠損により発現するO型がここまで増えたのは、当初の遺伝欠陥以上の生存上のメリットがあったんだろうという話しは、確かに興味深い)
その反面、口語で伝えられるので、ちょっとした脱線エピソードの中で、たぶん喋るテンションによってニュアンスが微妙に変わる話しがテキスト化されると正反対の意味に伝わったりする危険性があるなと思った。

※この話し方如何で意味が変に伝わっちゃう例として、先生が閑話休題的に話していた地球環境問題についての話しがある。
地球の二酸化炭素が急激に増加していて、世界規模で環境保全キャンペーンを打ち出しているけど、この二酸化炭素量って、実は恐竜全盛時代の白亜紀辺りの二酸化炭素量と比較して決して多すぎる値を取っていないんだよね。
つまり白亜紀の方が二酸化炭素量が全然多かった。
その辺の話しを大学生、しかもこれから日本を背負って立つ東大生にすると、「そっか、じゃ、世間で言うほど環境問題って深刻じゃないのかな」って思っちゃうかも知れず、こういう誤解は怖いなーと思うのでした。
※ちなみに、環境問題でこのように「昔はもっと環境が酷かった」などと言い出すと、それこそ35億年前に藻類が進化する前までは、地球上に酸素なんかなかったわけだし、氷河期の繰り返しで生態系なんかボコボコに打撃を受けただろうし、そもそも植物ってのは、今よりももっと二酸化炭素が多い環境の方が酸素を生成する効率が断然高いそうだしと、「一体何のための環境問題なの?!」と言いたくなるんだけど、それは、まさに環境問題の「WHY」の部分が抜けてるからに他ならず、偽善のように「地球に優しい」などとあたかも地球のためとか言ってるから論点がズレて、何が地球に優しいんだか分からなくなるし、そもそも地球の歴史でいうとほんの一瞬前に現れた地球在籍歴の浅いニンゲン風情が「地球に優しく」なんてオコガマシイと思うわけで、どこかでこの「WHY」を考えないと絶対どこかでオカシなコトになると思うわけです。

さて、諸々感じた今回の講義録だけど、総じてとても勉強になったし、面白かった。気をつけるべき点はあるにしても、今後こういう本がどんどん増えて欲しいし、その基になる一般向けの講義もどんどん増えて欲しいものである。
そういや、先日ノーベル賞受賞者の小柴さんが東大で講演するってんで、とても行きたかったんだけど、東京マラソン前日だったので諦めたことがあったな。こういう講演がどんどん増えて、しゅんすけもそのうち行けたらいいな。
| 読書感想文 | 20:33 | comments(0) | -
食傷読書
「新釈 走れメロス 他四篇」(森見登美彦著)を読了しました。
う〜ん、飽きた。これで立て続けに3作品を読んだことになるわけで、実は著者の代表作はあともう2作品ほどあるのだけど、さすがにもう読もうという気が起こらないわ。ネットでいろいろ見ていると、どうも読むのに順番があるようで、しゅんすけはその逆側から読んでいるような感じがしなくもなくて、それが飽きの原因のひとつなのかも知れないけど。ネットではなかなか評判いいみたいだけどね。

京都の街を舞台にして、コメディありホラー(?)あり恋愛ありと違う視点で書かれた本を3冊一気に読んできたけど、登場人物が「腐れ大学生」という軸に大きなブレはなく、小説を超えて主人公が入れ替わってしまっても、さして展開に大きな差は生まれないのではないだろうか、とそんな気にさせる小説の数々。
特殊な地名も、地元の人は分かるかもしれないけど、烏丸と書いて「からすま」と読むのなんか、しゅんすけはほとんど最近まで知らず、大阪支店の人から連絡があって、「あおきさん、例の契約書、社印を押したら先方に送っちゃってくださいよ」と言われたのを、「先方って、カラスマルの住所で合ってるの?」と聞き返したのを、「いや、あおきさん、これはカラスマって読むんですよ」と20代の社員に言われちゃったくらい京都に疎いしゅんすけには、展開を充分楽しめない部分も否めないんだけどね。

それにしても、今回の作品は、とりわけなんだかなーだった。
新訳と銘打っているから原典と何らかの繋がりがあるんだろうけど、「走れメロス」をはじめ、原典なぞ読んだことのないしゅんすけには、もしかしたらユーモアを感じるべき場所を理解できずにすらすらと読み進んじゃったかもしれないとの不安もあって、充分楽しめなかった。これは、「分からない人は原典も読んでね」的な便乗商法とは違うにしても、どこか下心を感じさせる。
さきこと高校時代に観に行った映画「裸のガンを持つ男」と同じ感覚で、パロディの元になる映画を知らないと、なんでみんなが笑ってるか分からないという一種の疎外感にも似ていたのだろうか。

そんなわけで、前作でいささか食傷気味になった著者の作品は、次作を読む意欲を削ぐほどに食傷になってしまったのだけど、一点だけ前回言い忘れたことを書いておけば、この人の著作は装丁に相当凝っているという点。
昨今の本で角背の製本をしている本はあまり見かけない。
しゅんすけのわずかな蔵書の中でも角背なのは、途中で挫折した「ゲノムが語る23の物語」くらいか。角背は読むよりも保管することにウエイトを置いた製本方法で、開いて読むというより閉じて収納する方が向いているんだけど、この本はまるで古くから伝わるゲノムにまつわる物語が記された古文書のような印象を与えるのにわざわざ角背にしていると思われるわけで、それと同じで今回の本も京都を舞台にちょっとレトロな世界を垣間見るようなストーリーを綴じるには、なかなかお似合いで味わいのある装丁なのでした。

さて、次は何読もうかな。
また、森見氏の本を手に取ってたりして・・・。
| 読書感想文 | 00:10 | comments(0) | -
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