オクターブアップ!

「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
千葉の時代。

千葉県市原市の養老川河岸の地層が、地質学における年代の名称「チバニアン」として命名される運びであることが分かったそうな。チバニアンとは、ラテン語で「千葉の時代」を指すそうで、ここの地層が77万年〜12万6千年前の時代の特徴を残しているんだそうな。当時は地球の磁場は今と正反対になっていたそうで、地球の歴史においては最後に磁場の逆転が起こった時代として、重要度が非常に高いんだそう。そんな時代の名前に千葉の名前が採用されるというのは、非常に名誉なことである。チバニアンの名前が、ジュラ紀や白亜紀などと並んで表記されるなんて、嬉し恥ずかし、こそばゆい感じである。
しかし、千葉というのがなんだか違和感を禁じ得ない。いやあくまで個人的な感想なんだけどね。なんだろうな、ちょっと表現しにくいんだけど、千葉という行政区の名称が地質学のような普遍的な名前に使われることの違和感というのだろうか。たとえば、千葉駅のある周辺でそういう地層が見つかったら、そりゃチバニアンでいいんだろうけど、千葉といっても房総半島の中央部辺りなわけで、そこはたまたま行政上の区画としてここを「千葉県」としているからに過ぎないわけで、この土地を千葉というのは、どうもしっくりこない。たとえば、養老川で発見されたことを根拠に「ヨウロニアン」とかなら、分からなくもないけどね。
あまりいい例じゃないかもしれないけど、たとえば伊豆半島の中央辺りで、地質学的に重要な発見があって、これに「静岡」の名前を付けるとしたら、どうだろう。いや、伊豆は静岡県にあるんだから、別に間違ってはいないんだけど、それでも「静岡」よりは「伊豆」の名前をとった方がしっくりくると思う。それと同じかどうか分からないけど、ともかく違和感があるわけである。

 

時代の名称だけではなく、さまざまな分野で国際的な学会が採用する名称というのは、地名を由来にしつつもっと狭い範囲というか、特定的な地域の名称を使っていると思う。
たとえば、ネアンデルタール人の名称は、ドイツのネアンデル谷から化石が発掘されたことが命名の根拠になっている。クロマニヨン人もフランス・クロマニヨン洞窟にその由来がある。時代の名前でも、ジュラ紀はスイス・ジュラ山脈にその語源があり、ペルム紀もロシアのペルミという地名に由来するそうである。
こうして見ると、地層の名前に千葉というのは、やはり違和感があるように思われるけど、さらに調べるとそうでもないことが分かる。
カンブリア紀の由来はイギリス・ウェールズのラテン読み、デボン紀はイギリス・デヴォン州、つまり行政区だよね。シルル紀やオルドビス紀はそれぞれイギリスの古民族の名称シルリア族、オルドウィケス族に由来するんだそうな。つまりまあ、命名については、結局なんでもありというわけである。
だからチバニアンという名称にあれこれ言うのは、難癖をつけているに過ぎないわけである。ぼくがどう感じようと、ね。

 

先に書いたように、なんでもありなのであれば、ぼくも少しは納得してもいいと思うのだけど、それでも違和感がなくならないのは、もしかしたら別の理由かもしれない。たとえば、「チバニアン」という言葉の語感から来ているとか。
そう思うにつけ、即座に連想するのは、つい数年前に幼児たちの間で流行したアニメ「妖怪ウォッチ」である。ここに登場するキャラクターのひとつが、たしか「ジバニャン」といったか。そうだ、チバニアンとジバニャン、ここに違和感の鍵があった。地質学上の名称という重厚なイメージとアニメのキャラクターという軽さの対比。これが違和感の正体かもしれない。せっかく国際学会が認めてくれた名前が、今や流行が過ぎ去ってしまったアニメの名前に似ているという衝撃の事実である。こりゃ、違和感もしょうがないね。

 

そんなわけで、今回のチバニアンの命名で、国際的にも名前が知られ、養老川にはたくさんの研究者や観光客が来るだろう。これをただの観光のネタにしないで欲しいなと思う。この地層が地球が歩んできた波乱万丈な歴史を生き生きと語る重要な場所であることをしっかり理解して保全に努めて欲しいなと思う。そう、観光の具にするあまり、変な看板とか立てないで欲しいわ。
「チバニアンの成り立ちをジバニャンが分かりやすく解説するニャン」とかね。

※これがジバニャン。・・・カワイイ。

| 最近のニュースから | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0)
コミュニティの結び目

先日のニュースで日本語の慣用句について、誤用する例が多くなっているなんて話しがあった。
「話しのさわり」というと「話しの冒頭部分」なんて思いがちだけど、正しくは「話しの要約」を意味するんだそうな。同様に「存亡の危機」は誤用で「存亡の機」だそうだし、「足元をすくわれる」ではなく「足をすくわれる」が正しいのだそうな。日本語は時代とともに変化するなんて言われて、今までにもいろんな新語・造語ができてきたけど、古くからある言葉は、なるべく正しく使うようにしたいものである。まあぼくもまだまだ勉強中で、先の3つの例はすべて間違って覚えていたわけだけどね。

 

ニュースでは、そんな変わりやすい日本語の代表例として、最近の若者言葉を取り上げていた。
流行語は若者言葉から発することが多くて、それは若者が互いの繋がりをより強く認識したいために「内輪言葉」を使うからだとも言われている。友達と強く結びついていることをより強く認識したくて、内輪ではないと分からない言葉を作り出す。内輪言葉が分かることがそのコミュニティの繋がりの強さを表すわけである。それが次第にコミュニティ以外でも一般化し、世間に一般化するという構造である。もちろん、若者発信だけではなく、テレビやインターネットなんかから発する場合もあるけど、その場合においてもコミュニティ内の内輪言葉にしたいという日本人の特有のメンタリティがあるように思える。ネットの某巨大掲示板での隠語などはいい例だと思う。
そういった内輪だけで通じる言葉は、省略言葉の形を取る場合が多い。長い単語を内輪では省略して呼ぶみたいな感じ。アルファベットに置き換えたりすることもあるかな。

 

ニュースでは、最近の若者の短縮言葉をいろいろ取り上げて、街角の人にアンケートして「分かる」「分からない」なんてアンケートを取っていた。もちろん年代が高くなれば知らない言葉も多くなる。新橋で酔っ払ってるおじさんが最近の言葉を見せられて「えー、全然分からないよー」なんて言ってる映像が出ていた。
ここで具体例を出すのはなんだか気恥ずかしいけど、ニュースの中で言われていたのは、「り」とか「そま」などである。「り」は「了解」のことだそうな。以前は「りょ」という若者言葉があるけど、さらに短縮化して、最近は「り」で済ませるそうな。「そま」は「それってマジ?」の省略である。少し前に知った言葉「とりま」と同じか。あれは「とりあえずまあ」の省略だったかな。

 

さらにニュースは続き、最後の締めとして国語学者らしき人が出てくる。
まあこれが一般的なニュースの構成なんだろうな。冒頭にニュースの核になる事実を提示して、次にこれをヒネった最近の世相なんかを提示して、これに対する世の中の反応なんかを提示して、最後に学者がそれらしいことを言って締める・・・って感じ。最後に出てくる学者がほとんどの場合で画面の背景に書棚が映ってるというのも、もはやお約束である。書棚を背負って何かそれらしいことを言ってると、どんなヘンテコなことでも妙に納得してしまう暗示にかかるのかな。
今回のニュースにおける学者の意見はこうである。
「若者が言葉を省略する傾向は以前から見られたことで、『了解』のことを『り』などと省略するのは、その傾向がもっとも進んだ状態ではないか」
うん、なるほどね。ひらがな1文字で情報伝達できるなんて、事態はここに極まれりというわけである。うん、そのとおりだと思う。上に掲げた例以外にもたくさんの省略語があるそうで、それらを見るにつけ、若者の内輪言葉の省略化の傾向はどんどん進んでいると思うしこれからも進むんだと思う。
しかし、ここまで省略化を促した原因は他にあるだろう。そのことに言及しないといけないだろう。
それは、予測変換である。
スマホなどの機器が高度に普及したことは、「り」のような究極の短縮言葉に大きな影響を及ぼしていると思うのだ。
「り」と打てば、予測変換で「了解」が筆頭に来る。若者はこれを選択して表示する手間を省いたのだ。手間を省略し、そして結果として、ひらがな1文字の究極の短縮言葉があらわれたのだ。
日本語で「り」から始まる言葉はさほど多くない。固有名詞以外で普段頻繁に使うのは「了解」くらいである。それは機種は違えど、たいていのスマホは同じような予測変換になるものである。だから「り」だけでも通じるのである。何度も情報伝達をしている内輪だからこそ、「了解」なんて何度も打っていたし、もはや「りょうかい」まで打たなくても予測変換で「了解」が出てくる。当初は「りょ」まで打って「了解」を表示していたけど、そのうち「り」だけで「了解」を得ることができる。これにより若者の頭の中で「りょ⇒了解」「り⇒了解」の図式が定着したわけである。若者が共有したのは、短縮言葉なんていう表層的なものではなく、スマホ機能の裏側にある予測変換機能そのものなのだ。国語学者はここまで言及しても良かったんじゃないかな。
というのは、これって結構スゴいことなのだ。

 

先に書いたとおり、ひらがな1文字でなされる情報伝達は、予測変換というスマホ内の機能に依拠する。閉じられたコミュニティの中でお約束になっていた内輪言葉が、今度はコミュニティとは別次元の機器の機能にその結びつきの証、いわば「結び目」を移行させたわけである。つまり「この言葉が分かるのは、予測変換の熟度が同じくらいの仲間」というわけである。コミュニティの結び目は、従来そのコミュニティの中にあったのが、今回の例ではコミュニティの外、スマホの機能そのものにできたというわけである。
見た目は単純な短縮言葉のようだけど、その本質は全然違うもののように思える。
いやさらに考えを進めると、もともと日本人の内輪言葉のメンタリティには、どこにでもその結び目を持たせることができるほどの柔軟性があったのかもしれない。いやそれとも日本人だけに限ったことではないのかな。世界中にある内輪言葉の根底にある基本構造みたいなものにかかわることかもしれない。日本語でそれが顕著なのは、日本語がそういった変化に柔軟な言語だからかもしれない。
そう思うと、それまでの若者言葉、これも気恥ずかしいけど、「チョベリバ(=超ベリーバッド)」みたいな言葉とは別次元にある話しのように思えるのだ。
ここまではあくまでぼくの妄想だけど、先に書いたように、国語学者が若者の短縮言葉の傾向にスマホ普及の影響を挙げなかったことがかなり意外だったな。まさかこの学者、ガラケーユーザーだろうか。いやガラケーだって予測変換機能くらいはあったよな。それとも「スマホの害悪」みたいな話しの展開を避けるために、わざと論点をズラしたりしたのかな。そのニュース番組のスポンサーが通信会社だったりしてね。

 

そんなわけで、絶えず変化する日本語は、今や老若男女に浸透したスマホの影響を受けるところまで行っている。いくら本や新聞を読んでも、普段やり取りするスマホ同士の言葉には敵わないだろう。この状況がもっと進むと、ほとんどの言葉が、予測変換プログラムを前提にした省略に置き換わってしまうかもしれないね。「り」はほとんど「了解」以外の使い道がないひらがなだけど、いろんな言葉の頭文字になってるひらがなは、たとえば「あ」とかは、「あ1」=「明日」、「あ2」=「明後日」、「あ3」=「足」、「あ4」=「愛してる」なんて表現になっちゃったりしてね。
いくら仲良くなっても、「愛してる」を「あ4だよー」とか言われても、ぼくは全然嬉しくないわ。

 

※今回の話しは、コミュニティの結びつきの根拠(ここでは「結び目」と表現しているけど)が、コミュニティの内部ではなく、外部にあるという話しだったけど、考えてみれば、そういう事例はここ最近の話しではないかもしれないね。
某ジブリアニメ「風立ちぬ」の冒頭部分で、主人公とヒロインが出会うシーンでも、互いがポール・ヴァレリーの作品の一部分を引用して心を通わせていた。互いの距離感がぐっと近づく閉じたコミュニティができる瞬間である。まったく付き合いがないにもかかわらず、彼らがここまで強い結び目を獲得したのは、まさに作中の言葉を知っているというコミュニティ外の結び目に依拠していたことになる。本文でも書いているけど、こういうことは洋の東西を問わず、また言語の性質なども一切問わず、知的な社会性動物としてのニンゲンにもともと備わったものなのかもしれないね。

| 最近のニュースから | 09:11 | comments(0) | trackbacks(0)
宇宙人発見?!

最近はフェイクニュースだのソースが怪しいキュレーションサイトなど、ネット上にはびこる信用できない情報が問題視されている。たとえばアメリカ大統領選の裏には、世論を誘導しようとする嘘ニュースがあったみたいな話しもあって、もしそうだとすると、もはやネットから情報を得ること自体がリスクになりそうだけど、「肩が凝るのは、背後霊の仕業かもしれません」なんて大真面目にアドバイスするようなアホなキュレーションサイトを見て「バッカで〜」と笑っていられるうちは、まだ大丈夫なのかなーと思う。
しかし、先日読んだニュースは、ホントにちゃんとしたニュースなのか分からず、「もしかしてぼくは試されているのか?」と思ったものである。

 

アメリカの天文学の研究所でここ数年何度か観測している「高速電波バースト」と呼ばれる現象が、もしかしたら宇宙人の仕業かもしれないと発表したのである。
光速電波バーストという現象をぼくは知らなかったのだけど、強い電波がほんの一瞬だけまたたく現象のようで、その発生源は地球から数十億から100億光年ほども離れているそうである。そんな深宇宙から数ミリ秒という極めて短時間の電波が発射される現象は自然界では考えられず、人為的なものとしか説明ができないそうなのだ。
たとえば、宇宙船にエネルギーを供給するための巨大な電波送信機があって、この機械から漏れたエネルギーが高速電波バーストの正体ではないかとか、太陽光帆船のような宇宙船に圧縮した恒星のエネルギーを照射するための装置ではないかとか、いずれにしても今の人類の科学力では到底不可能な技術だけど、高度に進化した地球外の知的文明なら可能ではないかというわけである。
ついに宇宙人が存在する証拠を見つけたというわけである。

 

宇宙人が存在するかどうかを考える時、考慮しなければならないのが「未だ地球人は宇宙人と出遭ったことがない」という揺るがない事実である。これをどう解釈するか、宇宙人が存在するかしないかの一つのポイントなのである。
「宇宙人は存在する」という立場では、既に宇宙人は地球に到達していて地球人に成りすまして生活しているから地球人は宇宙人と出遭っていないと思い込んでいるんだとか、太古の昔には宇宙人は地球人と接触していて、ピラミッドやクリスタルのドクロなど、当時の人類にはなかった科学力でいろいろ残してきたけど、それは有史以前の話し記録が残っておらず、今は既に宇宙人が地球を去った後だから、出遭っていないと思っているだけなのだなどと主張している。
一方で「宇宙人は存在しない」という立場では、まさに「現に宇宙人と出遭っていない」ことをそのまま証拠として主張している。出遭っていないんだから、そもそも存在しないのだというわけである。
ちなみにその中間として、「いるにはいるけど、彼らは地球からあまりにも離れているので、コンタクトする方法がないのだ」なんていう主張もある。また、地球との距離が比較的近くて、その距離を航行する科学力もあるんだけど、他の星のことに興味がないのかもしれないなんていう人もいる。つまり宇宙人は、地球人のように夜空の星を見上げて「この星々のどこかに自分と同じように空を見上げている人がいるかもしれない」なんておセンチなことは思わないというわけである。
「恒星はたいてい1個から数個の地球型惑星を従えていて、そんな恒星は銀河には何万もあり、宇宙には銀河が何万もある」という事実を思う時、ぼくはやはり宇宙人はいるんだろうなーとは思う。アインシュタイン先生が言う通り、光を超える速度は絶対に出せないから、数十光年以上に離れている星には現実問題として行くことができないというわけである。つまり宇宙人は存在するけど、決して会うことができない存在なのだ。
そんなぼくの立場から考察すると、今回の高速電波バーストのように、遠くの宇宙で宇宙人が宇宙船を動かした痕跡が見えたかもしれないというのは、非常に興味深い。遠くに宇宙人の痕跡を見たというのは、目の前に宇宙人が現われて意思疎通を図り、そのおかげで地球の遅れた科学力が飛躍的に向上するなんて夢みたいな話しではないにしても、この宇宙には地球以外に生命が息づいているのだと知ることは、人類に新しい世界観を与えるものだと思うのである。

 

しかし、である。
これ、ホントに宇宙人と断定していいのだろうか。
光速電波バーストを電波送信機から漏れたエネルギーだと想像してるけど、高度に発達した文明が作り上げた巨大な電波送信機が遠くの星の人たちに観測されるほどのエネルギーを漏らしちゃうようなことがあるのだろうか。太陽風帆船に照射する高エネルギーの太陽風が帆の大きさからはみ出して、それが遠くにいる地球に観測されるなんてことがあるだろうか。巨大な電波エネルギーを得られるほど科学が発達した文明で、「送信する時に電波が漏れちゃいました」とか「帆の大きさをはみ出すほど広範囲に太陽風を当てちゃいました」なんて原始的で非効率なことがあるのかな。効率よく巨大なエネルギーを得ようとするなら、漏れたりはみ出たりしないような機械を開発するものじゃないのかな。高速電波バーストを説明するために想像する宇宙人の科学力は、なんだか無駄が多いような気がするのである。これじゃ科学が発達してんだか、してないんだか分からなくなるわ。
いや、高度に発達した宇宙人の科学力を地球人ごときが想像できるわけがないのだとも言える。もっと別の目的、別の装置があって、その何らかの影響が高速電波バーストとして地球人に観測されているのかもしれない。それが何なのか分からない。そうなると、もう何が何だか分からないけどね。

 

そんな風に思う時、「パルサー」のことを思い出す。
パルサーとは宇宙に存在する特殊な天体のことである。恒星がエネルギーを使い果たし、エネルギーを放出する力が自身の重量とバランスを失った時に恒星はいろんな形でその姿を変える。超新星爆発をするものもあれば、物質を凝集して矮星になる場合もある。矮星の中でもエネルギーの残滓や凝集による新たなエネルギーなどが自身の中に蓄積されるものもあって、これが火山噴火のようにある一点から放出されるようなことがある。強いエネルギーが天体の一点から放出されるのである。天体の極以外に放出口ができたりすると、天体の自転に合わせてエネルギーが周辺にまき散らされることになる。遠くの天体がパルサーになって、エネルギーの放出口の延長線上にたまたま地球があったとすると、地球でそのエネルギーを観測できるのは、自転に合わせて噴出口が地球に向いたときだけということになる。つまり灯台の灯りのように、一定時間をおいてパッと光り、また一定時間後にパッと光るように見えるわけである。
パルサーが初めて観測された時、上に書いたようなパルサーの仕組みが分かっていなかったから、地球からの見かけでは一定時間をおいてまるで点滅するように信号が送られてくるように見えて、「これは地球に向けた何らかの信号だ」「宇宙人が地球に何らかのサインを送っているに違いない」と騒ぎになった。「やはり宇宙人はいたんだ!」となったわけである。
しかし、パルサーの仕組みが解明されて、自転によって定期的にエネルギー噴出口が地球に向いただけだということが分かったのである。矮星のある一点からエネルギーが噴出するなんてことは、よく考えてみればあり得そうな話しで、宇宙人の存在なんて突飛な考えに飛びつく前にちょっと冷静に考えれば分かりそうなものである。パルサーが定期的に信号を送ってるように見えるというのは、考えてみれば非常にアナログ的というか、単純な話しなのだ。

 

ニンゲンには、「自分以外に宇宙には知的な存在がいて欲しい」と思いたい気持ちがあるのだろうか。「我々は想像するにあまりあるほど広大な宇宙にたったひとつだけの奇跡的な存在なのだろうか」という疑問に、どうしても反論したいのだろうか。
今回の高速電波バーストにしても、考えてみれば案外単純な話しなのかもしれない。
その仕組みが解明されてみると、巨大な電波送信機や太陽風帆船を考える前にどうして思いつかなかったのかと思うようなものかもしれない。しかし、パルサーが発見されて、人為的なものかもしれないと勘違いした時代とは違う。そういう誤謬も含めて、知見として身についている科学者が、宇宙人かもしれないと判断したのである。ぼくの中にも「もしかしたら・・・」という思いがある。このニュースを信じたいと思う気持ちが存在するのだ。
フェイクニュースは何らかの意図があって人を誘導するものだけど、それよりも前に情報を受ける人が、事実に対してニュートラルであることを求められる、というわけである。ネットにはびこる嘘の情報は、結局のところ受け手側の問題なのかもしれないね。

| 最近のニュースから | 12:56 | comments(0) | trackbacks(0)
科学研究の真の功労者。
今年のノーベル賞の医学・生理学賞と物理学賞が発表されて、どちらも日本人が受賞することになったそうな。ここ数年日本人のノーベル賞受賞が続いていて、スゴいなーと思う。

物理学賞を受賞した梶田氏は、ニュートリノの質量を発見した功績を認められたそうで、つまりこのブログでも何度か触れてきたスーパーカミオカンデでの研究成果である。飛騨の山奥にある旧神岡鉱山の跡地に作られた5万トンに及ぶ純水のプールに好感度のセンサーを設置して、宇宙を飛び回るニュートリノが原子と衝突して発するわずかな光をとらえようとしているわけである。これは以前にも書いたけど、1987年のマゼラン星雲での超新星爆発で発した大量のニュートリノをとらえたという偶然に起因している。マゼラン星雲内で発生した超新星爆発がオーストラリアで観測され、「きっと大量の素粒子がこの爆発で大量に飛び散っているハズ」と推測された中、別の研究でセンサーを稼働させていたスーパーカミオカンデ(この当時は「カミオカンデ」か)が、水素原子と衝突するニュートリノをとらえたわけである。来るぞ来るぞと予想されていたものを、期せずして別の研究中のスーパーカミオカンデがとらえたというわけである。それ以来、ニュートリノ研究に多大な発見を続けてきたのがスーパーカミオカンデである。

そして近年、それこそこのブログを立ち上げてからだから、ここ十数年のことだけど、ニュートリノの実験の一環で、筑波の加速器でニュートリノを人工的に加速させてスーパーカミオカンデに射出するという実験があった。宇宙規模でいえば、筑波とスーパーカミオカンデの距離はわずかなものだけど、その中でニュートリノが変質する兆しが見られれば、それは予想されていた「ニュートリノ振動」であり、つまりニュートリノに質量があるということなわけで、宇宙に膨大に存在するニュートリノに質量があるということは、チリも積もれば山となる理屈(?)で、宇宙に存在するナゾの質量・ダークマターやダークエネルギーとニュートリノの関係に迫ることができるし、そもそも宇宙にどうして「偏り」が生じたかのナゾにも迫れるわけである。


あぶない、脱線が長くなるところだった。

それにしても、以前にノーベル賞を受賞した小柴氏や益川氏ら、今回の梶田氏の研究において、どうしても抜きにして語ることができないものは、何をおいても「スーパーカミオカンデ」である。世界的にも例のないこの実験施設は、先にも書いた通り鉱山の跡地である。これを東京大学が買い上げて、その後研究施設に転用したわけである。

ぼくはこの一連の流れに思いをはせてしまう。どういう経緯で、廃坑を国立大学が入手し、そこに世界的に例のない施設を作り上げたのか。そしてニュートリノ反応を偶然とらえたとは言え、当初の研究成果がなかなか出ない施設運用の資金を提供し続けられたのか。

いつの時代もそうだけど、研究者を生かすのは、その研究を支えるパトロンの存在である。ルネサンスもイタリア商人の莫大な資金提供がなければ起こりえなかったわけで、その点でいえば、廃坑になった鉱山を買い上げたお役人の働きこそ、ノーベル賞につながるもっとも偉大な功績だったと思うのだ。この話しはぼくが知らないだけでどこかで語られている話しかもしれないけど、ぼくはこのお役人の働きにロマンを感じてしまう。このお役人がいなければ、2002年から続く一連のノーベル物理学賞の受賞はなかったかもしれないし、素粒子理論で日本が世界の先頭に立つこともなかったかもしれない。

お役人というと、ぼくたちの生活を劇的に良くするようなことにはあまり縁がなくて、たまに大きな変革をするにしても某国の意向を受けてかマイナンバーやら戦争法案やらを推進して自分の保身やら出世しか考えてないんじゃないかと思いがちだけど、研究者を支えるために地道に、でも何気にスゴい仕事をする人もいるんだなーと思うのだ。お役人の何が楽しいって、実はこういうところなんじゃないかと思うし、実はぼくの仕事にもちょろっと通じてる部分があって、何となくシンパシーを感じてちょっとうれしかったりするのである。

ノーベル賞を受賞すると、その研究者の生い立ちがどうのとか、どういう教育をしてきたとか、出身の中学時代の同級生のコメントとか、もうどうでもいい話しがずっと続き、ぼくはうんざりしてしまうのだけど、テレビもそういう変なお祭りムードはやめて、研究者を支えたお役人の功績の話しでもすればいいのだと思うのだ。

そのお役人は今頃どこで何をしているだろうか。すでにそれなりの年齢のハズである。

今回のノーベル賞受賞の報を聞いて、ちょっとニヤリとしつつどこかで祝杯をあげているかもしれない新の功労者を思うのである。

※先ほどのニュートリノの質量発見について脱線話しを書いていて思ったけど、1987年のマゼラン星雲での超新星爆発の際に、まず光としてその超新星爆発をとらえ、研究者は「光に遅れて素粒子が地球にも届くはず」と考えたあたり、また実際に質量のない光子にニュートリノが遅れて到達したあたり、それはつまりニュートリノに質量があった証拠にならないだろうか。実際に地球に到達した光とニュートリノの時間差は、数分だか数十分だそうで、地球とマゼラン星雲の何万光年もの距離を考えると、気の遠くなるほど僅差ではあるけどね。

それにしても久し振りに以前かじり読んだ宇宙のロマンに思いをはせたなー。

※ところで、このブログをどうしても書きたくて、思わず出社前にコーヒー屋に入ってしまったよ。会社には「家庭の事情で遅刻します〜」なんて言って、実は会社の近くのコーヒー屋でブログを書いているのである。
| 最近のニュースから | 09:44 | comments(0) | trackbacks(0)
エンブレム・ファイヤー。
東京オリンピックのエンブレムの盗用問題は「事実は小説より奇なり」というわけじゃないけど、ぼくの予想を大きく超えた展開を見せている。例の盗用されたエンブレムについて、東京オリンピック組織委員会が使用中止を決定する運びになった。まだ決定したわけではないし、今後どう展開するか分からないけど、この一報に純粋に驚いた。

盗用はあくまで疑惑であり、原案やその他の画像も含め、盗用の疑いはあったけど、確定した話しではなかった。盗用の蓋然性があるというか、全体的に見て盗用を疑う証拠が積み上げられていただけだった。こういうお役所的な世界では、疑いがかかってることのみをもって何かの決定がされることはないものだと思っていたし、そもそも中止したところでどうやってやり直すのかなどと考えたら、今日の朝までの状況というのはお役所の方でも「困った状況」なんだろうなーと思っていた。進むも戻るもいばら道だからだ。
しかし事態は急展開を見せた。
この先、どうするつもりなんだろう。税金を使ってエンブレムを選考し、その決定をもってスポンサーが広報活動に動き出しているのだ。選考手続きが問題視されるだろうし、既に広告を作っちゃったスポンサーへの賠償問題もあるだろう。そして新たに選び出さないといけない新たなデザイン。世の中のデザイナーにとって、ここまで注目された東京オリンピックのエンブレムがデザインできることをチャンスとも思うだろうし、一歩間違えば社会的生命をも絶たれる背水の陣と思う人もいると思う。これは思った以上に大変な道である。うん、面白いことになってきたわ。

しかし、そんないばら道をよくぞ選択したと思う。戦後70年になぞらえるのも憚られるけど、敗戦一方の日本においてどうしても戦争を辞められなかったのを命を賭して戦争終結につなげた先人のことを思ってしまう。よくぞ決断したと思う。
東京オリンピックはここまで大変な道のりだった。
メイン競技場の建て替え問題もあるし、スタッフのユニフォームが恥ずかしいほどにカッコ悪い問題もある。しかし、エンブレムの問題に国民感情が少しでも取り入れられたことが、東京オリンピックをちょっと楽しみになってきたこの気持ちに少しは影響していると思う。東京オリンピックに向けてちょっとだけ「がんばれ」と思うようになった。これからもたぶん、かなり大変な事態に直面すると思うけど、ぼくの心の片隅から小さな声でエールを送りたいと思う。
がんばれ!
※ところで、ぼくが先に書いたブログの記事はいきなり陳腐化してしまった。まだきっと誰にも読まれていないのに。
| 最近のニュースから | 14:38 | comments(0) | trackbacks(0)
オイル・イントゥ・ザ・ファイヤ。
東京オリンピックのエンブレムのデザインが、他で使われているデザインとそっくりだったという話し、オリンピックエンブレムの盗用疑惑について、先日ブログに書いた。一部にはデザイナーだけが悪いわけではないとか選考委員も含めて利権体質だとか言われていて、実際そういう部分もあるとは思うけど、ぼくは絵を描く人の一人として、手続き云々よりも他人のデザインを盗作する行為自体を憎み、だからこの話題にはずっと注目している。
さて、あのデザインがホントに盗用だったのかどうかという点が注目される中、選考委員会が発表した内容が衝撃的だった。
曰く「あのデザインには実は原案とも言うべき図案があり、当初はこの原案をエンブレムとして決定した。しかし、その後このデザインに商標上の問題が発生して、デザイナーに一部を修正してもらい、今のデザインに落ち着いた」
つまり、盗用疑惑のデザインには修正を施す過程が存在し、これをエンブレムとして一旦決定したのだから、選考委員会はデザイナーの盗作を選定したわけではないし、デザイナーも原案を修正する過程でたまたま他人の図案と似てしまったに過ぎない、というわけである。これを聞いて「小学生の言い訳か!?」と思ってしまったぼくは、公平な視点を失っていると言えるだろうか。
そんなわけで、選考委員会が発表した経緯によれば、そしてこれが正しいとすれば、確かに盗用の可能性は多少薄まると思う。選考手続きの正当性も証明されるかもしれない。ホントに原案があるのなら、これを提示することで世間の騒ぎは落ち着くかもしれない。こうして話題は「原案は提示されるのか?」に集まった。
しかし選考委員会は原案の提示はしないと言う。まあこういう選考ってその過程をオープンにしないものだし、しょうがないかなと思っていた。しかしここで大きな転機があった。これが数日経った今日まで一向に衰えない爆弾的展開をもたらす。
原案を発表しちゃったのだ。

これには否が応でも注目が集まる。発表しないと言っていた原案をあえて発表しようと言うのだから、疑惑を一瞬で吹き飛ばすような威力があるのだろう。これで疑惑がぱーっと晴れて、日本中、いや世界中が安堵に満たされるハズだった。
しかし、結果的にはそうならなかった。それどころか、火に油を注ぐというのはこういうことを言うのだと・・・いや、ぼくも今までの人生で、火に油を注ぐ光景を見たり、自分自身で体験してきたことはあるけど、ここまで見事に火に油が注がれる光景を見たことはなかった。見事な注ぎっぷりだと思った。
この原案は、まあなんというか、非常にデザインがイケていない。いやもともとカッコ悪いデザインではあったけど、原案ではさらに拍車をかけてダメなデザインになっている。アルファベットの「T」を模しているようで、こんなデザインは他でもよくあるデザインである。そして何より最大の問題は、このデザインにも他の図案からの盗用が疑われたのである。
盗用の疑いを晴らすハズの原案がさらに他のデザインも盗用していたかもしれない、というわけである。まさに「疑惑のマトリョーシカ人形」である。疑惑の時間差攻撃である。
そしてまたさらに盗用疑惑は続く。この原案発表とともに発表されたいくつかのイメージ画像のどれにも他の画像からの一致や酷似が疑われたのだ。発表したどの画像にも盗用が疑われるなんて、いやもう呆れてしまう。満を持して発表した画像が疑惑をさらに助長させるという皮肉というかほとんど喜劇的展開になっているのである。
こうなると、このデザイナーの神経を疑うというか、デザインすることへのマインドの問題だと思ってしまう。ネットに落ちている画像をコピーして加工することに何の疑問を持たない。むしろ当たり前と思う感覚である。「広大なネット世界の膨大な画像を取捨選択して自分自身のアートをコラージュする」と表現するとちょっとカッコいいけど、やはりそういうのはアートでもクリエイトでもデザインでもない。ただのドロボーである。

この件については徹底的に究明をしてほしいと思う。東京オリンピックの開催に向けて、これから先も何とか委員会とやらがいろいろ決めることがあるのだ。あまりにもいい加減なことをやっていると、国民から糾弾されてしまうというプレッシャーを充分感じておいてほしいと思う。
たとえば、これから発表されるであろう「オリンピックキャラクターのデザイン」はどうだろう。キャラクターの存在はオリンピックを盛り上げるための仕掛けのひとつだけど、この「ゆるキャラ」市場が盛んな日本で、どんなキャラクターをどういう手続きで選ばれていくのかはまた注目すべきところである。また開会式のセレモニーの内容もそうである。「開会式の内容はシークレットです。お楽しみに〜」なんて言っておいて、いざ当日になって開会式を見た日本中が呆気にとられてしまうような変な演出だったりしたらどうしようと思ってしまう。
ぼくが思うに、デザインという掴みどころのないものに多くの合意を取るというのは、それだけで大変な仕事なのである。オリンピックはそういうものばかりが集まる世界だから、気を引き締めてやって欲しいと思う。

ところで、今回のエンブレムの盗用疑惑の話しはまだまだ続きそうである。
その結末がどういうものになるか・・・いや、ぼくも自分なりに考えてみてはいるんだけど、あまりいい感じの結末を想像できないんだけど、ともかくその推移を見守りたいと思うのである。
| 最近のニュースから | 09:56 | comments(0) | trackbacks(0)
エンブレムがエンドレス?
東京オリンピックの開催まであと5年。にもかかわらず、その準備において何やらザワザワした話しが後を絶たない。
大会のメイン会場になる競技場のびっくりするほど高額な建設費が話題になり、結局当初の計画を白紙撤回して、最初の企画からやり直しになっちゃったこととか、運営スタッフが着用するユニフォームのデザインがあまりにもカッコ悪くて、ネット上では「こんなアホな服装をやめて、いっそハッピなんかどうよ?」と提案されたデザインがかなり好評だったりとか、高名なデザイナーに発注した大会エンブレムが他で使用されているロゴマークとそっくりだったとか、この時点でこんなにザワザワしてて大丈夫か?と思うほどである。
このザワザワについて思うところをブログに書いてみようと書き出してみたら、いやもう収拾がつかないほど言いたいことが溢れてきてしまった。ぼくはもともと東京オリンピックについてあまり積極的でないのだけど、それも原因かもしれいね。ともかく何度も書き直しては削除していて、だからこの文章がブログに載るところまで行けるか分からないけど、少なくともこの時点で5回は書き直している。そのくらい東京オリンピックには言いたいことが多いわけである。
しかし、言いたいことを延々と書き連ねても退屈なだけだし分かりにくいので、ここは言いたいことに優先順位をつけて、端的に書こうと思う。言い足りないことがあるなら、またひとつずつ書けばいいのである。

そんなわけで、東京オリンピックの話題でぼくが今一番書きたいことである。
それは、大会エンブレムの盗用疑惑である。
そもそも大会エンブレムが発表された時には、かなり拍子抜けした。「え〜これぇ〜」というのが正直な感想。カッコ良くない、あか抜けない、パッとしない。いやデザインのことだから抽象的な表現になっちゃうけど、高名なデザイナーにお願いして作ってもらったものにしては微妙な図案だった。この図案が東京オリンピックの象徴として今後そこここで使われ、終わった後も後世に語り継がれるのかーとか、国内をはじめ世界各国のスポーツ番組のオープニングにこのマークがドドーンとテレビに大映しになるのかーとか思うにつけ、嫌悪感に近いなんだかモヤモヤする感じがするのである。
ぼくの個人的感想はともかく、問題はこのデザインの図案がベルギーのリエージュという街にある劇場のロゴマークと酷似している点である。いや、アルファベットを加工して作られた図案なので、偶然に似てしまうことってなくはないし、オリンピックのエンブレムの方は国際的に商標なんかを確認して採用しているので、法的に問題があるわけではない。だから「偶然の類似でしょ」ということで、このまま進めちゃってもダメじゃないんだろうけどね。感覚、というかさ、似てるものはやめといた方がいいんじゃないのと思うわけである。
そんな中、このエンブレムを作ったデザイナーには、別の疑惑が浮上しているのだ。
国内の某社がキャンペーンで消費者にプレゼントするというバッグに、このデザイナーが作成した図案が採用されているんだけど、ネット上にこの図案と類似したものが見つかったというのである。キャンペーンでプレゼントされるバッグは数種類あるんだけど、酷似が指摘されるデザインはその中でひとつやふたつではないそうである。ぼくも写真で見たけど、これは「偶然の類似でしょ」とはさすがに言えないと思った。ほとんど「完全に一致」と言えるほど似ているからだ。
このバッグの件については、実は後日、このデザイナーが「部下が既存のデザインをトレースした」的な釈明をして、つまり盗用を認めちゃったんだけど、さてこれを聞いて、先ほどのリエージュ劇場のロゴマークの酷似を「偶然」と思えるだろうか。個人的感想だけど、疑わしさのレベルはかなり高いと思う。ほとんどクロに近いグレーという感じである。

盗作は人間の行為の中でもっとも品性のない行為である。
盗作するということは、元の作者がいるわけで、本来なら盗作によってもたらされる賞賛やらおカネやらその他すべては、元の作者が受けるべきものである。これを横からかすめ取る行為は、元の作者への大変な冒涜である。盗作者は「この作品がいいなーへへへ・・・」と思って、つまり作品の価値を認めた上で、結果としてその作者と作品を踏みにじるわけである。「握手する反対の手にナイフを持つ」的な卑怯な裏切り行為。「騙してかすめ取る」と言えば詐欺にあたるけど、心情的には詐欺をはるかに超える悪質性を持つと思う。デザインなどの創作物は、作者が苦労して紡ぎ出したものであり、だからこそその創作物には魂とか力とかが籠められているのである。その苦労をしれっと飛び越えて、結果としての創作物だけを拝借し、自分の創作物として発表し、賞賛を受けるのは、同じ創作者として許しがたい行為であり、創作者であるなら魔が差したとしても、一度として超えてはいけない一線なのである。やってしまった時点で、それは自身の創作者としての自殺である。
ちなみに、盗作・盗用と模倣は違う。盗用は芸術の発展に1ミリも貢献しないけど、模倣は芸術を大きく発展させることがある。ただ模倣には模倣である自覚がある。自分が模倣として真似をしていることの自覚である。あくまで自身のスキルアップのためにあくまで芸術と向き合ってなされる模倣は、何らかの利益の詐取を目的としてなされる盗作とは、次元が違うものである。

もう一つ思うことは、創作者の技量とデジタル技術についてである。
パソコンでリンゴの絵を探し出して、これをちょろっとコピーして自分の作品に貼り付けてしまう。デジタル技術の発達した現代だからこそできる行為だけど、そうして作品を作り上げて自分を創作者だというヤツには「お前はリンゴが描けるのか」と問い質したい。リンゴも描けないヤツがリンゴを使った作品の前に立って、創作者を名乗って欲しくないのだ。

今回の件が、ホントに盗作かどうか分からないけど、あのエンブレムからは生み出すまでの苦労とか魂とか力のようなものを一切感じられなかった。ただパソコンで丸とか三角をクネクネと弄り回して、なんとなくいい感じに落ち着いた的な印象さえ受けるのである。ぼくが「え〜これぇ〜」と思った奥にはこんな思いがあったのかもしれない。
ともあれ、この件は現在も進行中の話しである。このエンブレムのまま押し切るか、先に描いた競技場のように白紙撤回になるかを見守っていきたいと思う。
さて、ここまで書いて残念なのは、ぼくがこの件で書きたい内容の半分も書けていない点である。ホントは盗作のことだけじゃなく、パソコンで図形をかちゃかちゃいじくってデザインを何となく作り上げてしまうデジタル技術の問題点とか、高名なデザイナーが作ったものをありがたがる風潮みたいなこともさらに深く書いてみたかった。また機会があれば書けるかな。
| 最近のニュースから | 12:27 | comments(0) | trackbacks(0)
186メートルの悲喜こもごも。
先日開催された横浜マラソンの距離が問題になっている。
横浜マラソンで走る42.195キロは日本陸連が認める公認のフルマラソンの距離だったそうなんだけど、実際に大会の当日に専用の機器で測量したところ、186メートルも短かったことが分かったんだそうな。つまり公認コースではなかったということである。
原因は事前にきちんとした測量ができなかったこと。横浜マラソンは途中から高速道路を走るコースなので、大会当日でないと通行止めができず、これにより当日でないときちんとした測量ができなかったというわけである。測量とは自転車に搭載した専用の機器を使うそうで、つまり大会当日にランナーに先立って通行止めされたコースを走ってみたら、距離が足りないことが分かったということだろう。
実行委員の人が記者会見で謝罪する映像が夜のニュースにも朝のニュースにも流された。某巨大掲示板にもニュースとして掲載されていた。そして必ずコメントとして「なお、参加費の返金には応じないとのこと」が付け加えられた。
今回の件で、ぼくは非常に違和感を感じている。
マスコミの扱いが酷いと思う。まるで不祥事を起こして社会を大混乱に巻き込んだ企業の謝罪会見のような扱いである。頭を下げてうなだれる姿を再三テレビで映すことにどういう意味があったのだろうか。しかも「返金しない」ことがあたかも図々しいかのような言いっぷりである。世の中の人ってイジメたり、叩いたりする対象がいないとダメなほどココロが荒んでいるんだろうかと思うほどである。
いや、もちろん距離が短かったのは運営側としてダメである。これはもちろん異論がない。高速道路が通行止めできないので、事前に測量ができないことが分かってるなら、最初から公認コースなんて言わなければいいのだ。公認コースなのとそうでないのとでビックリするくらい大きな影響があるとは思えない(小さな影響はもちろんあるとは思うけど)。その意味では、もっと慎重に事を進めるべきだったとは思うし、何か気が急いていたんじゃないのかなーという感じさえする。長く続くランニングイベントなんだから、もっと慎重に進めるべきだったと思う。
でも、公認コースじゃなかったとして、これで大きな支障を来たすような人はどれほどいるのか。
この大会で世界記録とか日本記録とかが出ていれば話しは別である。これを書き替える作業が必要だし、ランナーにも大きな心的ダメージがあると思う。でも、一部のエリートランナーを除けば、186メートルなんて誤差でしかないだろう。
測量には自転車を使うそうだけど、その自転車は道路上のどのコースを辿るのか。そのコースの線上は厳密に42.195キロかもしれないけど、その線より外側や内側は数メートル単位で誤差が出るはずだし、給水や給食を受けるためにコースを斜めに横切るような場面があれなこれも数メートル単位の誤差に繋がるのである。
ぼくに言わせれば、42キロもの長距離を走るランナーにとって、厳密な記録を狙わない限り186メートルなんてほとんど差がないみたいなものである。そしてぼくが観戦した中では、それほどの厳密さにコダワるランナーは圧倒的に少なくて、誰しもが自分のペースでランニングを楽しんでいたハズである。ほんの186メートル短かったことで、それまで走ってきた42キロが無駄になると考えるランナーなんているものだろうか。
ぼくが毎年冬になると走っている某ハーフマラソンのイベントの距離なんてもっと酷い。1キロ当たり6分で刻んでいるハズなのに、後半の18キロ、19キロ辺りになると、1キロの距離が自覚できるくらい変わるのだ。それまでの1キロよりもはるかに長くなるのだ。これはハーフマラソンの後半で走力が落ちてきたとかそういうのを差し引いても確かな事実である。これだって厳密に言えばダメなことだろうけど、ランナーはこれを特に問題にしたりしない。ハーフマラソンの距離が21.098キロだろうが21キロだろうが、いや実は22キロくらい行っちゃってたとしても、ギャーギャー騒いだりしない。ましてや参加費を返せなんて1ミリも思わない。
ランニングイベントなんてそういうものなのだ。いや、ぼくレベルが言い切っちゃうこともないけど、そういうもんだと思っている。
だから、実行委員会がずらっと並んで首を下げている姿に違和感を感じ、参加費返還なんて言ってるのを聞いて憤っちゃったりするのである。
あの大会は確かに準備段階でイケてない部分はあったけど、とてもいい大会だった。新しく生まれ変わったランニングイベント、いわば新参者のイベントにしては、他と比べてもまったくヒケを取らないほどの大会だった。
いろいろとバッシングがあるかもしれないけど、これに負けずに頑張って欲しい。そしてコースを見直して今度こそ胸を張って「測量に誤差なし!」と言い切って欲しい。まあぼくは公認コースかどうかなんて気にしないけどね。
今回の教訓をぜひ次に役立てられるようポジティブに取り組んで欲しいものである。そして願わくば、ぼくを走らせて欲しいなーと思うのである。
| 最近のニュースから | 14:57 | comments(0) | trackbacks(0)
線虫とがんの話し。
昨日某テレビニュース番組を見ていて、ちょっと驚いた。
線虫にヒトの初期がんを見分ける能力があるんだとかで、ヒトのわずかな尿でがんの早期発見に繋がる新技術が開発されるかもしれないんだそうな。これはスゴい。がんの発見のためにはいろんな技術があるけど、これほど手軽で正確性の高い方法はないんだそうで、がん検診や早期がんの治療に革命的な影響を及ぼすかもしれない。
このニュースはいいニュースである。がんは何より早期発見が重要だそうで、早期に対処すれば決して大変な病気ではないとも言われている。それがより正確に、より早期に分かるとなれば、これからがんの発症率が高くなる若い人にとってはいい知らせである。
線虫という生き物を使うところがユニークである。ウネウネと見た目が気持ち悪い彼らが、食物連鎖での重要な役割という間接的な繋がりを超えて、直接的にニンゲンに役立つというのは意外な感じである。そういえば、壊死しそうな組織にウジ虫を直接置いて、腐った組織だけを食べさせて生きてる組織だけを残すなんて技術もあるそうで、無菌化しているとは言え、身体を虫に食わせるというかなりぶっ飛んだ発想を思い出してしまった。
しかし、ちょっとだけ違和感を感じる部分がある。
ウジ虫治療がウジ虫を直接治療に活用するのと違って、線虫によるがん検診は、あくまでがんの発見のためのツールとして使う。そうであれば、線虫を直接使う必然性は、ウジ虫治療よりも高くないようにも思うのだ。
線虫ががんを見分ける際には、何らかのシステムが体内で働いているはずである。それは遺伝子に組み込まれたシステムであり、つまりがんの成分に反応するたんぱく質を作る遺伝子の存在を示唆する。つまり線虫ががんであると判断した際に化学的なフラグを立てるにあたり、それは体内の何らかの化学物質、おそらく遺伝子にごく近いタンパク質が関与しているハズなのである。そうであれば、線虫ががんを見分ける際に反応するたんぱく質を特定・抽出・調合することもできるハズである。そしてそのタンパク質が分かれば、線虫でなくてもそのたんぱく質を直接使ってがんを判別することも可能なハズである。つまり、妊娠検査薬のように尿をかけることでがんかどうかを判別するようなこともできるハズである。
線虫と言えば「エレガント線虫」を思い出す。これはすべてのDNA配列が特定された線虫である。どのDNAがどういう遺伝子の役割を負っていて、どういう発現をするのかが、既に分かり切っている線虫である。今回の線虫の遺伝子がどこまで解明されているか分からないけど、同じ線虫だと思うと、がんの臭いに反応する遺伝子と合成されるたんぱく質を特定することが可能なような気がするのだ。
生物由来の化学薬品なんて、星の数ほどあるのに、今回の研究はなぜそこまで突き詰めずに、線虫自体を使ってがん検診する方法をその研究のゴールにしたんだろうか?ぼくの感じた違和感はそこである。なんか中途半端な感じがした。
いずれにしても、がんを治療する技術とがんを発見する技術が共に発展すれば、がんは決して怖い病気じゃなくなるかもしれない。
ちなみに、以前にも書いたかもだけど、がんを免疫機能で治療する方法も研究中だそうである。身体ががん細胞をインフルエンザウイルスのように悪者と認定すれば、免疫機能が100%機能している限りがんにはならないという理屈である。この発想にはちょっと感動したのを覚えている。
とは言え、がんをニンゲンの身体の機能の一部だとする考え方もある。がんが存在する理由とは、生物としての寿命が異常なほど長くならないように、細胞レベルで機能を失わせて命を終わらせるためだという考えである。若くしてがんになるのはいわゆる病気だから、治癒するように努力すべきだと思うけど、かなり高齢になってもがんと闘うのはどうなんだろうな・・・と、ぼくのそろそろそういう年齢なので、こういうことも考えてしまったりするのである。
| 最近のニュースから | 12:44 | comments(0) | trackbacks(0)
ネズミの恩返し。
最近のニュースより・・・って随分久し振りだな。面白いニュースが少なくなっているからか、ぼくがニュースを面白いと思わなくなったのか。
さて、今回のニュースは個人的に興味をそそられた。ネズミが「恩返し」をするという話しである。
ネズミに対してこういう実験をしたんだそうな。
ネズミが互いに助け合う習性を利用して、レバーを引くとエサが出てくる機械を作り、訓練でレバーを引くようにしたネズミを2種類配置する。あるネズミはレバーを引くとバナナが出るようにし、一方はレバーを引くとニンジンが出てくるようにした。ネズミはニンジンよりもバナナを好む傾向があるそうな。一方でバナナやニンジンを出すネズミの他に、別のケージにエサを受け取るネズミを配置する。エサを出すネズミはエサをもらうネズミを助けるためにレバーを引くというわけだ。しかしエサを受け取る方のネズミにすれば、バナナをくれるネズミはニンジンをくれるネズミよりも「質の高いエサをくれるネズミ」ということになる。
そういう風にキャラ設定(?)しておいてから、次にレバーを引くネズミとエサを受け取るネズミの役割を入れ替る。エサをくれるネズミはもらう方に、もらってた方はエサを出す方に入れ替わる。今度はエサに優越をつけずに、レバーを引くとシリアルが出てくるようにする。その状態でどういうことが起こるか。
先の実験でバナナを出していたネズミがシリアルを受け取りに来ると、ニンジンを出していたネズミが受け取りに来るよりもシリアルを渡す早さや回数が多くなる傾向が見られたそうな。
つまり、先の実験でエサを受け取っていた方のネズミは、バナナをくれたネズミへの恩を忘れずにいて、これをより多くのシリアルで返そうとしたということらしいのだ。つまり、恩返しをしたということである。
そんなわけで、ネズミには恩返しの習性がある、と結論付けたそうなのである。
(いや、表現に苦労する実験だなぁ)

さて、このニュースからぼくが感じたことは、上に書いたような実験の詳細はあまり関係ない。だからぼくの稚拙な文章を解読する必要はない。ぼくがフォーカスしたいのは、「恩返しをする」ことを証明するために、「ニンゲンが見ても分かるような形で『これは恩返し行動だ』と結論できるような実験をわざわざした」という点である。
ネズミは人語を喋らないので、どういうつもり(行動根拠)で行動しているかはニンゲンには分からないから、行動を観察してその行動根拠を判断できるような形で実験しないといけないわけだけど、行動根拠が分かったつもりで実は別の行動根拠があったりするのかもしれないと思うのである。ニンゲンの目には「恩返し」に見えていても、実はネズミにはそういうつもりは全然なかったりするということだ。それは「恩返し」行動に見えた別の行動かもしれないのだ。
いや、もっと違うことが言えるかもしれない。
この実験が実施されるまで、ネズミには恩返しの習性はなかったかもしれない。今回の実験を通して、新たに芽生えた独自の習性かもしれないのだ。つまり、もともとネズミの脳みそは恩返しを理解できる能力があったと仮定し、ただそういう状況になったことがないので、恩返し行動を発現していなかったに過ぎず、今回の実験で初めて恩返し行動を誘発するようなことをさせられ、初めて芽生えた恩返し行動をそのまま発現し、これを見たニンゲンが勝手にもともと備わっていた習性だと結論したという仮説である。
科学者は仮説に基づいて実験しているわけで、そのため「もともと存在しなかったものを実験によって誘発する」ようなことも起こったりするかもしれないというわけ。素粒子理論なんかでもそうだけど、素粒子はニンゲンが観測するまでは、確実にその場に存在しているんだけど、ニンゲンが観測する行動そのものによって位置やエネルギーが不確定になってしまう不確定性原理のようなものである。
予断を入れずに恩返し行動があるかないかを観察する手法ではなく、あらかじめ立てた仮説を立証するために恩返し行動を分かりやすく抽出して観察できるような実験装置を用いたところに、ぼくとしてはちょっと疑問がわいたのである。
※予断を入れずに行動根拠を導き出すには、野生の状態を直接継続的に観察する手法にはかなわないだろうね。

脳みその能力は計り知れないものである。たとえネズミでも、実際は物凄い能力があって、物凄いことを考えているかもしれない。ネズミはその生物学的構造の制約や生活環境のために、その脳みその能力を引き出せていないのかもしれない。たとえばイルカはニンゲンよりも大きな脳みそを持っているけど、外見上はニンゲンのような極端な進化を遂げていない。でも実は物凄い能力があって、もしかすると一過的な情報伝達(鳴き声など)以外に情報を継承する能力とかあるかもしれない。
脱線しちゃうけど、たとえば海底の砂地に言語のようなものを書き残したとしても海流で消えてしまうだろうから、海中に石を積み上げるとかしてその数や高さで(鳴き声で伝えるような)一過的な情報伝達ではなく、後々に継承される情報伝達をしているかもしれない。まさに文化の継承の原初の形態である。しかしもしそうであっても、これを実験で観察しようとしてわざとらしい実験装置を作っても、もともとそういう習性があるのか、頭のいいイルカが実験装置に触れることでそういう習性が誘発されたのか分からないと思うわけである。
※ちなみに、先の恩返し行動がその証明実験の場で新たに形成されたとする説に「再現性があるのか」という点については、実験で恩返し行動を惹起し得る能力をもともと脳みそが持っていたわけだから、同様の実験を繰り返しても他のネズミでも同じような結果(実験の場で恩返し行動がその都度新たに生成される)になるハズで、再現性は担保される。

ここまで考えを進めると、ある仮説が出てくる。
現状の能力が低いからと言って、潜在的な能力が低いということにはならないという点である。特に脳みそはまだ分からないことの方が多いわけだし、生物学的構造が脳みその能力を制約していることだってあるわけだからね。たとえば、もし原始時代のニンゲンを観察する機会があったとして、原始的な石器とかをブンブン振り回している姿を見て、これとほとんど変わらない同じニンゲンが後の時代に繊細なバイオリンのメロディを奏でることになるとは想像ができないと思う。または後の時代のニンゲンが科学技術を結集して他の天体にニンゲンやロボットを送り込むようになるなんて、そんな想像をする方がぶっ飛んでいるようにも思えるだろう。
原始人の時代にバイオリンが存在しなかったから(バイオリンを手にする機会がなかったから)バイオリンを奏でられなかっただけだと考えると、今回のネズミの例でも同様に、恩返し行動を発現する機会がなかったからそうしてなかっただけで、ネズミの脳みそには恩返し行動を表現できる能力がもともと備わっていたとも言えるかもしれないのだ。いや、恩返しどころか、もっとスゴいことができるかもしれない。いや、既にできるのかもしれない。イルカだって、ニンゲンが知らないところで文字を発明し、世代間で継承できる独自の文字的文化を作り上げているかもしれないのだ。

ニンゲン本位で物事を見すぎると見誤ることがある。
ニンゲンの視神経を研究していた科学者がある時「赤・青・黄にそれぞれ反応する神経細胞」を発見し、「ニンゲンには光の三原色を捉える能力がある」などと結論付けたそうだけど、いやそれは逆で、ニンゲンは赤・青・黄の3つにしか光を分解できず、それは光を分解する神経細胞が赤・青・黄の3種類しかないからだというべきなのである。世界は三原色ではなくもっといろんな波長でできているのに、ニンゲン本位で判断すると、あたかも世界がたった3種類の色でできていると誤認するハメになるのである。

ネズミはニンゲンが考える以上に考えているかもしれない。
そう思うと、恩返し行動を検出するために作られた実験装置の中で、ネズミは何を考えていたのかと夢想してしまう。
恩返しとはまったく異質の別の感情で行動していただけかもしれない。
いや、この実験装置の中で初めて恩返しという行動を発現させて実は自身に戸惑っているかもしれない。(「この湧き上がる感情はなんだ?!」的なことを思ってたりして?)
または、もっと別のことを考えていたかもしれない。
たとえば、「これは恩返し行動を見極める実験なんだな。じゃ、ここはひとつ、恩返し的に振る舞ってみるかな」なんて、ね。
そんな夢想に耽ってみるニュースだった。
| 最近のニュースから | 20:30 | comments(0) | trackbacks(0)
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