オクターブアップ!

「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
ヒトカラ。

先月より正式に楽団に入団し、とりあえず9月の演奏会に向けて練習に参加している。毎週土曜日の夕方から夜にかけて、練習に出ないといけないというのは、ぼくにはちょっとしたプレッシャーなのだけど、とにかくあと2か月ちょっとを頑張りたいと思う。
ちなみに、2月くらいから断続的にとは言え楽器を吹いているので、スキルの方は以前ほどではないけど、なんとなく戻ってきた感触がある。まだまだ全然足りてないし、これが足りても下手っぴの域を出ることはないのだけど、それでもとりあえずぼくなりの音楽にはなっているレベルには来た感じである。
しかし、いくつかの楽曲はかなり難しい。特に指回しの激しい楽曲があり、これにかなり苦戦している。当てにくい高音があり、かつ早吹きで、しかも音の跳躍もある。コルネットのような楽器には、ちょっと難しいパッセージである。だから音符に合わせて指が回ったとしても、音が出てくれなかったりする状況である。このまま週一回の練習に出ているだけでは、いつまで経ってもできるようにならないだろう。しかも、楽団の練習会場では、どういうわけか個人練習をする人が少なく、練習会場では楽器の手入れなんかを始めちゃう人が多くて、なかなか楽器の音がしない。ぼくもそうだけど、音がしていない場所では、なかなか一人で吹くのが恥ずかしいというか、憚られるのだろう。周りで誰も吹いていないと、さすがに厚顔無恥なぼくでも一人で吹くのが恥ずかしくなってくる。そんな状況をなんだか時間がもったいないよなーと思いつつ、かと言って吹けていないパッセージをさらう作業を聞かれるのも恥ずかしいのである。
そこで、ぼくはカラオケを利用している。楽団の練習前に1〜2時間程度、カラオケなら一人で気兼ねなく練習できるのだ。これは先月からやっていることで、だから楽団の練習の2時間前には自宅を出るようにしている。
しかし、楽器を持ってカラオケ屋に行っても、「満席です〜」なんて返されちゃったりするのだ。いや、土曜日の真昼間からカラオケするような人がどれだけいるのだろうかと思うけどね。いや、カラオケ楽しいけどさ、若者ならもっと他にやるべきことがあるんじゃないか?例えば乳児幼児の子育て中のママさんなんかは、子供が大きな声を出したり走り回ったりするので、カラオケ屋の個室環境は、ママさん談義の場所としてはうってつけかもしれない。こういう人が日中からカラオケ屋に入り浸るのはよく分かる。しかし、少人数用の個室が土曜日の日中から満室というのは、いささか不健全な感じがしつつ、ホントかよ?と思ったりするのだ。
これはぼくの想像だけど、おそらく満室というよりもカラオケ屋の都合なのだろう。これからの時間帯で2名、3名の利用が期待できる個室を一人で2時間も占有されるのは、カラオケ屋としても商売上の効率が良くないのだろう。一人よりも数人の方が当然ながら高い売り上げになるわけである。ぼくに個室を割り当てた直後に、数人の利用があるのかもしれない。だから、ぼくがカラオケ屋に行っても、「満室です〜」なんてしれっと言ったりするのだろう。いや、想像だけど。
カラオケ屋に行って満室とか言われると、楽団の練習時間まで2時間も3時間も時間を持て余してしまうので、できれば店頭で断られる事態を避けたい。そこで、事前予約することを試みるも、これもほとんどの場合「満室です〜」の一言で断られてしまうのだ。「満室?ウッソだ〜」と言いたくもなる。前日からカラオケ屋の予約をするなんて輩がどれほどいるのだろう。これもおそらく効率上の理由で、一人カラオケを断っているのだろう。まあ、カラオケに行ってもカラオケをやるわけでもないし、ホットウーロン茶くらいしか頼まないぼくのような客は、文字通り招かれざる客なのかもしれないけどね。

 

先週は、ちょっと思うところがあって、川崎の練習会場近くのカラオケ屋に行くことにした。ここでダメと言われたら、開き直ってコーヒー屋に引きこもり、延々と長いブログを書いてやろうなんて考えていた。読者の方が「もう勘弁して〜」と言うくらい、長文のブログを書こうなんて思って、充電満タンのパソコンを持って川崎に向かったのだ。
しかし、ぼくは川崎のカラオケ屋で意外なポスターを見た。
「〇〇学園生徒特別パック」
これは川崎にある某音楽大学の名前である。ポスターにはさらにこんな文字が書いてあった。
「練習場所がない!防音設備がない!そんな悩みもカ〇鉄なら安心!」
「各種練習でのご利用OK(歌練習、楽器練習、舞台練習、セリフ練習)」
おおーっ、カラオケ屋で楽器練習していいんじゃん!音大に近いなど事情もあるだろうけど、カラオケ屋で楽器練習はダメじゃないんだ。ぼくは音大生ではないので、3時間ワンドリンクで500円という破格の値段について、特に羨ましいとも思わないけど、ともかく楽器練習をしていいというお墨付きには、ちょっとした感動すら覚えた。
実は今までカラオケ屋で練習してきたものの、ホントはダメなんじゃないだろうかと心配していたのだ。地元のカラオケ屋でも、ぼく以外に楽器を練習する人を見かけることはあって、トランペットやバイオリンの他にファゴットさえも見かけたこともある。高校生くらいの人が数人でギターを持ち込んでジャカジャカやっているのを見かけたこともある。しかし、これは推奨されざる使い方だと思っていた。店員さんが見逃してくれているだけだと思っていたのだ。
その点では、カラオケ屋で楽器練習OKという言葉には、勇気をもらった。これからは心置きなく楽器練習ができる。

 

そうなると、問題は先に書いたように、一人で個室を占有することによる店の対応である。楽器練習OKと言っても、やはり一人客よりも数人客の方が優先されるだろう。カラオケ屋から断られ、どこにも行き場をなくしてしまうという可能性は、きっとこれからもあるだろう。困ったものだね。
いや、どうかな。今の楽曲の譜読みが完了し、指もクルクル〜っと回って音もパラパラ〜っと出てくれるようになれば、根詰めた一人練習は不要になるかもしれない。そうだな、うん。早くそうなりたいものである。
ちなみに、先週はどういう部屋割りなのか、店員さんより「あの〜パーティールームなら今すぐご案内できますが〜」なんて言われて、これを承知して部屋に入ってみると、そこはおそらく20人くらいは入るだろう大部屋で、さらに防音設備が非常に良くて、我を忘れて集中して2時間ぶっ通しで練習してしまった。いつもなら、ちょっと飽きたり疲れたりして、カラオケをちょろっと歌ったりするのだけど、今回の集中力は自分でもびっくりだった。いい部屋だったな。川崎の練習場近くのカラオケ屋はいいかもしれないな。
そんなわけで、カラオケ屋で一人で練習しつつ、音楽への苦悩と魅力に挟まれながら、演奏会当日は着実に近づいてくるのである。
あと2か月ちょっと、である。

※音大生に優しいプラン。

| 音楽日記 | 15:47 | comments(0) | trackbacks(0)
サックスを吹く女。

先週末はさきこが所用で出かけたものの、早く終わったそうで横浜で待ち合わせて、某楽器店のフェアに行ってみることにした。まあ年度末なので、ここは多少採算を無視してでもどかっと売り上げを立てたいところだろうね。
まりこさんも誘って、サックスを見物しに行ったのだ。

 

ぼくもさきこも一昨年のサックス演奏会の衝撃が忘れられず、この歳になってサックスを始めると息巻いている。さきこはぼくが自転車のホイールを購入するためにコツコツ貯めていた500円玉貯金をその原資に充てるなんて言い出して、早速買ってしまおうかという勢いである。いや、待て、そんな高価な買い物を勢いで買うものじゃない!高価な買い物はある面でノリも大事だけど、ここはひとつ、ちょっと待て。
実のところ、ぼくがサックスを吹いたところで、実際にどこまで上達するか分からない。指が回るか分からないし、いやそもそもリード楽器は吹いたことがないので、音が出るかすら分からないのだ。ずっとトランペットこそ究極至高の楽器だと思っていたから、他の楽器にはまったく見向きをしなかった。特にジャズやポップスなんかで、ソロパートを取り合うような関係であるサックスなんて、ライバル視こそすれ、まさか自分が吹きたいと思うなんて夢にも思わなかった。
そんなぼくが楽器店のショウウインドウにずらっと並べられたサックスを眺めているのである。なんだかなー。
付き合ってもらったまりこさんには、これらの各種メーカーの楽器が実際にどんな鳴りをするのかを吹き比べてもらった。まあ木管楽器はマウスピースやらリードやらリガチャーやら、さらにはその日の体調やらで鳴りが変わるので、楽器店内でちょろっと吹いたくらいで決められるものではないのかもしれないけど、それでもまりこさんが吹く楽器の音色にそれなりに特徴が感じられた。
その結果、当初は日本の楽器メーカーであるヤ〇ハがいいなーと思っていたけど、いやいや最近流通し始めた台湾の楽器メーカーも捨てたもんじゃないなんて思ったりした。さきこもこの台湾のメーカーが作ったサックスが気に入ったようである。価格も安いしね。
いや、どうなのだ?台湾製。ぼくもかなり昔に台湾製のトランペットを購入したことがあるけど、いやもちろんサックスのメーカーとは別の会社だったけど、買って早々に嫌になっちゃったもんな。鳴りが貧弱というか安っぽいというかぺらぺらな感じがしたのである。それでぼくは台湾製とは別の割とメジャーなメーカーのトランペットを購入するハメになったのである。やはり昔から王道と言われているメーカーの方が無難だと思うんだけどね。
いや一方で、最近の台湾の製造業はスゴい。技術がどんどん発展してきて、高い品質を出すようになった。自転車でも台湾のメーカーであるジャイアントを始め、さきこが乗ってるトレックの自転車も台湾で部品組み立てしてるようだしね。今や「台湾=残念」というわけではないのである。そうならば、台湾製のサックスでも構わないか。ちなみにネットの意見はポジティブだったりネガティブだったり様々である。
でも結局、結論を出すことなく、楽器店を後にしたのだ。まあ、ここでぱっと楽器店に行っても決められないよな。
しかし、楽器検討の中で、さきこがサックスを吹かせてもらったのは良かった。

 

さきこが楽器を吹くのを見るのは、もしかすると15年振りくらいかもしれない。それほど昔のデキゴトにもかかわらず、楽器はとりあえずだけど鳴ってくれた。まあ指遣いも何も分からない状態なので、ただ音を出すだけではあるんだけど、それでも楽器を鳴らせることができた。この先、さきこがホントにサックスを買って、何らかの音楽活動を始めるのだとすると、その出発点はまさにこの瞬間にあったわけである。後で振り返って「最初にサックスを吹いたのは・・・」なんて思う時、この日、この楽器店のことを思うのだろうな。そうして思い返す日がいつか来そうで、つまりサックスが一過性の趣味に終わらず、何らかの成果を得るレベルまで行けそうな気がしている。それが例えば演奏会のステージだったらいいなーと思う。

 

そんなわけで、目下のところ、楽器を選定しているところである。
一方ぼくはというと、かなり悩んでいる。お誘いいただいた楽団にこのまま入団するのか、新しい境地に踏み出してみるか。いや、音楽とは一人ではできないものなので、楽団のようなコミュニティの繋がりは大事だと思うんだよね。実際先日久し振りに合奏に参加させてもらってとても楽しかったしね。こういうのを失うのはなんだか寂しいわけで。あー迷うわー。
さて、これからどうなるか・・・。

※さきこのこういう姿を見る日が来るとは思わなかったわ。

| 音楽日記 | 13:59 | comments(0) | trackbacks(0)
先週は。

以前所属していた楽団で大変お世話になった方から誘っていただいて、楽団の練習に参加させていただいた。ちゃんと楽器を吹くのは、実に8年振りくらいである。
この楽団に所属していた時には代表と首席奏者という、内閣総理大臣と大統領を兼任するような大役をいただいて、非常に苦労した経験があるのだけど、楽団から離れて数年も経つと、やはり懐かしいものである。
楽団は先月定期演奏会を終えていて、この日の練習は次の演奏会に向けての譜読み的な雰囲気だった。だからほとんど初心者レベルになってしまったぼくでもなんとか練習に参加することができた。それでも合奏では、初心者に優しい吹きやすい音域のパートではなく、主旋律を担当するパートを割り当ててくれたところに、なんだか配慮を感じて恐縮するばかりだった。大して吹けなかったんだけどね。
でも、合奏はいいものである。
大勢の人が集まって、楽器を拭くというのは、ただそれだけでいいものである。ぼくはこういう雰囲気が大好きである。自身の演奏技術はかなり落ちていて、安定した音が出ないとかタンギングが壊滅的にできなくなっているとか、ホント恥ずかしいばかりなんだけど、それでも練習を重ねていけば、以前の8割くらいまで持っていけるかもなーという感触を得ることができた。
練習の後には、ぼくのために飲み会があったりして、これも非常にありがたかったし、とても楽しくお酒を飲むことができた。懐かしいメンバーとお酒を飲むことができて、ぼくもかなり飲み過ぎて、気が付くと終電の駅で冷たい風に吹かれている自分を発見して愕然としたくらいである(いや乗り過ごしていないんだけどね)。

 

さて、冒頭に書いたとおり、今回の練習は誘っていただいたものである。以前のブログにも書いたけど、「戻ってきてもらえませんか?」のあの話しの続きなのである。だからぼくは近いうちにこの楽団に戻って団員として参加するかを決めないといけないわけである。
これにはかなり迷いがある。
音楽は楽しいし、楽器を吹くのも楽しい。しかし、もう一度どっぷりハマるには戸惑いがある。なんだろうな、何かが足りないのだ。理由はいろいろ考えられるけど、その一つは「演奏者として上達が見込めないこと」かもしれない。週1回の練習では、以前のようなレベルまで技術は追いつくかもしれないけど、それ以上になることは恐らくないだろう。先に書いたとおり、往年の8割くらいにはすぐに追いつけて、そこからあと2割をどこまで持ち上げられるかといった感じに留まるというわけである。つまり、当時の100%を超えて上手くなることはないのだ。そして、100%だった当時でさえ、一般的な奏者と比較して決して上手い部類には入っていなかったのである。決して上手いと言えるわけでもない状態でさえ、追いつけるかどうか分からない。それが今の時点で分かってしまっていること。これが戸惑いのひとつかもしれない。
それにしても、ぼくにとって音楽表現とは、どういうものなのだろう。今回参加させてもらった楽団や一般の吹奏楽団で演奏することだけなのだろうか。もっと気軽に手軽に楽しくできる方法はないのだろうか。ランニングのように思いついた時にぽっとできて、それで大きな満足感や達成感が得られるような形では続けることができないだろうか。その答えはまだ分からない。だから悩ましいのである。
音楽はいいものである。普段の生活では絶対に得られないような感覚を味わうことができる。これをどういう形で続けていくことができるのか。その答えをどう出していけるだろうか。

 

ところで、先の練習の後に行った飲み会で、20年ほど前にまだ赤ちゃんだった子が20歳を迎えて、一緒に飲む機会を得た。これはなんだか嬉しいような、こそばゆい感じだったな。

| 音楽日記 | 06:19 | comments(0) | trackbacks(0)
エンジェル・オブ・ミュージック。

先週はさきこがインフルエンザに感染して、ぼくもウイルスを持っている恐れがあったので、友達が参加する演奏会に行くことができなかった。この演奏会は去年初めて聴きに行ったサックスだけの演奏会で、今でもその感動は鮮明に覚えているのだけど、これに行けなかったのは非常に残念だった。ぼくの中でもはや消えてしまったと思われていた音楽への情熱が、一気に燃え上がった演奏会だった。
やはり音楽はいいものだ。楽団員との軋轢とか演奏会の度に高額の演奏会費を支払わないといけないとか、苦労して練習してきたのに本番では全然いい演奏ができなくて苦労が報われないとか、たとえばランニングと比較しても、費用対効果というか、努力や苦労の量と結果がどうもアンバランスな感じがしていたけど、いや、音楽というのはもうただそれだけでいいものなのだ。おカネや努力・苦労に対する効果がどうのという話しではないのである。
演奏会に行けなかったので、ぼくのココロの中でちょっとだけ燃え始めていた情熱が行きどころをなくしてしまった。何か音楽的な表現がしたくてウズウズしているのだ。

 

そんな折、同僚と飲み会があった。外部セミナーが17時に終わるので、そのまま退社したことにして、ちょっと遠いけど吉祥寺にお好み焼きでも食べにいこうという話しになったのだ。この外部セミナーには、別の部署の女性も同行していて、そのまま飲み会にも参加する話しだったのだけど、前日にこの女性と話した時に「飲み会が終わったら二次会のノリでカラオケ行こうよ」と言われた。いや、二人きりとかそういう変な話しではなく、この女性は過去にプロを目指して歌を歌っていたことがあり、その歌声を一度聞かせて欲しいと以前からお願いしていたのだ。部署が違うので、なかなか一緒にカラオケに行く機会もなく、そのまま時間が経ってしまった。
カラオケに行ける!
この女性からお誘いを受けたので、ぼくは「カラオケに行ける」というただその一点で楽しみが増大してしまった。音楽的表現がしたいとウズウズしていたぼくには、一緒に行く女性がどうのとかもはやどうでもよくなって、ただカラオケだけが楽しみになったのだ。う〜ん、どうしようかなー、何を歌おうかなー。そもそも何人で行くのかな?一緒に行く人数によっては順番が回ってくる回数に限りがあるので、2曲、多くても3曲が限界だろう。しかも同行する女性は歌唱力がハンパないとのウワサなので、ぼくも気合いの一曲を歌わないといけないかな?いや、場の雰囲気からして、いきなり「尾崎」とか歌っちゃマズいか・・・などと、外部セミナーを受けてる時からずっと考えていたのである。
しかし、結局のところ、カラオケには行けなかった。いわゆる一次会が終わった後、「もう少しお酒を飲もう」なんて話しになって、そのまま近場の居酒屋に入っちゃって、そこでずっとバカ話しをして時間が経ってしまい、気が付くと終電が気になる時間になってしまっていたわけである。カラオケには行けなかったのだ。
だから、ぼくのココロのフラストレーションはかなり高い状態である。音楽的表現がしたい、どうしても!

 

そんな時である。普段はまったく使用しないスマホのメッセージアプリがぶるぶるっと震えて着信を知らせてきた。誰かからメッセージが来たようである。
差出人は、ぼくが以前参加していた楽団の方だった。ぼくはいくつかの楽団でこの人に大変お世話になっている。去年だったか、吹奏楽団に誘ってくれたのもこの人である。ぼくにとっては、大変ご恩のある人である。
「今度、定期演奏会があるんだけど、来ない?あと、楽団に帰ってきてもらえませんか?」
なんだろうな、とても暖かい気持ちになった。寒い中を何時間も歩いて辿り着いた街のカフェで、ココアを一口飲んだ時のような、暖かい優しい液体が喉から身体に入り、お腹の辺りでじわーっと広がるような、そんな気持ちになった。続いて、あまりにもタイミングが良過ぎてびっくりした。どこかでぼくのことを見てるんじゃないかと思うほどのタイミングの良さである。ぼくの気持ちが遠隔でも分かるような特殊能力でもあるのだろうか。思わず背筋が寒くなるわ。ココアのような温かさをもたらしたり、背筋を寒くさせたりと、この人はホント「怪人」である。
うん、まさに怪人かもしれない。
「オペラ座の怪人」では、劇中に「エンジェル・オブ・ミュージック」という歌が登場する。ぼくはこの曲が大好きで、自宅で映画を観る時もこの歌が登場するシーンは思わずぐっと引き込まれる。しかし、この「エンジェル・オブ・ミュージック」つまり、音楽の天使と謳われたのが、誰あろうオペラ座の怪人、ファントムなのである。主人公のクリスティーヌはそんなことを知らずに、自分に音楽の喜びを与えてくれた怪人を天使だと歌い上げ、敬愛の思いを持ちつつも、怪しい雰囲気に次第に引き込まれていくのである。
この敬愛と怪しさの両立こそ、メッセージを送ってきた彼にぴったり。まさに怪人である。
演奏会の日は、実のところランニングイベントに参加しないといけないために、時間的にどうしても行けないのだ。どんなに頑張っても演奏会で最後の曲が聴けるかどうかというタイミングである。ぼくの大好きな楽曲も演奏するんだけどね。彼にそのことを告げたんだけど、どうにもココロがおさまらなかった。なんとかランニングイベントを早めに切り上げて行けないものだろうか。
そして、彼のメッセージからもうひとつの言葉がずっと気になっている。
「楽団に帰ってきてもらえませんか?」
これは「帰ってこない?」的なニュアンスと同じかと思われるけど、それでも「もらえませんか?」という点に切実さを感じずにはいられない。彼からそんな言い方で物事をお願いされたことはない。切実な何かがあるのだろうか。いや、それもぼくのココロを揺さぶる計算された言い回しなのか、いやいや、そんな意図はなくてぼくの勘ぐりが過ぎるだけか。気になるわ。気になってココロが翻弄されるわ。
まさに、ファントムにココロを揺さぶられるクリスティーヌのような気持ちだわ。ぼくにとってのエンジェル・オブ・ミュージック、恐るべし。

| 音楽日記 | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0)
それが答えだ。

先週末にまりこさんから誘われてサックス奏者が集まるサックスだけの演奏会に行ってきた。いわゆるサックスアンサンブルの演奏会で、昼過ぎから夜までたくさんの奏者が入れ替わりで演奏し、最後には参加者全員がステージ上で演奏するという企画もあった。この最後のステージにだけ参加するという人もいて、ステージ上には総勢200人を超えるサックス奏者が演奏するのだから、これはなかなかの迫力である。
まりこさんはこの最後のステージで演奏するというので、これが演奏される時間に合わせて家を出て、会場の海老名に向かった。

 

とは言え正直なところ、ぼくはこの演奏会に行くことにあまり積極的じゃなかった。どちらかと言うと消極的だったと言ってさえいい。その理由は、やはり演奏する楽器がサックスだけという点だろう。ぼくは楽器の中ではトランペットが大好きで、トランペットこそ最高で最強で天下無双の存在だと思っていたし、ローマの時代からその原型があったことを考えると、人類の音楽の歴史の草創期からトランペットがあったとも言え、長い音楽の歴史の中で、洗練に洗練を重ねて完成されたのが、現在のトランペットであるわけなのだ。まさに完全無欠の存在である。一方でサックスは19世紀にできた楽器で、歴史はかなり浅い。過去には作曲家や演奏形態に合わせて様々な形の実験的な楽器が生まれ、その後廃れていったことを思うと、さすがにサックスはそういう類の楽器とは言わないけど、そういうトレンドの過程で生まれた楽器なのかなーと、まあシロウトながら思っていた。トランペットへの愛情が深すぎて、他の楽器は全部格下に思ってしまうくらい偏狭な思考だったのだ。他の楽器には申し訳ないけど、実際そういう風に思っちゃっていた。
そんなわけで、演奏会に向かう足並みは、普段よりも若干重かったわけである。しかし結論から書くと、この後ぼくのこの思いはコペルニクス的転回のような逆転を見せることになる。

 

それにしても、サックス奏者って仲がいいよね。サックスアンサンブルだけならまだしも、今回の演奏会のようにサックス奏者を広く集めて、お祭りみたいにしちゃうんだからね。横の連携が強いというかね。トランペットではこういうことはまずないだろう。トランペット吹きって基本的に目立ちたがり屋で、しかも自分さえ目立てばいいという孤高というか排他的な目立ちたがり屋だからな。同じトランペットパートの仲間は、楽曲の演奏の中では協調体制があるものの、それを離れるとなんて言うかライバルみたいなところがあったもんな。一番高い音が出せるヤツが一番偉いというか、一番美味しいところを持っていくというか。2ndや3rdのパートを受け持つ時は、自分はサポーターなんだという気持ちの切り替えがわざわざ必要だったしね。一方でサックスパートは、ジャズやポップスではメインを張ることもあって、目立ちたがり屋が集まる点でトランペットと性質は似つつも、吹奏楽なんかでは木管楽器として早いフレーズを緻密に合わせないといけない面もあるからパート内の連携が強くなるんだろうな。協調性のある目立ちたがり屋みたいな感じかな。まさにお祭り好きな人物像が浮かんでくる。いやまあ、それもこれもぼくの浅い経験と偏狭な思考なんだけどね。

 

さて、ぼくとさきこが演奏会の会場に到着すると、ちょうど前のステージが終わったところで、お目当ての200人ステージを前にその準備のために長めの休憩に入ったところだった。
客席に座って待ってるのもなんなので、ぼくとさきこはロビーに出て、お客さんの中に知り合いとかいないかなーとぼんやり見ていた。
そこに黒いステージ衣装でサックスを携えた4人が現われ、唐突にアンサンブルの演奏を始めたのだ。ソプラノ、アルト、テナー、バリトンの4種類のサックス四重奏で、これがまたいい演奏なのだ。いや、実際上手い人なんだけど、それ以前にサックス四重奏の表現力が素晴らしいのだ。なんていうか、音楽として完成しているというか、もうこれだけで楽団と言ってもいいほど豊かな表現力なのだ。同じアンサンブルでも、トランペット四重奏や中低音楽器を含めた金管四重奏でもここまで完成度が出せるかどうか。それこそ、数日前に聴きに行った11人の金管奏者によるアンサンブルに匹敵するほどのダイナミックで豊かな演奏なのである。
ぼくには衝撃的な演奏だった。頭をガツンと殴られたかのような衝撃である。
しかも吹き方にもよるのかもしれないけど、音色が時にバイオリンを数人で奏でてるようにも聞こえ、時にフルートの独奏のようにも聞こえるのだ。クラリネットのような落ち着いた音色からトランペットのような華やかな音色まで、まあこれは上手い人の吹き方なんだろうけど、4人の演奏がオーケストラの深みをもって迫ってくる感じなのである。
サックスとはこれほど広くて深い表現力を持つ楽器だったのか。吹奏楽やジャズなんかでも活躍するサックスが、数人のアンサンブルでもその表現力を発揮できるなんて。いや、少人数だからこそ、個々の楽器の表現力がサウンドにダイレクトに伝わるということか。いや、もうそれって最強じゃん。最強で最高で天下無双じゃん。トランペットではこれほどの表現力は出せないわ。音楽の歴史においてかなり最近に考案された楽器だからこそ、理論的に研究し尽くされ、現代の音楽においてその真価を発揮できているということなんだろうな。いや、スゴいわ、サックス。

 

そして、音楽への向き合い方を模索するぼくにとっても、サックスの魅力を再発見することはまさに僥倖だった。先日の金管アンサンブルの演奏会で、ぼくが音楽を始めるにあたり、さてどういう形で関わろうかなーと思うにつけ、過去に参加していた楽団への復帰がもっとも容易かと思っていたんだけど、どうもしっくりこないでいた。大勢の人の中で演奏することや毎週のように練習に参加しないといけないことが、今のぼくの生活ではちょっと難しいと思っていたのである。しかし、サックスならアンサンブルという手がある。例えばぼくとさきこがそれぞれサックスを吹けるようになれば、それだけでアンサンブルになる。クラリネットやトランペットではそうはいかない。さらに、サックスが吹ける友達はまりこさんを始め他にもたくさんいる。さらに、サックス奏者を集めた今回の演奏会のような企画もあるのだ。一人でも二人でも何人でも楽しめるサックスこそ、ぼくなりの音楽への関わり方ができる楽器なんじゃないだろうか。いや、それが今のぼくの最適解である。ぼくはぶるぶる震えそうになった。そう、ここに答えがあったのだ!

 

さきこもぼくと同じようにサックスの魅力を再発見したようで、200人のサックス奏者による大迫力な演奏を聴いて会場を後にして帰途に就く時には、この後どうやってサックスが吹けるようになるかの検討会議になっていた。ソプラノ、アルト、テナー、バリトンのどれを吹くか?さきこはクラリネットの経験を生かせそうなソプラノがいいなーなんて言い、ぼくはいっそ指向性をがらっと変えてバリトンなんかいいよなー、ベース刻んじゃうぞーなんて言ったりして、いや、どっちも値段が半端なく高いので、いやはや困ったものだーなんて話しをした。
別に下手でもいいのだ。吹ける曲が「咲いた咲いた」でもいいのだ。二人でセッションできる楽器がどうしても欲しかったのだ。それがサックスなんだ。歳をとっても二人で時々「咲いた咲いた」を吹くのだ。
問題は楽器をどうやって調達するかなーということで、いやこれが最大の問題である。
しかし、不思議なことに「年齢的に新しい楽器を習得するのは無理なんじゃないか」とは1ミリも思わなかった。
「物事を始めるのに、遅すぎることはない」とよく言うけど、ぼくもさきこもきっと吹けるようになると信じて疑っていなかった。それどころか、楽器さえ手に入れば、来年はお客さんではなく出演者としてこの演奏会のステージに乗れるんじゃないかくらいに思っていた。
きっとランニングをやっていたおかげかもしれないね。絶対無理だと思っていた距離を積み重ねた練習と強い気持ちで乗り越えていく。走れそうもない距離を走ってしまう。そんな自分に自分が驚くような経験をぼくはずっとやってきた。だから今回もサックスができると信じている。「咲いた咲いた」じゃなくて、チックコリアの「スペイン」くらいは吹けるようになってやるぜ!って思っちゃってたりするのだ。

 

この演奏会には来て良かった。消極的だった数時間前とは全然違う心境で会場を後にするのは、なんだか奇妙な感じである。
そして、ぼくの目の前に新しい地平が現われた。ただだだっ広い荒野である。そこは草1本も生えていない見渡す限りの平野だけど、この日ぼくはここに種を蒔いたのだ。それがどういう形で芽吹き育っていくのかは分からないけど、種を蒔いたこの時のぼくの気持ちは確かにそこにあった。まるで、これから市街地が開発されていく海老名の駅前のようでもあって、いや、駅前の更地はこれからマンションが建つだけなんだけどね、なんて思ってちょっとおかしくなったのだった。

※200人を超えるサックス奏者のステージ。このステージに乗ってる楽器だけで、いったいいくらになるんだろう。

| 音楽日記 | 12:57 | comments(0) | trackbacks(0)
音楽ホールのステージの煌めき。

昨日は紀尾井ホールでサイトウキネン・オーケストラの金管楽器奏者による金管アンサンブルのコンサートがあったので、さきこと行ってきた。ぼくが勤める会社は紀尾井町にあって、近所に紀尾井ホールがあるのは知っていたけど、こんな雰囲気のある音楽ホールがあるとは思わなかったわ。ホールの内装は木材が多く使われていて、なんだか木の香りがしたし、高い天井からつり下げられたシャンデリアもキレイだった。収容人数はさほど多くないけど、こういうホールで演奏できるのはいいなーと思った。
実際の演奏の方も良かったな。バロック的(?)楽曲も良かったけど、休憩の後に演奏されたポップスはとても楽しかった。有名な「ニュルンベルクのマイスタージンガー〜」や「威風堂々」を金管楽器11人(トランペット×4、ホルン×3、トロンボーン×3、チューバ×1)と打楽器1人で演奏できるなんてスゴいなーと思った。個人的には、もう少し技巧的なフレーズをそれぞれが掛け合うような感じの音楽を期待していたので、少し期待外れな部分もあったんだけどね。

 

先月は渋谷にN響の第九を聴きに行ったし、来週はまりこさんのサックス演奏会、その翌週には以前お世話になった某楽団の演奏会があったりして、最近のぼくは楽器演奏の誘惑にとり囲まれている。去年には、これまた以前お世話になった方から吹奏楽団へのお誘いもあったりして、ぼくが意図していないところで、音楽復帰への機が熟してきてるんじゃないのかな。庭先の柿の実じゃないんだから、知らないところで勝手に熟さないでくれよと思うけど、昨日の紀尾井ホールの眩しいほどのステージを見ていると、あのステージからの風景をもう一度見てみたいとも思ってしまった。
音楽に復帰するにしても、大人数の吹奏楽団はなんだか苦手だし、ジャズバンドはもうコリゴリなので、以前所属していた金管楽団がいいかなーと思っていたけど、今回のようなアンサンブルとかもっと少ない金管八重奏みたいのでもいいのかもしれないね。
そんな話しをさきことしていたら、「作っちゃえば?」なんて言われた。
いやいや、無理だろう。楽団は団員さえいればいいわけではない。いや、団員集めが一番難しいわけだし、そんな人の集まりをどう運営していくか、音楽的にどう導いていくかを考えれば、とてもできるものではない。今から音楽教室に通ってピアノを習得する方がナンボか可能性があると思えるほど、難しいだろう。
でも、やっぱり音楽はいいものである。
街で楽器ケースを持っている人を見ると、羨ましくなる。なんだか特別な人に見えてしまうのだ。「楽器演奏という特殊技術を体得した選ばれし者」といった感じだろうか。ぼくもまたそういう人になってみたい。

 

紀尾井ホールを出る頃には、ぼくの気持ちは固まっていた。
どういう形になるかまだ分からないけど、音楽の活動はぜひ復活させよう。しかも近いうちに。ランニングやサイクリングの優先度を落としてでも、音楽にもう一度向き合いたいと思った。

 

ちなみに、サイトウキネン・オーケストラは、世界的に有名な指揮者・小澤征爾氏が大きく関わっている。だからこそ、ぼくもさきこもこのコンサートに来たわけなんだけど、最後の楽曲の後に、なんと客席にいた小澤征爾氏がステージに現われたのだ!
おおお!はははじめて見る小澤征爾だ!本物だ!
見るからになんだか元気なおじいさんである。いや、感激しちゃったよ。

 

そんなわけで、この日はなんだかとてもいいものを貰ったような気がする。単に音楽を聴きに行っただけでなく、ぼくの音楽に対する思いにもう一度気づかせてくれた感じがするのだ。これが今後どういう展開になるか分からない。ランニングだってサイクリングだって大事だし、これからも続けていくし、もっと言えば絵なぞも好きだし、ネコたちの面倒も見ないといけない。
でも、紀尾井ホールのステージの煌めきは、鮮烈にぼくのココロに刻まれ、それから何かが芽吹きそうな予感はするのである。
いい夜だったな。

※雰囲気のある紀尾井ホールの内部。

| 音楽日記 | 12:32 | comments(0) | trackbacks(0)
エキセントリック第九、再び。

年末のこの時期はここ数年恒例になった第九演奏会である。去年まではお袋さんと外出する数少ない機会のひとつだったけど、今年からは近隣生活が始まったので、お袋さんとの外出はありふれたことになっちゃって、それはそれでなんだか感慨深いものである。

 

さて、実際の演奏だけど、なかなかエキセントリックな感じであった。
クラシックってこれほど解釈が自由なんだなーと思わせた。そしてこういう第九は非常に好きである。まだ年末らしからぬ日が続くけど、早くも大晦日が楽しみである。

 

今年の第九は、去年や一昨年とちょっと違うかもしれないというのは、会場に入りステージを見下ろした時から何となく感じていた。
ステージ上の配列が一般的なものと少し異なる感じなのだ。コントラバスは下手奥に置いてあり、中央に置かれたティンパニの後ろに白いイスが4つ、合唱団が座るであろう長椅子に囲まれているのである。この4つのイスはきっとソリストが座るものだろう。ソリストがステージ前面でなく、後方に移動しているのは、あまり見かけなかった。また、コントラバスの位置もあまり見かけない。そもそもそんなところにコントラバスを置いて、チェロやビオラや第二バイオリンはどこに座るのか?指揮者の強いコダワリが垣間見れる配置であった。
さらに、既に開場しているというのに、ホール内に鳴り響く楽器の音がスゴい。恐らくステージ裏や楽屋で練習しているのだろう。ホイホイと楽器を運搬できないコントラバスは、ほとんど全員がステージ上に揃ってパート練習みたいな雰囲気である。他にもクラリネットやバイオリンの人がステージで譜面をさらっていた。演奏前のこの段階で、奏者が譜面をさらうっている風景もあまり見かけないものである。それを見たぼくは、まだ演奏が始まっていないのに、期待で大きく胸を膨らませた。
まるで数年前に聞いたエキセントリック第九を髣髴とさせるのだ。
あの時の配列もかなり奇妙だった。第一バイオリンと第二バイオリンが上手と下手に対面する形で座り、中央にコントラバスやチェロが配置され、ティンパニのマレットは先が円盤型の木が剥き出しになったもので、それが酷く硬い音色だったのを強烈に記憶している。大晦日のテレビ放送の指揮者インタビューで知ったのだけど、ベートーヴェンの時代の奏法に合わせて弦楽器はビブラートをかけない奏法に統一したんだそうで、指揮者にかなり強いコダワリがあることが分かってとても面白かった。そして、あまりにもコダワリが強いアレンジだったためか、第四楽章の冒頭では演奏が止まりそうになってしまったのだ。さすがに瞬時に持ち直したけど、プロでもこんなことがあるんだとかなり衝撃を受けたものである。そういえばあの時も、開場が始まっているにもかかわらず、奏者が何人もステージ上に残って練習していたな。コントラバスなんか、かなり丁寧にパート練習をしていたことを覚えている。この時の演奏は今でもたまに聴き直すことがあるけど、ぼくの宝物のひとつである。

 

そして今、ぼくが見下ろすステージでは、既に開場が始まっているのに、コントラバスやバイオリンやクラリネット奏者が残って譜面をさらっていて、さらに楽器の配置も非常に特徴的だったのだ。楽屋裏でもフルートが第二楽章の譜面をさらっているのが聞こえる。プロになる前から何度も演奏してきたハズの超有名な楽曲の譜面を本番直前までチェックしなければならない何らかの事情があるのである。まさにあの時と同じ光景が眼下に展開していたのである。

 

結果として、かなりエキセントリックな演奏だった。エキセントリックさで言えば、先の演奏を超えるかどうかというほどのエキセントリックな第九だった。クラシックの楽曲ってここまで自由にアレンジしてもいいんだなーと思うほど、テンポや音量、音符の処理の仕方まで独特な感じだった。なんだろうね、N響って、既成概念を打ち壊すようなアレンジの第九を数年に一度わざと持ってくるようにしてるのかね。ノーマル、ノーマル、アブノーマルみたいな順番で。いやはや、スゴいわ。そして素晴らしいわ。
また、これまで毎年のように出演していた某音楽大に代わった某合唱団のコーラスもまたスゴかった。某音大にどういう事情か知らないけど、まあ昨今の大学生なので、いろいろあったのだろう。しかし、やはり学生のかき集めと異なり、合唱を専門にやっている人たちのコーラスは今までとは全然違っていた。ベートーヴェンが第九を作曲した時、楽曲の冒頭から何人ものコーラス隊を後方で待機させて、待ちに待たせて第四楽章で大合唱を持ってきた意味がちょっと分かったような気がした。やはり、ニンゲンの声は、どんな楽器にも敵わない強烈な訴求力があると思う。まさに歌声に圧倒される感じだった。
これは大晦日が楽しみである。また宝物がひとつ増えるかもしれないな。

 

演奏が終わり、渋谷の喧騒の中を歩いていると、これも毎年のことだけど、なんだか年が暮れていくのに違和感を感じる。ホントにあと数日で今年が終わってしまうのかな。こんなに暖かいのにね。
願わくば、今日の演奏がそのまま放送されるといいなーと思う。大晦日が楽しみだ。

※毎年撮影している会場の写真。ぼくが映ってる。

| 音楽日記 | 14:09 | comments(0) | trackbacks(0)
実話を元にしたドラマの威力。

ぼくはあまりテレビドラマを観ない人なんだけど、近頃は某TBSの日曜9時のドラマは観ることが多い。月曜を前にした最後のリラックスタイムの放送ということもあってか、観てる方がストレスを感じるような展開はあまりなくて、割とハッピーエンドというか、観終わった後に「めでたしめでたし」と付け加えちゃうような展開が多く、安心して観ていられるドラマである。むやみにココロをザワつかせないストーリー展開がいい。たまにあまりにも予定調和が過ぎて「んなわけあるかーい!」って言いたくなる展開もあるけど、観ている側が「さーて、明日から頑張るぞー」と言えるような展開を重視しているのだと思えば、ストーリー的にかなり難があったとしても、いちいち目くじら立てないで観ているわけである。
ちなみに、過去のドラマを思い浮かべてみると、いろんなドラマが次々と思い出され、つまりぼくはかなり以前からこのチャンネル・この時間帯のドラマを観ていたんだと改めて実感している。

 

さて、この時間帯のドラマ枠は先月から新しいドラマに変わったのだけど、これが別の意味でココロをザワザワさせるものだった。
その原因は、何よりこの新ドラマの題材が「吹奏楽である」という点である。
ぼくが音楽から離れて10年近くが経つけど、未だに音楽への思いは熱く残っている。そのぐつぐつ煮えている状態は、いつでも圧力を上げて勢いよく噴出させることができるもので、いつか来るその時までずっとぐつぐつ待っているのである。つまり、気持ちのうえでは、機会さえあればいつでも音楽に復帰できるつもりでいるわけである。
そんな折に新ドラマで吹奏楽をやられては、いつかのためにせっかく温存していたぐつぐつが、期せずして圧力を高めてしまう。いつかのために抑え込んでいたのに、堪え切れずに噴き出してしまうかもしれないのだ。いや、まだだ、噴き出すのはもう少し待ってくれ。今のところは、まだ音楽に復帰するべき時ではないのだ。

そんなわけなので、このドラマを観るにしても、音楽への思いを高めないようにしないといけない。気持ちを平穏にして、ココロをザワつかせない。意識してストーリーにのめり込まないようにしよう。ゆめゆめ、登場人物に自分を投影するなどということは避けなければならないのだ。
このドラマには吹奏楽が出てきて、よく知った楽曲も聞こえるかもしれないけど、それは虚構であり、もしくはどこか遠い世界で起こったことであり、そんなウマい話しは現実にはあり得ないし、ぼくには一切関わりのないものである。
そう思えば、ぼくのココロはザワつかない。新ドラマが始まる前までに、ぼくは意識してそう思い込むことに成功して、それまでのドラマと同様、安心して観られるように準備をととのえていたのである。

 

しかし、である。
そのドラマが始まる直前に、簡単なあらすじや展開を紹介する番組を放送していて、それを観て知ったのだけど、そのドラマは現実に起こった実話をベースにしており、しかもそれはぼくが住む横浜のとある高校で起こったことだそうなのだ。その高校の吹奏楽部は、その世界ではほとんど伝説的な存在で、ぼくもよく知る高校である。今回のドラマは30年くらい前のその高校であったことをベースに描かれているわけである。
30年前と言えば、ぼくが学生で吹奏楽をやっていた時代である。中学校で吹奏楽部だったぼくは、進路指導の先生からこの学校への進学を薦められていた。吹奏楽を続けるなら、うってつけの学校で、学力的にも充分だそうなのである。結局、ぼくはその学校に進学しなかったわけだけど、もしかしたらその高校に進学して、吹奏楽部に入部して、そしてこのドラマのモデルになった某先生に指導を受けていたかもしれない。
そんな高校がテレビドラマで出てくるとは・・・!それはもはやどこか遠くで起こったどころじゃない。ぼくの地元の話しであり、ぼくの通った高校の隣の高校の話しであり、年度は若干違うけど、それでもぼくの先輩になるかもしれなかった人たちの話しじゃないか!他人事なんかじゃ全然ないわ!

 

いや、これには参ったわ。
これではココロがザワつかないわけがない。このドラマを終始一貫して、冷静に観るなんてできるわけがないわ。
それでも、ぼくよりもさらに数倍、数十倍もザワついている人もいるだろう。この高校を卒業した人であり、この吹奏楽部のOBたちである。そりゃ高校の部活なので、当時はいろいろあったと思うし、それがいい思い出になってる人ばかりじゃないハズである。そんな高校時代の思い出の顛末を、いやテレビだからそりゃいろいろと脚色したりしてるだろうけど、テレビで観ることになるその心境とは如何ほどのものだろうかと思うのである。多少ザワついたくらいでギャーギャー言ってるぼく以上に、そういう人の心中はほとんど修羅場だと思うのである。まあ、修羅場になるほどの人は、そもそも最初からこのドラマなんか観てないのかもしれないけどね。

 

そんなわけで、テレビの中の虚構と思っていたものが、一気に自分の身近に迫ってくる思いに苛まれつつ、それでもかなり脚色を加えた部分が強いので、虚構だ虚構だと自分に言い聞かせつつ、これからもドラマを観続けようと思うのである。

 

ちなみに、このドラマのモデルになった高校は今は存在しない。
以前にもブログで書いたけど、少子化の影響で神奈川でいくつもの高校が統廃合となり、吹奏楽コンクール全国大会優勝という輝かしい経歴があるこの高校も非情にも統廃合されてしまった。高校はなくなったけど、コンクールで演奏した音源は一般にCDで発売され、今も買って聴くことができる。まさに伝説の栄光は今もなお燦然と輝き続けているのである。
思い出されるのは、ぼくが高校1年の時のコンクールである。県大会だったかと思うけど、先輩に誘われて吹奏楽コンクールにこの高校の演奏を聴きに行ったのである。たしかこの時は、熱い演奏も虚しく全国大会に行くことはできなかったと記憶しているけど、コンクール会場で聴いた彼らの演奏に、ぼくは雷に打たれたような衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えている。
物凄く超絶技巧の難曲だった。非常にハイレベルな技術がすべての奏者に備わっていないと曲として成り立たないほどの難曲。すべての楽器が津波のように押し寄せる圧倒感があった。楽曲の初っ端からハイトーンでダブルタンギングの早いパッセージを奏で、中盤ではトランペットの技巧的なソロがカッコよく、終盤ではこれ以上ないほど盛り上てからのホルンの咆哮が登場するのである。こんなカッコいい楽曲をいつか演奏してみたい・・・いや、天地がひっくり返ってもぼくには絶対に演奏できない楽曲を、同じ高校生が演奏していることが衝撃だった。打ちのめされた。あれは今思い出してもスゴかったわ。
進路指導の先生の話しを聞き入れてこの学校に進学していたら、ぼくはこの演奏の中にいたかもしれないし、いや舞台袖で自分の不甲斐なさを噛みしめていたかもしれない。そのどちらだったとしても、この演奏を前にして、ぼくの音楽への関わり方はきっと今とは全然違っていたかもしれないし、今でもかなり真剣に音楽に向き合っていたかもしれない。
高校2年生や3年生の頃、この高校がコンクールを勝ち抜いていくのを見て、その度にぼくは進路指導の先生の言葉を思い出していた。
ちなみに、誓って正直に言うけど、この高校に進学しなかったことを後悔してはいない。ハイレベルな演奏をしたいとは思っていたけど、人生はそれだけじゃないし、コンクールを勝ち抜くことだけが吹奏楽じゃないという中学時代の吹奏楽の先生の教えがあったからである。選択は間違ってなかったけど、選択し得た進路の先に何があったのかは今でもちょっと気になっているのだ。

 

そんなわけなので、ぼくがこのドラマを前にして、ドキドキを禁じ得ないというのはもうしょうがないことである。きっと話しが進行していくにつれて、その度にいちいちドキドキするんだろうな。本筋とはあまり関係のないところで、ほんのちょっとした何かに符号を感じてドキッとしたりね。
そんな日曜の夜にドキドキするのは、このドラマを放送してる某テレビ局の本来の意図とは反しているのかもしれないけどね。
それにしても、映画なんかでよく「これは実話を元にしています」って言葉を聞くけど、つまりそこには、その映画を心中穏やかには観れない人が、当事者だけじゃなくその周りにも意外と結構大勢いたりするんだろうな。そんな変な感覚をこれから毎週日曜日に味わうのが続くのである。

| 音楽日記 | 13:18 | comments(0) | trackbacks(0)
超絶的で傲慢な万能無敵な洋琴の共演。

週末は、ピアニスト小曽根氏のコンサートに行ってきた。
ジャズ界の巨匠・チックコリアとの共演ということで、非常に楽しみにしていたんだけど、いや、もうなんていうか、聴いてる方が非常に頭を使う演奏だった。ピアノの連弾というのをたぶん初めて聴いたんだと思うけど、ハイレベルな音楽が超絶技巧で応酬される展開に、いやもう音楽そのものに付いていくので精一杯だった。それは音楽的な理解にはまったく及ばないほど高度かつ技巧的なピアノの演奏である。たとえば、ほとんど無拍子に現代的なハーモニーが次々と繰り出され、崩壊ギリギリのところでたった1音だけで落ち着かせるところだったり、低音でリズムを刻み始めたかと思ったら次の瞬間にそのテンポを完全に無視して、また無拍子な現代的な旋律に回帰するところなどが、もはやぼくの知的レベルを大きく凌駕していた。そんな不可解な音楽の中で、演奏者の二人はお互いの旋律やハーモニーを聴きながらそれを受け取りつつ、些細な部分でハズしたり崩したりして音楽を構築したり崩したりと、その作業はほとんど文学的ですらあった。向かい合った二人の子供が、交代で積み木を積んで遊んでいる風景にも似ているかな。協力して積み上げた積み木を完成直前に土台から崩してまた積み直すとか、一部だけ崩してまったく違うものを作り始めるみたいなイメージである。超絶技巧なピアノの連弾だけど、やってることは向き合った二人が音遊びをしているだけ、なんて想像しながら聴いていた。

それにしても、ピアノは凄い楽器である。ピアノだけで音楽が完璧に完了してしまう。複雑に折り重なる旋律も厚いハーモニーも打楽器的なテンポ感もピアノだけでできてしまう。バイオリンやクラリネットやトランペットや打楽器にはそれぞれの音色があり、それが組み合わさることで深い音楽を構成するのは確かにそうだけど、弦楽器や吹奏楽器には単独でハーモニーを奏でることは無理だし、打楽器は旋律を奏でることができないわけで、ピアノがそのどれもが単独で可能という点で、どの楽器も敵わない万能の無敵な楽器だと思う。
それ故に、ピアノは傲慢な楽器とも言える。一人で音楽のすべてを支配することができるのだ。たとえば今回の演奏でも、そのテンポやコード進行から、きっとこう展開するなーと予想される展開が、微妙ではなく明らかに違った形で着地することがあり、一瞬「あれ?」と思うけど、その後に続く音楽の進行によって、その違和感を打ち消し、さらにこれを発展させるなんてこともあった。またテンポ的に2拍待たないと旋律が完結しないところを、その2拍分を端折って次の展開に繋げるなんてこともあった。ピアノにはテンポやコード進行すら無視できるほどの強大な力があるのである。こういう強大な力を見せつけられると、ピアノってスゴいなーと思いつつも、傲慢な楽器だなーと思うのである。
ちなみに、こういう傲慢さが漂う高度な音楽を二人で共同して作り上げることができる点が、この二人の尋常ならざる音楽的能力を表わしているんだと思う。

ステージにはピアノが2台置かれていた。
小曽根氏とチックコリアのピアノである。その2台のピアノはどちらも天板が外された状態で向かい合って置かれていた。天板がないので、ピアノの内部が丸見えである。金色の鋼の骨組みが露わになり、遠くて見えなかったけど、そこには88本の弦と羊毛に包まれたハンマーが配置されているハズである。
天板が外されたピアノを見るのは初めてだけど、その姿からは「今日はピアノだけのコンサートなので、他のどの楽器にも気兼ねすることなく、音が出せるわ」なんていうピアノ自身の意気込みみたいな声が聞こえそうで、ピアノの本気モードの姿を見てるような気さえしてきた。天板がない状態がピアノの本気モードだとしたら、天板を綴じた状態やつっかえ棒で少しだけ開けられた状態のピアノは、本気じゃない、つまり手加減モードの姿ということになるわけで、そんな状態でオーケストラすら相手に演奏しちゃうピアノって、どれだけスゴいんだと思うのである。いやピアノってのは、やっぱりスゴいし、万能で無敵だし、それ故にやっぱり傲慢だわ。
いや実際には天板がないのは、会場の音抜けなんかを当然ながら考慮しての対応だと思うし、普段ピアノが手を抜いているわけでも、天板を外したピアノがいわゆるラスボス的最終形態だというわけでもないとは思うけどね、ちょっと愉快な想像力に身を委ねて音楽を楽しんだりしたのである。

ともかくも、そんなピアノの超絶演奏に衝撃を受けてしまい、脳みそがフル回転するヒトトキを過ごした。音楽を聴くのに頭を使い過ぎたので、お腹が減ってしまい、終演後に思わずステーキなんぞ食べに行っちゃったよ。
ちなみにチックコリアと言えば、ジャズの名曲「スペイン」が有名で、ぼくも大好きな曲だし、小曽根氏もライブなんかで演奏しているのを某動画サイトで見たことがあるので、今回のコンサートではこりゃ絶対演奏しないでは終わらないだろうと思っていたのだけど、その期待に反して最後まで「スペイン」は演奏されなかった。後で知ったけど、このコンサートタイトルには「アコースティック」と書いてあって、これはつまり「ジャズはやらないよ」ということだったのかもしれないと後で思うにつけ、なんだかお預けをくらったようなちょっと残念な気持ちだった。
でも、無拍子の超絶技巧の応酬されるある曲の中で、「スペイン」を感じさせるコード進行がちょっとだけ挿入されて、「もしやこれから始まるのか?この無拍子的現代的フレーズは、あの曲のお馴染みのフレーズに至るまでの超絶的に長いカデンツァだったりするのか?」などとドキドキしちゃった。
エキサイトしそうでエキサイトでき切れない、やっぱりぼくには追いつけない音楽の世界だったなーと思うのである。次の機会があったら、ちゃんと二人でジャズをやってくれる演奏を聴きに行きたいものである。
| 音楽日記 | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0)
オトコマエな金遣い。
昨日は年度初めの4月1日だったけど、午後に会社を早退させていただいて、あるジャズミュージシャンのコンサートにさきこと行ってきた。いや、半休するほどのことでもなくて、実際のところ演奏会が開かれるサントリーホールは会社近くの駅から2駅先にあるから、移動時間は30分足らずなわけだけど、まあ桜もキレイに咲いたことだし、ちょっとサボり心が芽生えてしまった。
駅周辺に桜並木のキレイな道があって、ここはいつか来たいと思っていた場所で、しかも以前から首都高を通っている時にとても気になっていた場所だったんだけど、ここが「桜坂」だったんだね。どこかで聞いたことのある坂の名前だったけど、ここがそうなのか。
さて、この日はかなり肌寒く、空はどんより曇っていたので、花見にはあまりいい天気ではなくて、時間までさきこと屋内のコーヒー屋で過ごし、開場時間を待ってサントリーホールに入った。
 
※桜がキレイだなー。

今回聴きに来たジャズミュージシャンとは、クラリネット奏者の北村英治氏である。今年で88歳の米寿を迎えるのを記念して、コンサートを開いたというわけである。この方のクラリネットは20年以上も前からずっと好きで、一番最初にさきことジャズライブに行ったのもこの人だったし(そういや、同じ六本木のジャズバーだったな)、その後銀座のジャズバーなんかにもライブに行ったりしたものである。いろんなジャズミュージシャンのライブに行ったけど、一番好きなジャズミュージシャンである。
このコンサートの存在を知ったのは、某SNSの記述である。一目見た瞬間に、これは「行かねば」と思い、早速さきこのiPhoneにメッセージを送った。ほどなく返信があり、ぼくと同じで「それは行かねば」という力強いメッセージだったんだけど、とは言え、まあ場所も場所なので、チケット代もジャズバーとは違って高額になるものだから、ぼくとしては「まあB席か、奮発してA席かなー」と送ったら、「S席を取れ」というさらに力強いメッセージが返ってきた。いや、さすが、さきこ、である。金の遣い方がオトコマエである。

※サントリーホールのステージ。ワクワクするわー。

クラリネット奏者のコンサートで、しかもコンボスタイルでは、サントリーホールは広すぎるかなーと思ったけど、北村氏の力強い太い音ではいささかも狭さを感じさせなかった。いや88歳にしてなおお元気である・・・ってか、どこにそんな元気パワーが隠れているのかと思うほどである。
演奏スタイルはコンボから、クラリネット六重奏、ピアノとの共演、ビッグバンドとどんどん変化して、最後に定番の「シングシングシング」で幕を閉じた。クラリネット奏者が代わるがわるソロパートを吹くのは、鳥肌ものだった。いや、時間を感じさせない素晴らしい演奏だったわ。やっぱりぼくはこの方のクラリネットは大好きだわ。これからも元気にクラリネットを演奏して欲しいものである。
ところで、このコンサートで北村氏とピアノでデュオを務めたのが、小曽根真氏である。この方のピアノも以前からとても大好きで、いや、ぼくの理解を超えた超絶技巧と感性を持っている方で、ほとんど崇拝に近い好きっぷりなのだけど、この方が出てきた時にはいやもうテンション上がったわ。ラジオやテレビや動画サイトでは何度も見ているし聴いているけど、実際の演奏はそれ以上のパワーだった。圧倒された。彼のピアノから奏でられる旋律は、それまでよく聴いていたピアノのそれとはまったく違う世界のものというか、たとえば同じニンゲンの同じ口から同じ日本語で語られる言葉であっても、話し人によってはその言葉遣い、センス、言葉選びによって、ただ話しを聞いているのとはまったく違う感じになるのと似ていると言える。まるで崇高な宗教者の説教を聞いているような感覚で、その一言一句を聞き逃さないように耳を傾け、全身全霊でそれを理解しようとする。小曽根氏のピアノを聴いていると、「おカネを払って聴いている」というよりも「申し訳ないくらい少ないおカネで聴かせていただいている」なんて気分になってくるから不思議である。
今回のコンサートのパンフレットには、いろんなコンサートのチラシが挟まれていて、その中のひとつに、小曽根氏が5月に開催するコンサートのチラシも入っていた。小曽根氏と来日するチックコリアとの共演だそうである。チックコリアと言えば、代表作「スペイン」は大好きな楽曲の筆頭である。これを小曽根氏がライブで演奏しているのを某動画サイトで何度も聴いたものである。これはもう最強のピアノ連弾である。絶対に聴きに行かねば。
実はコンサートが始まる前に、ぼくはプログラムに挟まれているこのチラシの存在に気付いていて、それがどれだけスゴいコンサートになるかを想像して、ワクワクの暴走とまだ見ぬステージを想像して鳥肌を禁じ得なかったんだけど、あえてさきこには伝えずに、コンサートで小曽根氏が登場するのを待った。そして小曽根氏の演奏を聴き、さきこにチラシの話しをしたのだ。もちろんさきこも既にチラシの存在には気づいていて、そのスゴさも当然分かっていたので、ぼくの投げかけに一言、「行くでしょ」と言ってくれた。またちょっとおカネが張るけど、この日の演奏を聴いたら、何事もなかったかのようにやり過ごせるものではない。
iPhoneでチケット予約しようとしたんだけど、サントリーホールの演奏は既に完売になっていて、結局、某横須賀のホールでのコンサートを予約することになったんだけど、そこでもさきこが一言、「S席を取れ」が出た。やはり、さすが、さきこ、である。
結果的にはS席も完売だったので、あまりいい席では聴けないのだけど、とりあえず席を予約できた。演奏会は5月だそうである。うん、楽しみである。
| 音楽日記 | 11:46 | comments(0) | trackbacks(0)
夢想の地平面
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