オクターブアップ!

「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
それが答えだ。

先週末にまりこさんから誘われてサックス奏者が集まるサックスだけの演奏会に行ってきた。いわゆるサックスアンサンブルの演奏会で、昼過ぎから夜までたくさんの奏者が入れ替わりで演奏し、最後には参加者全員がステージ上で演奏するという企画もあった。この最後のステージにだけ参加するという人もいて、ステージ上には総勢200人を超えるサックス奏者が演奏するのだから、これはなかなかの迫力である。
まりこさんはこの最後のステージで演奏するというので、これが演奏される時間に合わせて家を出て、会場の海老名に向かった。

 

とは言え正直なところ、ぼくはこの演奏会に行くことにあまり積極的じゃなかった。どちらかと言うと消極的だったと言ってさえいい。その理由は、やはり演奏する楽器がサックスだけという点だろう。ぼくは楽器の中ではトランペットが大好きで、トランペットこそ最高で最強で天下無双の存在だと思っていたし、ローマの時代からその原型があったことを考えると、人類の音楽の歴史の草創期からトランペットがあったとも言え、長い音楽の歴史の中で、洗練に洗練を重ねて完成されたのが、現在のトランペットであるわけなのだ。まさに完全無欠の存在である。一方でサックスは19世紀にできた楽器で、歴史はかなり浅い。過去には作曲家や演奏形態に合わせて様々な形の実験的な楽器が生まれ、その後廃れていったことを思うと、さすがにサックスはそういう類の楽器とは言わないけど、そういうトレンドの過程で生まれた楽器なのかなーと、まあシロウトながら思っていた。トランペットへの愛情が深すぎて、他の楽器は全部格下に思ってしまうくらい偏狭な思考だったのだ。他の楽器には申し訳ないけど、実際そういう風に思っちゃっていた。
そんなわけで、演奏会に向かう足並みは、普段よりも若干重かったわけである。しかし結論から書くと、この後ぼくのこの思いはコペルニクス的転回のような逆転を見せることになる。

 

それにしても、サックス奏者って仲がいいよね。サックスアンサンブルだけならまだしも、今回の演奏会のようにサックス奏者を広く集めて、お祭りみたいにしちゃうんだからね。横の連携が強いというかね。トランペットではこういうことはまずないだろう。トランペット吹きって基本的に目立ちたがり屋で、しかも自分さえ目立てばいいという孤高というか排他的な目立ちたがり屋だからな。同じトランペットパートの仲間は、楽曲の演奏の中では協調体制があるものの、それを離れるとなんて言うかライバルみたいなところがあったもんな。一番高い音が出せるヤツが一番偉いというか、一番美味しいところを持っていくというか。2ndや3rdのパートを受け持つ時は、自分はサポーターなんだという気持ちの切り替えがわざわざ必要だったしね。一方でサックスパートは、ジャズやポップスではメインを張ることもあって、目立ちたがり屋が集まる点でトランペットと性質は似つつも、吹奏楽なんかでは木管楽器として早いフレーズを緻密に合わせないといけない面もあるからパート内の連携が強くなるんだろうな。協調性のある目立ちたがり屋みたいな感じかな。まさにお祭り好きな人物像が浮かんでくる。いやまあ、それもこれもぼくの浅い経験と偏狭な思考なんだけどね。

 

さて、ぼくとさきこが演奏会の会場に到着すると、ちょうど前のステージが終わったところで、お目当ての200人ステージを前にその準備のために長めの休憩に入ったところだった。
客席に座って待ってるのもなんなので、ぼくとさきこはロビーに出て、お客さんの中に知り合いとかいないかなーとぼんやり見ていた。
そこに黒いステージ衣装でサックスを携えた4人が現われ、唐突にアンサンブルの演奏を始めたのだ。ソプラノ、アルト、テナー、バリトンの4種類のサックス四重奏で、これがまたいい演奏なのだ。いや、実際上手い人なんだけど、それ以前にサックス四重奏の表現力が素晴らしいのだ。なんていうか、音楽として完成しているというか、もうこれだけで楽団と言ってもいいほど豊かな表現力なのだ。同じアンサンブルでも、トランペット四重奏や中低音楽器を含めた金管四重奏でもここまで完成度が出せるかどうか。それこそ、数日前に聴きに行った11人の金管奏者によるアンサンブルに匹敵するほどのダイナミックで豊かな演奏なのである。
ぼくには衝撃的な演奏だった。頭をガツンと殴られたかのような衝撃である。
しかも吹き方にもよるのかもしれないけど、音色が時にバイオリンを数人で奏でてるようにも聞こえ、時にフルートの独奏のようにも聞こえるのだ。クラリネットのような落ち着いた音色からトランペットのような華やかな音色まで、まあこれは上手い人の吹き方なんだろうけど、4人の演奏がオーケストラの深みをもって迫ってくる感じなのである。
サックスとはこれほど広くて深い表現力を持つ楽器だったのか。吹奏楽やジャズなんかでも活躍するサックスが、数人のアンサンブルでもその表現力を発揮できるなんて。いや、少人数だからこそ、個々の楽器の表現力がサウンドにダイレクトに伝わるということか。いや、もうそれって最強じゃん。最強で最高で天下無双じゃん。トランペットではこれほどの表現力は出せないわ。音楽の歴史においてかなり最近に考案された楽器だからこそ、理論的に研究し尽くされ、現代の音楽においてその真価を発揮できているということなんだろうな。いや、スゴいわ、サックス。

 

そして、音楽への向き合い方を模索するぼくにとっても、サックスの魅力を再発見することはまさに僥倖だった。先日の金管アンサンブルの演奏会で、ぼくが音楽を始めるにあたり、さてどういう形で関わろうかなーと思うにつけ、過去に参加していた楽団への復帰がもっとも容易かと思っていたんだけど、どうもしっくりこないでいた。大勢の人の中で演奏することや毎週のように練習に参加しないといけないことが、今のぼくの生活ではちょっと難しいと思っていたのである。しかし、サックスならアンサンブルという手がある。例えばぼくとさきこがそれぞれサックスを吹けるようになれば、それだけでアンサンブルになる。クラリネットやトランペットではそうはいかない。さらに、サックスが吹ける友達はまりこさんを始め他にもたくさんいる。さらに、サックス奏者を集めた今回の演奏会のような企画もあるのだ。一人でも二人でも何人でも楽しめるサックスこそ、ぼくなりの音楽への関わり方ができる楽器なんじゃないだろうか。いや、それが今のぼくの最適解である。ぼくはぶるぶる震えそうになった。そう、ここに答えがあったのだ!

 

さきこもぼくと同じようにサックスの魅力を再発見したようで、200人のサックス奏者による大迫力な演奏を聴いて会場を後にして帰途に就く時には、この後どうやってサックスが吹けるようになるかの検討会議になっていた。ソプラノ、アルト、テナー、バリトンのどれを吹くか?さきこはクラリネットの経験を生かせそうなソプラノがいいなーなんて言い、ぼくはいっそ指向性をがらっと変えてバリトンなんかいいよなー、ベース刻んじゃうぞーなんて言ったりして、いや、どっちも値段が半端なく高いので、いやはや困ったものだーなんて話しをした。
別に下手でもいいのだ。吹ける曲が「咲いた咲いた」でもいいのだ。二人でセッションできる楽器がどうしても欲しかったのだ。それがサックスなんだ。歳をとっても二人で時々「咲いた咲いた」を吹くのだ。
問題は楽器をどうやって調達するかなーということで、いやこれが最大の問題である。
しかし、不思議なことに「年齢的に新しい楽器を習得するのは無理なんじゃないか」とは1ミリも思わなかった。
「物事を始めるのに、遅すぎることはない」とよく言うけど、ぼくもさきこもきっと吹けるようになると信じて疑っていなかった。それどころか、楽器さえ手に入れば、来年はお客さんではなく出演者としてこの演奏会のステージに乗れるんじゃないかくらいに思っていた。
きっとランニングをやっていたおかげかもしれないね。絶対無理だと思っていた距離を積み重ねた練習と強い気持ちで乗り越えていく。走れそうもない距離を走ってしまう。そんな自分に自分が驚くような経験をぼくはずっとやってきた。だから今回もサックスができると信じている。「咲いた咲いた」じゃなくて、チックコリアの「スペイン」くらいは吹けるようになってやるぜ!って思っちゃってたりするのだ。

 

この演奏会には来て良かった。消極的だった数時間前とは全然違う心境で会場を後にするのは、なんだか奇妙な感じである。
そして、ぼくの目の前に新しい地平が現われた。ただだだっ広い荒野である。そこは草1本も生えていない見渡す限りの平野だけど、この日ぼくはここに種を蒔いたのだ。それがどういう形で芽吹き育っていくのかは分からないけど、種を蒔いたこの時のぼくの気持ちは確かにそこにあった。まるで、これから市街地が開発されていく海老名の駅前のようでもあって、いや、駅前の更地はこれからマンションが建つだけなんだけどね、なんて思ってちょっとおかしくなったのだった。

※200人を超えるサックス奏者のステージ。このステージに乗ってる楽器だけで、いったいいくらになるんだろう。

| 音楽日記 | 12:57 | comments(0) | trackbacks(0)
音楽ホールのステージの煌めき。

昨日は紀尾井ホールでサイトウキネン・オーケストラの金管楽器奏者による金管アンサンブルのコンサートがあったので、さきこと行ってきた。ぼくが勤める会社は紀尾井町にあって、近所に紀尾井ホールがあるのは知っていたけど、こんな雰囲気のある音楽ホールがあるとは思わなかったわ。ホールの内装は木材が多く使われていて、なんだか木の香りがしたし、高い天井からつり下げられたシャンデリアもキレイだった。収容人数はさほど多くないけど、こういうホールで演奏できるのはいいなーと思った。
実際の演奏の方も良かったな。バロック的(?)楽曲も良かったけど、休憩の後に演奏されたポップスはとても楽しかった。有名な「ニュルンベルクのマイスタージンガー〜」や「威風堂々」を金管楽器11人(トランペット×4、ホルン×3、トロンボーン×3、チューバ×1)と打楽器1人で演奏できるなんてスゴいなーと思った。個人的には、もう少し技巧的なフレーズをそれぞれが掛け合うような感じの音楽を期待していたので、少し期待外れな部分もあったんだけどね。

 

先月は渋谷にN響の第九を聴きに行ったし、来週はまりこさんのサックス演奏会、その翌週には以前お世話になった某楽団の演奏会があったりして、最近のぼくは楽器演奏の誘惑にとり囲まれている。去年には、これまた以前お世話になった方から吹奏楽団へのお誘いもあったりして、ぼくが意図していないところで、音楽復帰への機が熟してきてるんじゃないのかな。庭先の柿の実じゃないんだから、知らないところで勝手に熟さないでくれよと思うけど、昨日の紀尾井ホールの眩しいほどのステージを見ていると、あのステージからの風景をもう一度見てみたいとも思ってしまった。
音楽に復帰するにしても、大人数の吹奏楽団はなんだか苦手だし、ジャズバンドはもうコリゴリなので、以前所属していた金管楽団がいいかなーと思っていたけど、今回のようなアンサンブルとかもっと少ない金管八重奏みたいのでもいいのかもしれないね。
そんな話しをさきことしていたら、「作っちゃえば?」なんて言われた。
いやいや、無理だろう。楽団は団員さえいればいいわけではない。いや、団員集めが一番難しいわけだし、そんな人の集まりをどう運営していくか、音楽的にどう導いていくかを考えれば、とてもできるものではない。今から音楽教室に通ってピアノを習得する方がナンボか可能性があると思えるほど、難しいだろう。
でも、やっぱり音楽はいいものである。
街で楽器ケースを持っている人を見ると、羨ましくなる。なんだか特別な人に見えてしまうのだ。「楽器演奏という特殊技術を体得した選ばれし者」といった感じだろうか。ぼくもまたそういう人になってみたい。

 

紀尾井ホールを出る頃には、ぼくの気持ちは固まっていた。
どういう形になるかまだ分からないけど、音楽の活動はぜひ復活させよう。しかも近いうちに。ランニングやサイクリングの優先度を落としてでも、音楽にもう一度向き合いたいと思った。

 

ちなみに、サイトウキネン・オーケストラは、世界的に有名な指揮者・小澤征爾氏が大きく関わっている。だからこそ、ぼくもさきこもこのコンサートに来たわけなんだけど、最後の楽曲の後に、なんと客席にいた小澤征爾氏がステージに現われたのだ!
おおお!はははじめて見る小澤征爾だ!本物だ!
見るからになんだか元気なおじいさんである。いや、感激しちゃったよ。

 

そんなわけで、この日はなんだかとてもいいものを貰ったような気がする。単に音楽を聴きに行っただけでなく、ぼくの音楽に対する思いにもう一度気づかせてくれた感じがするのだ。これが今後どういう展開になるか分からない。ランニングだってサイクリングだって大事だし、これからも続けていくし、もっと言えば絵なぞも好きだし、ネコたちの面倒も見ないといけない。
でも、紀尾井ホールのステージの煌めきは、鮮烈にぼくのココロに刻まれ、それから何かが芽吹きそうな予感はするのである。
いい夜だったな。

※雰囲気のある紀尾井ホールの内部。

| 音楽日記 | 12:32 | comments(0) | trackbacks(0)
エキセントリック第九、再び。

年末のこの時期はここ数年恒例になった第九演奏会である。去年まではお袋さんと外出する数少ない機会のひとつだったけど、今年からは近隣生活が始まったので、お袋さんとの外出はありふれたことになっちゃって、それはそれでなんだか感慨深いものである。

 

さて、実際の演奏だけど、なかなかエキセントリックな感じであった。
クラシックってこれほど解釈が自由なんだなーと思わせた。そしてこういう第九は非常に好きである。まだ年末らしからぬ日が続くけど、早くも大晦日が楽しみである。

 

今年の第九は、去年や一昨年とちょっと違うかもしれないというのは、会場に入りステージを見下ろした時から何となく感じていた。
ステージ上の配列が一般的なものと少し異なる感じなのだ。コントラバスは下手奥に置いてあり、中央に置かれたティンパニの後ろに白いイスが4つ、合唱団が座るであろう長椅子に囲まれているのである。この4つのイスはきっとソリストが座るものだろう。ソリストがステージ前面でなく、後方に移動しているのは、あまり見かけなかった。また、コントラバスの位置もあまり見かけない。そもそもそんなところにコントラバスを置いて、チェロやビオラや第二バイオリンはどこに座るのか?指揮者の強いコダワリが垣間見れる配置であった。
さらに、既に開場しているというのに、ホール内に鳴り響く楽器の音がスゴい。恐らくステージ裏や楽屋で練習しているのだろう。ホイホイと楽器を運搬できないコントラバスは、ほとんど全員がステージ上に揃ってパート練習みたいな雰囲気である。他にもクラリネットやバイオリンの人がステージで譜面をさらっていた。演奏前のこの段階で、奏者が譜面をさらうっている風景もあまり見かけないものである。それを見たぼくは、まだ演奏が始まっていないのに、期待で大きく胸を膨らませた。
まるで数年前に聞いたエキセントリック第九を髣髴とさせるのだ。
あの時の配列もかなり奇妙だった。第一バイオリンと第二バイオリンが上手と下手に対面する形で座り、中央にコントラバスやチェロが配置され、ティンパニのマレットは先が円盤型の木が剥き出しになったもので、それが酷く硬い音色だったのを強烈に記憶している。大晦日のテレビ放送の指揮者インタビューで知ったのだけど、ベートーヴェンの時代の奏法に合わせて弦楽器はビブラートをかけない奏法に統一したんだそうで、指揮者にかなり強いコダワリがあることが分かってとても面白かった。そして、あまりにもコダワリが強いアレンジだったためか、第四楽章の冒頭では演奏が止まりそうになってしまったのだ。さすがに瞬時に持ち直したけど、プロでもこんなことがあるんだとかなり衝撃を受けたものである。そういえばあの時も、開場が始まっているにもかかわらず、奏者が何人もステージ上に残って練習していたな。コントラバスなんか、かなり丁寧にパート練習をしていたことを覚えている。この時の演奏は今でもたまに聴き直すことがあるけど、ぼくの宝物のひとつである。

 

そして今、ぼくが見下ろすステージでは、既に開場が始まっているのに、コントラバスやバイオリンやクラリネット奏者が残って譜面をさらっていて、さらに楽器の配置も非常に特徴的だったのだ。楽屋裏でもフルートが第二楽章の譜面をさらっているのが聞こえる。プロになる前から何度も演奏してきたハズの超有名な楽曲の譜面を本番直前までチェックしなければならない何らかの事情があるのである。まさにあの時と同じ光景が眼下に展開していたのである。

 

結果として、かなりエキセントリックな演奏だった。エキセントリックさで言えば、先の演奏を超えるかどうかというほどのエキセントリックな第九だった。クラシックの楽曲ってここまで自由にアレンジしてもいいんだなーと思うほど、テンポや音量、音符の処理の仕方まで独特な感じだった。なんだろうね、N響って、既成概念を打ち壊すようなアレンジの第九を数年に一度わざと持ってくるようにしてるのかね。ノーマル、ノーマル、アブノーマルみたいな順番で。いやはや、スゴいわ。そして素晴らしいわ。
また、これまで毎年のように出演していた某音楽大に代わった某合唱団のコーラスもまたスゴかった。某音大にどういう事情か知らないけど、まあ昨今の大学生なので、いろいろあったのだろう。しかし、やはり学生のかき集めと異なり、合唱を専門にやっている人たちのコーラスは今までとは全然違っていた。ベートーヴェンが第九を作曲した時、楽曲の冒頭から何人ものコーラス隊を後方で待機させて、待ちに待たせて第四楽章で大合唱を持ってきた意味がちょっと分かったような気がした。やはり、ニンゲンの声は、どんな楽器にも敵わない強烈な訴求力があると思う。まさに歌声に圧倒される感じだった。
これは大晦日が楽しみである。また宝物がひとつ増えるかもしれないな。

 

演奏が終わり、渋谷の喧騒の中を歩いていると、これも毎年のことだけど、なんだか年が暮れていくのに違和感を感じる。ホントにあと数日で今年が終わってしまうのかな。こんなに暖かいのにね。
願わくば、今日の演奏がそのまま放送されるといいなーと思う。大晦日が楽しみだ。

※毎年撮影している会場の写真。ぼくが映ってる。

| 音楽日記 | 14:09 | comments(0) | trackbacks(0)
実話を元にしたドラマの威力。

ぼくはあまりテレビドラマを観ない人なんだけど、近頃は某TBSの日曜9時のドラマは観ることが多い。月曜を前にした最後のリラックスタイムの放送ということもあってか、観てる方がストレスを感じるような展開はあまりなくて、割とハッピーエンドというか、観終わった後に「めでたしめでたし」と付け加えちゃうような展開が多く、安心して観ていられるドラマである。むやみにココロをザワつかせないストーリー展開がいい。たまにあまりにも予定調和が過ぎて「んなわけあるかーい!」って言いたくなる展開もあるけど、観ている側が「さーて、明日から頑張るぞー」と言えるような展開を重視しているのだと思えば、ストーリー的にかなり難があったとしても、いちいち目くじら立てないで観ているわけである。
ちなみに、過去のドラマを思い浮かべてみると、いろんなドラマが次々と思い出され、つまりぼくはかなり以前からこのチャンネル・この時間帯のドラマを観ていたんだと改めて実感している。

 

さて、この時間帯のドラマ枠は先月から新しいドラマに変わったのだけど、これが別の意味でココロをザワザワさせるものだった。
その原因は、何よりこの新ドラマの題材が「吹奏楽である」という点である。
ぼくが音楽から離れて10年近くが経つけど、未だに音楽への思いは熱く残っている。そのぐつぐつ煮えている状態は、いつでも圧力を上げて勢いよく噴出させることができるもので、いつか来るその時までずっとぐつぐつ待っているのである。つまり、気持ちのうえでは、機会さえあればいつでも音楽に復帰できるつもりでいるわけである。
そんな折に新ドラマで吹奏楽をやられては、いつかのためにせっかく温存していたぐつぐつが、期せずして圧力を高めてしまう。いつかのために抑え込んでいたのに、堪え切れずに噴き出してしまうかもしれないのだ。いや、まだだ、噴き出すのはもう少し待ってくれ。今のところは、まだ音楽に復帰するべき時ではないのだ。

そんなわけなので、このドラマを観るにしても、音楽への思いを高めないようにしないといけない。気持ちを平穏にして、ココロをザワつかせない。意識してストーリーにのめり込まないようにしよう。ゆめゆめ、登場人物に自分を投影するなどということは避けなければならないのだ。
このドラマには吹奏楽が出てきて、よく知った楽曲も聞こえるかもしれないけど、それは虚構であり、もしくはどこか遠い世界で起こったことであり、そんなウマい話しは現実にはあり得ないし、ぼくには一切関わりのないものである。
そう思えば、ぼくのココロはザワつかない。新ドラマが始まる前までに、ぼくは意識してそう思い込むことに成功して、それまでのドラマと同様、安心して観られるように準備をととのえていたのである。

 

しかし、である。
そのドラマが始まる直前に、簡単なあらすじや展開を紹介する番組を放送していて、それを観て知ったのだけど、そのドラマは現実に起こった実話をベースにしており、しかもそれはぼくが住む横浜のとある高校で起こったことだそうなのだ。その高校の吹奏楽部は、その世界ではほとんど伝説的な存在で、ぼくもよく知る高校である。今回のドラマは30年くらい前のその高校であったことをベースに描かれているわけである。
30年前と言えば、ぼくが学生で吹奏楽をやっていた時代である。中学校で吹奏楽部だったぼくは、進路指導の先生からこの学校への進学を薦められていた。吹奏楽を続けるなら、うってつけの学校で、学力的にも充分だそうなのである。結局、ぼくはその学校に進学しなかったわけだけど、もしかしたらその高校に進学して、吹奏楽部に入部して、そしてこのドラマのモデルになった某先生に指導を受けていたかもしれない。
そんな高校がテレビドラマで出てくるとは・・・!それはもはやどこか遠くで起こったどころじゃない。ぼくの地元の話しであり、ぼくの通った高校の隣の高校の話しであり、年度は若干違うけど、それでもぼくの先輩になるかもしれなかった人たちの話しじゃないか!他人事なんかじゃ全然ないわ!

 

いや、これには参ったわ。
これではココロがザワつかないわけがない。このドラマを終始一貫して、冷静に観るなんてできるわけがないわ。
それでも、ぼくよりもさらに数倍、数十倍もザワついている人もいるだろう。この高校を卒業した人であり、この吹奏楽部のOBたちである。そりゃ高校の部活なので、当時はいろいろあったと思うし、それがいい思い出になってる人ばかりじゃないハズである。そんな高校時代の思い出の顛末を、いやテレビだからそりゃいろいろと脚色したりしてるだろうけど、テレビで観ることになるその心境とは如何ほどのものだろうかと思うのである。多少ザワついたくらいでギャーギャー言ってるぼく以上に、そういう人の心中はほとんど修羅場だと思うのである。まあ、修羅場になるほどの人は、そもそも最初からこのドラマなんか観てないのかもしれないけどね。

 

そんなわけで、テレビの中の虚構と思っていたものが、一気に自分の身近に迫ってくる思いに苛まれつつ、それでもかなり脚色を加えた部分が強いので、虚構だ虚構だと自分に言い聞かせつつ、これからもドラマを観続けようと思うのである。

 

ちなみに、このドラマのモデルになった高校は今は存在しない。
以前にもブログで書いたけど、少子化の影響で神奈川でいくつもの高校が統廃合となり、吹奏楽コンクール全国大会優勝という輝かしい経歴があるこの高校も非情にも統廃合されてしまった。高校はなくなったけど、コンクールで演奏した音源は一般にCDで発売され、今も買って聴くことができる。まさに伝説の栄光は今もなお燦然と輝き続けているのである。
思い出されるのは、ぼくが高校1年の時のコンクールである。県大会だったかと思うけど、先輩に誘われて吹奏楽コンクールにこの高校の演奏を聴きに行ったのである。たしかこの時は、熱い演奏も虚しく全国大会に行くことはできなかったと記憶しているけど、コンクール会場で聴いた彼らの演奏に、ぼくは雷に打たれたような衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えている。
物凄く超絶技巧の難曲だった。非常にハイレベルな技術がすべての奏者に備わっていないと曲として成り立たないほどの難曲。すべての楽器が津波のように押し寄せる圧倒感があった。楽曲の初っ端からハイトーンでダブルタンギングの早いパッセージを奏で、中盤ではトランペットの技巧的なソロがカッコよく、終盤ではこれ以上ないほど盛り上てからのホルンの咆哮が登場するのである。こんなカッコいい楽曲をいつか演奏してみたい・・・いや、天地がひっくり返ってもぼくには絶対に演奏できない楽曲を、同じ高校生が演奏していることが衝撃だった。打ちのめされた。あれは今思い出してもスゴかったわ。
進路指導の先生の話しを聞き入れてこの学校に進学していたら、ぼくはこの演奏の中にいたかもしれないし、いや舞台袖で自分の不甲斐なさを噛みしめていたかもしれない。そのどちらだったとしても、この演奏を前にして、ぼくの音楽への関わり方はきっと今とは全然違っていたかもしれないし、今でもかなり真剣に音楽に向き合っていたかもしれない。
高校2年生や3年生の頃、この高校がコンクールを勝ち抜いていくのを見て、その度にぼくは進路指導の先生の言葉を思い出していた。
ちなみに、誓って正直に言うけど、この高校に進学しなかったことを後悔してはいない。ハイレベルな演奏をしたいとは思っていたけど、人生はそれだけじゃないし、コンクールを勝ち抜くことだけが吹奏楽じゃないという中学時代の吹奏楽の先生の教えがあったからである。選択は間違ってなかったけど、選択し得た進路の先に何があったのかは今でもちょっと気になっているのだ。

 

そんなわけなので、ぼくがこのドラマを前にして、ドキドキを禁じ得ないというのはもうしょうがないことである。きっと話しが進行していくにつれて、その度にいちいちドキドキするんだろうな。本筋とはあまり関係のないところで、ほんのちょっとした何かに符号を感じてドキッとしたりね。
そんな日曜の夜にドキドキするのは、このドラマを放送してる某テレビ局の本来の意図とは反しているのかもしれないけどね。
それにしても、映画なんかでよく「これは実話を元にしています」って言葉を聞くけど、つまりそこには、その映画を心中穏やかには観れない人が、当事者だけじゃなくその周りにも意外と結構大勢いたりするんだろうな。そんな変な感覚をこれから毎週日曜日に味わうのが続くのである。

| 音楽日記 | 13:18 | comments(0) | trackbacks(0)
超絶的で傲慢な万能無敵な洋琴の共演。

週末は、ピアニスト小曽根氏のコンサートに行ってきた。
ジャズ界の巨匠・チックコリアとの共演ということで、非常に楽しみにしていたんだけど、いや、もうなんていうか、聴いてる方が非常に頭を使う演奏だった。ピアノの連弾というのをたぶん初めて聴いたんだと思うけど、ハイレベルな音楽が超絶技巧で応酬される展開に、いやもう音楽そのものに付いていくので精一杯だった。それは音楽的な理解にはまったく及ばないほど高度かつ技巧的なピアノの演奏である。たとえば、ほとんど無拍子に現代的なハーモニーが次々と繰り出され、崩壊ギリギリのところでたった1音だけで落ち着かせるところだったり、低音でリズムを刻み始めたかと思ったら次の瞬間にそのテンポを完全に無視して、また無拍子な現代的な旋律に回帰するところなどが、もはやぼくの知的レベルを大きく凌駕していた。そんな不可解な音楽の中で、演奏者の二人はお互いの旋律やハーモニーを聴きながらそれを受け取りつつ、些細な部分でハズしたり崩したりして音楽を構築したり崩したりと、その作業はほとんど文学的ですらあった。向かい合った二人の子供が、交代で積み木を積んで遊んでいる風景にも似ているかな。協力して積み上げた積み木を完成直前に土台から崩してまた積み直すとか、一部だけ崩してまったく違うものを作り始めるみたいなイメージである。超絶技巧なピアノの連弾だけど、やってることは向き合った二人が音遊びをしているだけ、なんて想像しながら聴いていた。

それにしても、ピアノは凄い楽器である。ピアノだけで音楽が完璧に完了してしまう。複雑に折り重なる旋律も厚いハーモニーも打楽器的なテンポ感もピアノだけでできてしまう。バイオリンやクラリネットやトランペットや打楽器にはそれぞれの音色があり、それが組み合わさることで深い音楽を構成するのは確かにそうだけど、弦楽器や吹奏楽器には単独でハーモニーを奏でることは無理だし、打楽器は旋律を奏でることができないわけで、ピアノがそのどれもが単独で可能という点で、どの楽器も敵わない万能の無敵な楽器だと思う。
それ故に、ピアノは傲慢な楽器とも言える。一人で音楽のすべてを支配することができるのだ。たとえば今回の演奏でも、そのテンポやコード進行から、きっとこう展開するなーと予想される展開が、微妙ではなく明らかに違った形で着地することがあり、一瞬「あれ?」と思うけど、その後に続く音楽の進行によって、その違和感を打ち消し、さらにこれを発展させるなんてこともあった。またテンポ的に2拍待たないと旋律が完結しないところを、その2拍分を端折って次の展開に繋げるなんてこともあった。ピアノにはテンポやコード進行すら無視できるほどの強大な力があるのである。こういう強大な力を見せつけられると、ピアノってスゴいなーと思いつつも、傲慢な楽器だなーと思うのである。
ちなみに、こういう傲慢さが漂う高度な音楽を二人で共同して作り上げることができる点が、この二人の尋常ならざる音楽的能力を表わしているんだと思う。

ステージにはピアノが2台置かれていた。
小曽根氏とチックコリアのピアノである。その2台のピアノはどちらも天板が外された状態で向かい合って置かれていた。天板がないので、ピアノの内部が丸見えである。金色の鋼の骨組みが露わになり、遠くて見えなかったけど、そこには88本の弦と羊毛に包まれたハンマーが配置されているハズである。
天板が外されたピアノを見るのは初めてだけど、その姿からは「今日はピアノだけのコンサートなので、他のどの楽器にも気兼ねすることなく、音が出せるわ」なんていうピアノ自身の意気込みみたいな声が聞こえそうで、ピアノの本気モードの姿を見てるような気さえしてきた。天板がない状態がピアノの本気モードだとしたら、天板を綴じた状態やつっかえ棒で少しだけ開けられた状態のピアノは、本気じゃない、つまり手加減モードの姿ということになるわけで、そんな状態でオーケストラすら相手に演奏しちゃうピアノって、どれだけスゴいんだと思うのである。いやピアノってのは、やっぱりスゴいし、万能で無敵だし、それ故にやっぱり傲慢だわ。
いや実際には天板がないのは、会場の音抜けなんかを当然ながら考慮しての対応だと思うし、普段ピアノが手を抜いているわけでも、天板を外したピアノがいわゆるラスボス的最終形態だというわけでもないとは思うけどね、ちょっと愉快な想像力に身を委ねて音楽を楽しんだりしたのである。

ともかくも、そんなピアノの超絶演奏に衝撃を受けてしまい、脳みそがフル回転するヒトトキを過ごした。音楽を聴くのに頭を使い過ぎたので、お腹が減ってしまい、終演後に思わずステーキなんぞ食べに行っちゃったよ。
ちなみにチックコリアと言えば、ジャズの名曲「スペイン」が有名で、ぼくも大好きな曲だし、小曽根氏もライブなんかで演奏しているのを某動画サイトで見たことがあるので、今回のコンサートではこりゃ絶対演奏しないでは終わらないだろうと思っていたのだけど、その期待に反して最後まで「スペイン」は演奏されなかった。後で知ったけど、このコンサートタイトルには「アコースティック」と書いてあって、これはつまり「ジャズはやらないよ」ということだったのかもしれないと後で思うにつけ、なんだかお預けをくらったようなちょっと残念な気持ちだった。
でも、無拍子の超絶技巧の応酬されるある曲の中で、「スペイン」を感じさせるコード進行がちょっとだけ挿入されて、「もしやこれから始まるのか?この無拍子的現代的フレーズは、あの曲のお馴染みのフレーズに至るまでの超絶的に長いカデンツァだったりするのか?」などとドキドキしちゃった。
エキサイトしそうでエキサイトでき切れない、やっぱりぼくには追いつけない音楽の世界だったなーと思うのである。次の機会があったら、ちゃんと二人でジャズをやってくれる演奏を聴きに行きたいものである。
| 音楽日記 | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0)
オトコマエな金遣い。
昨日は年度初めの4月1日だったけど、午後に会社を早退させていただいて、あるジャズミュージシャンのコンサートにさきこと行ってきた。いや、半休するほどのことでもなくて、実際のところ演奏会が開かれるサントリーホールは会社近くの駅から2駅先にあるから、移動時間は30分足らずなわけだけど、まあ桜もキレイに咲いたことだし、ちょっとサボり心が芽生えてしまった。
駅周辺に桜並木のキレイな道があって、ここはいつか来たいと思っていた場所で、しかも以前から首都高を通っている時にとても気になっていた場所だったんだけど、ここが「桜坂」だったんだね。どこかで聞いたことのある坂の名前だったけど、ここがそうなのか。
さて、この日はかなり肌寒く、空はどんより曇っていたので、花見にはあまりいい天気ではなくて、時間までさきこと屋内のコーヒー屋で過ごし、開場時間を待ってサントリーホールに入った。
 
※桜がキレイだなー。

今回聴きに来たジャズミュージシャンとは、クラリネット奏者の北村英治氏である。今年で88歳の米寿を迎えるのを記念して、コンサートを開いたというわけである。この方のクラリネットは20年以上も前からずっと好きで、一番最初にさきことジャズライブに行ったのもこの人だったし(そういや、同じ六本木のジャズバーだったな)、その後銀座のジャズバーなんかにもライブに行ったりしたものである。いろんなジャズミュージシャンのライブに行ったけど、一番好きなジャズミュージシャンである。
このコンサートの存在を知ったのは、某SNSの記述である。一目見た瞬間に、これは「行かねば」と思い、早速さきこのiPhoneにメッセージを送った。ほどなく返信があり、ぼくと同じで「それは行かねば」という力強いメッセージだったんだけど、とは言え、まあ場所も場所なので、チケット代もジャズバーとは違って高額になるものだから、ぼくとしては「まあB席か、奮発してA席かなー」と送ったら、「S席を取れ」というさらに力強いメッセージが返ってきた。いや、さすが、さきこ、である。金の遣い方がオトコマエである。

※サントリーホールのステージ。ワクワクするわー。

クラリネット奏者のコンサートで、しかもコンボスタイルでは、サントリーホールは広すぎるかなーと思ったけど、北村氏の力強い太い音ではいささかも狭さを感じさせなかった。いや88歳にしてなおお元気である・・・ってか、どこにそんな元気パワーが隠れているのかと思うほどである。
演奏スタイルはコンボから、クラリネット六重奏、ピアノとの共演、ビッグバンドとどんどん変化して、最後に定番の「シングシングシング」で幕を閉じた。クラリネット奏者が代わるがわるソロパートを吹くのは、鳥肌ものだった。いや、時間を感じさせない素晴らしい演奏だったわ。やっぱりぼくはこの方のクラリネットは大好きだわ。これからも元気にクラリネットを演奏して欲しいものである。
ところで、このコンサートで北村氏とピアノでデュオを務めたのが、小曽根真氏である。この方のピアノも以前からとても大好きで、いや、ぼくの理解を超えた超絶技巧と感性を持っている方で、ほとんど崇拝に近い好きっぷりなのだけど、この方が出てきた時にはいやもうテンション上がったわ。ラジオやテレビや動画サイトでは何度も見ているし聴いているけど、実際の演奏はそれ以上のパワーだった。圧倒された。彼のピアノから奏でられる旋律は、それまでよく聴いていたピアノのそれとはまったく違う世界のものというか、たとえば同じニンゲンの同じ口から同じ日本語で語られる言葉であっても、話し人によってはその言葉遣い、センス、言葉選びによって、ただ話しを聞いているのとはまったく違う感じになるのと似ていると言える。まるで崇高な宗教者の説教を聞いているような感覚で、その一言一句を聞き逃さないように耳を傾け、全身全霊でそれを理解しようとする。小曽根氏のピアノを聴いていると、「おカネを払って聴いている」というよりも「申し訳ないくらい少ないおカネで聴かせていただいている」なんて気分になってくるから不思議である。
今回のコンサートのパンフレットには、いろんなコンサートのチラシが挟まれていて、その中のひとつに、小曽根氏が5月に開催するコンサートのチラシも入っていた。小曽根氏と来日するチックコリアとの共演だそうである。チックコリアと言えば、代表作「スペイン」は大好きな楽曲の筆頭である。これを小曽根氏がライブで演奏しているのを某動画サイトで何度も聴いたものである。これはもう最強のピアノ連弾である。絶対に聴きに行かねば。
実はコンサートが始まる前に、ぼくはプログラムに挟まれているこのチラシの存在に気付いていて、それがどれだけスゴいコンサートになるかを想像して、ワクワクの暴走とまだ見ぬステージを想像して鳥肌を禁じ得なかったんだけど、あえてさきこには伝えずに、コンサートで小曽根氏が登場するのを待った。そして小曽根氏の演奏を聴き、さきこにチラシの話しをしたのだ。もちろんさきこも既にチラシの存在には気づいていて、そのスゴさも当然分かっていたので、ぼくの投げかけに一言、「行くでしょ」と言ってくれた。またちょっとおカネが張るけど、この日の演奏を聴いたら、何事もなかったかのようにやり過ごせるものではない。
iPhoneでチケット予約しようとしたんだけど、サントリーホールの演奏は既に完売になっていて、結局、某横須賀のホールでのコンサートを予約することになったんだけど、そこでもさきこが一言、「S席を取れ」が出た。やはり、さすが、さきこ、である。
結果的にはS席も完売だったので、あまりいい席では聴けないのだけど、とりあえず席を予約できた。演奏会は5月だそうである。うん、楽しみである。
| 音楽日記 | 11:46 | comments(0) | trackbacks(0)
夢の終わり。
ランニングよりもサイクリングよりも絵なぞよりもぼくの思考を大きく支配していた音楽活動復活の件だけど、演奏会に向けてぼくも練習を本格化していこうかと意気込む中、唐突だけど活動を辞退させていただくことになってしまった。誘っていただいた方には大変申し訳ないことで、ぼくがスムーズに参加できるよう楽譜を用意してくれたり、随時声をかけてくれたりといろいろ尽力いただいたのだけど、結果的にぼくの意識が音楽活動を継続するのにほんの少し足りなかった。非常に残念だし、申し訳ない気持ちでいっぱいである。
直接的な発端は、演奏会費である。演奏会費とは演奏会を開催するために臨時的に団員が負担する費用のことで、それが通常より若干値の張るものだったので、ちょっと考えてしまったのだ。しかもどういう都合が分からないけど、団員になるかならないか、つまり支払うか支払わないかを一両日中に回答せよとのことだった。まあぼくも社会人なので、出せない額では当然ないのだけど、まだ1回しか練習に参加していない楽団に万を超える金額をポンと出すのには躊躇いがあった。加えて、前回の練習ではトランペットがかなりの人数になっていた。半分くらいはこの演奏会のための賛助出演者なんだろうけど、ちょっとタイミングが悪い感じはあった。「ぼくがいなくても何ら問題ない」とやはり思ってしまうのである。下手っぴでも団員であれば多少の自由度が利くけど、賛助が入った後では団員になった場合は、かなり立場が微妙になる。それにぼくがどこまで上達するかも未知数だったしね。
邪推だけど、もしかしたらトランペット内で「俺って不要じゃね?」問題が勃発していたのかもしれない。賛助の人だって、ぼく以上に思うところがあったのだろう。団員希望者と既に頼んでしまった賛助を調整するには、まず団員になるかもしれないぼくにその身の振り方を確定にさせる必要があったのかもしれない。回答を一両日中に求めていたのは、賛助の方を断るかどうかの判断をするために必要だったのかもしれない。いや、分からないけどね。ただもしこの邪推どおりなら、ぼくの判断はまったく違ったものになっていただろう。
そんな邪推も含めて、かなり葛藤した。
真夜中に目が覚めてしまった。頭が妙に冴えていた。ずっと考えていたけど、回答を保留するのも憚られたので、横になったままスマホに向かってメッセージを綴った。何度も書き直しつつ、その都度自分に問いかけて、結果的には辞退するという結論で話しを結んだ。これでもうぼくは誘われないかもしれないと思うと、かなり寂しかった。もうステージに乗ることができないかもしれないと思うと、ホント残念でならなかった。しかし、今回はタイミングが合わなかった。そして、そのタイミングの悪さをひっくり返して挽回するほどの熱い情熱がぼくになかったのだろう。あれほど音楽活動復活を楽しみにしていたのに、最後の最後でほんのわずかな気持ちの不足が展開を大きく変えるハメになったわけである。
誘っていただいた方には、重ね重ね申し訳ないと思っている。どこかで機会があればまたぜひ一緒に音楽をやりたいと思っている。
先日カラオケ屋でちょろっと吹いたところ、意外に吹けていて驚いた。ぼくの気持ちがあともう少しあれば、そしてちゃんと練習すれば、ぼくがステージに立てる可能性はゼロではない。いつかどこかでまたステージに戻ってやろうと思う。
長年思い描いてきた夢は、今回は夢のままに終わったけど、ぼくの音楽活動への思いはまだまだ続くのである。

※余談だけど、夜中の3時くらいに起きて、大事なメッセージを送るというのは、それ自体が大いなるミスである。目が覚めちゃってとか頭が冴えてなどと言っても、しょせん起き掛けの頭である。きちんとしたメッセージが書けるわけないのだ。ちゃんと見返したとは言え、実は寝ぼけてて支離滅裂なメッセージになってたりするかもしれない。それはかなりオソロしい話しである。
そもそも起き掛けに大事なメッセージを書こうと考えること自体が既に寝ぼけた発想である。以前も起き掛けにベッドの上でメッセージを書くようなことがあったのだけど、こんなアホな行為は今後厳に慎まないといけないな。
| 音楽日記 | 12:40 | comments(0) | trackbacks(0)
音楽の世界。
先週は川崎にある某吹奏楽団の練習に参加してきた。ほぼ8年振りの吹奏楽の練習、吹奏楽の合奏である。
なかなか新鮮な経験だった。
実はこれに先立って、どの程度下手っぴになっているかをぼく自身が確認するために、ちょろっと個人練習をすることにした。どこかの公共施設の音楽室を借りるほどでもないので、手軽にカラオケ屋で部屋を借りることにした。どうも最近はカラオケ屋で練習する人も増えているそうな。
カラオケ屋に楽器持参で赴き、部屋に入って楽器ケースを開ける。なんだか妙な気分である。店員が怪訝そうな顔をしてオーダーしたウーロン茶を置いていったけど、気にしないのだ。別にヤマシイことをしているわけではないからね。
しかし、カラオケ屋の部屋は完全に防音というわけではないので、隣の部屋の歌声は若干聞こえてしまうのと同様に、ぼくが吹くトランペットの音も若干(かなり?)漏れているのである。ぼくがカラオケ屋で歌を歌うというなら、それがどんなに下手っぴでも気にしないけど、カラオケ屋で生真面目にロングトーンとかやってるのを聞かれるのは、なんだか恥ずかしいものである。
でも、ちょっと練習してみて分かったけど、ぼくのトランペットの腕前は確かにかなり下手っぴになってるのは当然とは言え、それが絶望的に下手っぴになってるわけじゃなかった。これにはなんだかホッとしたわ。もちろんこれからも継続的にちゃんと練習しないと全然ダメなんだけど、それでも合奏に参加して迷惑をかけない程度には吹けている感じだった。
それから少し休憩して、電車で川崎の某所に向かった。ぼくは初めて降りる駅である。
練習会場の施設に入り、少し緊張しつつも練習部屋のドアを開け、遠慮がちに声をかける。ぼくは部屋の中に誘なわれ、こうしてぼくの見学を含めた合奏は始まったのである。
気になったのは、トランペットのメンバーの数である。合計7人。人が足りないと言われて誘われたわけだけど、7人は一般的編成ですら多いと言われる数である。どこからか急きょ賛助の人を連れてきたんだろうけど、小編成のこの楽団には多過ぎる人数だし、そもそもこの日は十数人しか練習に来ていないわけで、完全にトランペット過多な状態だった。
これは、つまり、ぼくって不要なんじゃないか?わざわざ8年ものブランクを押して練習に来てみたけど、なんだか場違いな感じというか、居たたまれない感じがしてしまった。
ぼくと同じパートを吹くのは若い女性なんだけど、いや当然ながらぼくより上手いわけで、ぼくが時折音が出なかったり、音を外しちゃったりするので、なんだか申し訳ない気持ちというか、気後れしてより一層居心地が悪く感じられた。
それでも、楽器を演奏するのは楽しかった。
周りで音が鳴っている環境というのは、ホントにワクワクするものである。場違い感や気後れを感じたりもしたけど、楽器から音を出すというのは単純に面白いし、なんだかウレシイものである。まあ楽曲がいわゆる吹奏楽オリジナルのもので、トランペットの楽譜ではずっとp(ピアノ)とかmp(メゾピアノ)くらいで音を出さないといけないところもあって、そのためかぼくの技術不足感が一層際立っちゃったんだけどね。
それにしても、合奏というのは、なかなかハードルが高いものである。頻繁に楽器を吹いていた時は感じなかったけど、こうして8年もブランクがあると、合奏についていくのはいろいろ大変だということが分かった。これは一言ではなかなか言い表せられないけど、とにかく長く接していなかった者には高いハードルだということが分かった。いや、ホント大変なんだな。
だから合奏が終わっても、心地良い感じはまったくしなかった。以前はまだまだ吹いていたいというか、疲労感の中にも満たされた感じもあって、それがとても好きだったんだけど、今回は精神的な疲労感の方が上回った。耳からシューシューと煙が出てるかと思ったね。まあ久し振りだからしょうがあるまい。

今回はとにかくついていくので精いっぱいだったからまったく余裕がなかったけど、またもう一回くらい見学させてもらってもいいかなと思っている。いや、今度はトランペットがもっと少ない時にね。あと、それなりの音量で吹ける楽曲、オリジナルではなくポップスの楽曲の時に来たいものである。
合奏が終わり、片付けが終わり、特に終わりのあいさつもないそうなので、ぼくは居たたまれない感じに耐えかねてそのまま練習会場を後にした。暗く寂しい道を駅に向かってテクテク歩き、若干道に迷ったりしつつ帰途に就いた。
音楽とはやはり敷居の高い趣味なのだろう。楽器を持っていれば、楽譜が読めれば誰でも参加できるというわけではない。ランニングのようにシューズさえあれば、いやシューズなんかなくても誰でもいつでも楽しめるのとはまったく違う世界である。共通言語を理解し、共通文化の中で振舞い、その中で仲間と思いをひとつにまとめあげていくという作業である。これは長らくランニングやサイクリングや絵なぞのようにワンマンプレーだけやってきたぼくにはあまりにも久し振りな世界だった。久し振り過ぎてついていくことが大変だった。これが楽しくなる日が来るのか分からないけど、先ほども書いたように、合奏後の気だるくも満たされたあの感触をもう一度味わいたいなとも思うのである。
さて、次はいつ行こうかな。
| 音楽日記 | 20:06 | comments(0) | trackbacks(0)
こけら落としの熱情。
ぼくの住む横浜の某区役所がその庁舎の老朽化のため、移転することになった。これは数年前に知った話しで、ぼくは非常に興味を覚えてずっと気にしていたんだけど、ふとネットで検索してみたら、先週で旧庁舎での業務が終了し、週末に引っ越し、今週初めから新庁舎での業務がスタートするのを知った。随分と昔から移転のことを時折気にかけていたぼくとしては、ついにこの日が来たかと、なんだか感慨深いものがある。
しかし、ちょっと引っかかることもある。
これはぼくが数年前に床屋さんに散髪に行ったところから始まる。
いや、正確には床屋さんからではないか。その前にぼくの自宅近くのとある高校が、少子化による統廃合で閉校になったことから始まる方がいいかもしれない。この高校はぼくの成績があとちょっとでも悪かったら通うハメになっていたかもしれない高校で、実際にはこの高校よりもほんの僅かに上位の高校に行けたのだけど、もしかしたらこの高校の卒業生になっていたかもしれないし、その後近くにマンションを買ったこともあって、親近感を覚えていた高校である。その高校が閉校になる。これが例の「自分の母校が統廃合でなくなってしまうのと、名前も校舎も残るけど、どんどん偏差値が落ちていって、県内有数のバカ高校になるのとどっちがいいか?」という究極の選択のテーマに繋がるわけだけど、それは置いておいて、ともかくこの高校が閉校になり、校舎にはかつてのような賑わいがなくなった。40年以上も前に建てられた校舎は、耐震の面でも問題があっただろうから、すぐに取り壊しになると思っていた。ここに広い土地ができたら、さてその後に何が建つだろうと考えるとちょっとワクワクしたものである。
しかし、1年経っても2年経っても、この校舎は取り壊されず、かと言って何かに再利用される雰囲気もなく年月が過ぎていった。後者は手が加えられるわけでもなく、ほとんど放置されたような状態になった。桜の木がここぞとばかり成長して、春に見事な桜を咲かせてくれたのが今でも記憶に残っているけど、やはり使われなくなった校舎の脇を夜に通るのは怖いものである。誰もいないハズの4階の窓から白い影がスーッと・・・なんて、ね。
しかし、そんな放置状態が唐突に終わるのだ。
ある日、学校の前に看板が立つのである。それは県内のいくつかの高校がこの場所に統合移転することを告知するものだった。普通の高校が2校、定時制高校が1校、統合してこの地に移転してくるのである。しかも校舎は多少の補強をしつつも、そのまま使うようだった。
え〜また高校になるのか〜、建て直さないなんて代わり映えしないな〜と、当時はがっかりしたものである。あり得ないとは思うけど、巨大なホームセンターとかができたら、きっと便利になるだろうなーと思ったものである。
そんな折、床屋さんに散髪に行くのだ。(ここで床屋さんが登場する)
床屋さんのご主人と雑談なんかしてる中で、ふと閉校した高校の跡地の話しになった。あの場所がまた高校になっちゃうことがなんだか残念だよなーなんて話しである。
するとご主人がこんなことを言うのだ。
「あの場所は、高校が移転するって話しが出る前は、区役所が移転してくるって話しもあったんだってさ」
高校の校舎を解体して、そこに区役所を新設するというのである。既に大人になっていたぼくは、自分には1ミリも関係ない高校ができるよりも、生活において多少関係のある区役所がやってくることの方がいいなと思った。しかし、どうしてそれがナシになっちゃったのか。
「あの場所は神奈川県の所有物で、横浜市の施設である区役所を建てるには、いろいろ手続きが必要だったんだよ。で、市の担当者がいろんなところに話しをつけにいったんだけど、これが県警も巻き込んだ話しになって、結局いろいろうまく行かなくてダメになっちゃったんだよ」
それで、区役所はどこに行くの?
「区の東の方に市の大きな病院があって、そこの隣に土地があるらしいから、そっちに建てるんだって」
なるほど、横浜市は政令指定都市なので、自治体として行政区域が被ってる神奈川県とはうまくやっていかないといけない立場なのだろう。だからちょっとした障害で、話しそのものがナシになったりするんだろうね。
しかし、床屋さんのご主人が言う市の病院の隣というのは、利用者側から見てかなり問題があるように思えた。そこは、最寄り駅から徒歩10分ほどもかかる場所なのだ。しかも隣の区との境が近く、つまり区の端っこになるわけで、区民が来庁しやすい立地とは言いがたい場所である。それこそ、閉校した高校の跡地だったら、ほとんど区の中央になり、最寄り駅から徒歩3分、旧庁舎とも離れていないので、利用者に大きな負担をかけないことが予想された。唯一問題があるとすれば、クルマを出入りさせるのに都合のいい広さの道路に面していない点である。クルマで来庁する人のためにはやはり大きな通りに面して、駐車場が広く取れるような場所が望ましい。その点では、市の病院の隣の土地は、大通りに面していてクルマで来るには都合が良さそうである。
区役所が自宅近くに来る可能性がなくなっちゃったと聞くと、釣ってもいないのに逃した魚が惜しくなるような思いである。区役所の代わりに新たに高校が来るような気がして、なんだかがっかりなのだ。
とは言え、これはよくある話しである。決まったものはしょうがないし、ぼくの生活にさほど大きな影響があるわけでもない。そういう顛末で話しは決着するのである。
しかし、それでもぼくの中のモヤモヤは収まらなかった。先ほどのたとえじゃないけど、釣ってもいない魚をホントに逃しちゃったかのような喪失感、寂寥感が漂うのである。
これは何なのか?
いや、ぼくには最初から答えは分かっているのだ。区役所が移転する話しは、たしかにぼくの生活にはあまり影響がない話しである。しかし、区役所と一緒に移転するであろうある施設は、ぼくにとってはとても大きな存在なのである。
公会堂である。
旧庁舎が移転するということは、これに併設されていた公会堂も一緒に移転するということである。公会堂にはぼくはただならぬ思い入れがある。なにしろ、この区の公会堂は中学生だったぼくが初めて吹奏楽の演奏会でステージに立った場所なのだ。ぼくの思い出の場所、ぼくの音楽人生の原点なのである。そしてその後もいろんな楽曲を演奏したステージである。ぼくは中学卒業後、高校や社会人になってからも吹奏楽を続け、いろんな公会堂や音楽ホールでステージに立ち、いろんな楽曲を演奏してきたけど、実は演奏の記憶で言うと、中学卒業後の膨大な演奏の記憶と匹敵するくらいの記憶がこの公会堂に残っている。たった2、3年の期間に演奏した記憶がこの公会堂と共に鮮明にぼくの中にあるのである。ぼくにとって大切な場所だったのである。
しかし、まあ老朽化した旧庁舎と同時代に建てられた公会堂は、お世辞にもいいホールとは言えなかった。吹奏楽の編成で40人も乗ったら一杯になってしまうステージの狭さ、狭い土地に建てられたためか、客席が急な傾斜で立ち上がっていて、ステージからは目の前に壁が聳えているようにも見えたものだし、音響だってさほどいいわけでもなかった。ぼくが大人になって少し演奏が上手になってからは、この場所をあえて選んで演奏しようとは思わない場所だったけど、それでもぼくには大事な場所なのだ。
そんな公会堂が区役所と一緒に移転した。
ほんの少しでもぼくの自宅近くに来るかもしれない可能性を思うと、なんだか胸が締め付けられるような思いなのである。
そして思うのである。
きっと旧公会堂で最後になる演奏ってものがあったんだろう。どこの楽団がどんな楽曲を演奏したのかは分からないけど、公会堂がその長い歴史に終止符を打つ演奏ってものがあったんだろうと思う。そのステージの端っこでもいいからぼくが立ちたかった。既に過ぎたことではあるけど、とても残念に思う。
だから、さらに思うのである。新しい公会堂の記念すべき最初の演奏はどこの楽団がどんな演奏にするんだろう、と。もしどこかの吹奏楽団が演奏するのであれば、ぼくも少しでいいから関わりたいと思った。しかし、既に音楽から遠ざかってしまったぼくには、これもどうにもならないことである。それがとても残念である。
しかしどこかに可能性はないものだろうか、と考えたりする。ぼくが今からどこかの吹奏楽団に入団して、新しくなった公会堂で演奏できないか。いや、中学校の時の仲間を集めて、OBバンドみたいにして一回限りの演奏会をできないものか。あの頃の仲間とあの時演奏した楽曲を演奏できないものか。それはぼくの夢想でしかない。しかし、この夢想に取りつかれている時、先ほどまで締め付けられていた胸が驚くほど心地良くなっているのを感じるのである。
ぼくの中にも音楽への思いがまだ、しかも強く残っている証拠である。なんだかそれが嬉しくもある。
演劇の世界では新しくできた舞台の最初の演目を「こけら落とし」なんて言うそうな。舞台を作った時に屋根や木材の隙間などに残った木の切りくずを落とすという意味があったんだそうな。
この公会堂が使用できるようになるのは、4月下旬だそうである。使用に向けて、希望する団体が集まって抽選会をするのが決まりなんだけど、これが2月14日にあるそうである。もはや時間的余裕はない・・・というか、時間切れみたいなものだけど、ぼくの中に残っていた熱情をこのままにしておくのもなんだかもったいないなーと思うのである。
| 音楽日記 | 21:53 | comments(0) | trackbacks(0)
エキサイティング第九。
最近毎年恒例の趣になってきたNHK交響楽団の第九演奏会に行ってきた。お袋さんと一緒に行くのもここ数年の定番である。去年はNHKホールで待ち合わせたハズのお袋さんが、なぜか隣の代々木体育館でレスリングの大会なんかを見ていて、ちょっと驚きつつも何となくかわいく感じてしまったんだけど、今年は体調が悪かったようで、予定どおり渋谷駅で待ち合わせをしてさきこと一緒に人混みの中を歩いて坂道を上って行ったのである。

今回はどういうわけか、B席を取ってしまった。いつもはA席に座るところなんだけど、予約の際にいい座席がなかったためか、いや理由は分からないんだけど、とにかくB席で、そこは2階席のもっとも奥、天井に3階席がひさしのようにせり出している天井の低い席だった。ステージまでの距離は、想像していた以上に遠くにあったのが残念だった。まあ音楽自体はどこに座っても大きな違いはないだろうと思っていたので、その点は特に気にしなかった。
しかし、音楽が始まってみると、ちょっと様子がおかしかった。
弦楽器の鳴りが弱く、逆に管楽器が結構目立つ感じでよく聞こえる。いや、そういう指揮者のアレンジなのかもしれないけど、それにしては、拍打ちや主旋律に裏に流れるオブリガードでさえも結構聞こえたりした。
これはそういう風に仕上げたのか?とずっと考えていたら、近くの席で誰かがコンビニのビニール袋をがさがさする音が聞こえたのだ。しかもこれが結構長く続く。ぼくの前の人もその音に気付いて、周囲を見回していたほどである。しかし、きっとがさがさしてる張本人にはそれほど大きな音に聞こえていないのかもしれない。小さく発していたがさがさ音は低い天井に跳ね返って増幅し、ぼくに聞こえているんだろう。つまり、3階席がせり出して天井の低いこの席は、変に音が増幅される場所なのかもしれない。
そう思うと、ベルが前を向いている楽器、つまり管楽器の音がよく聞こえるのも納得である。あー、これは座席の選択を間違っちゃったかなー。

そんなわけで、管楽器がよく聞こえる第九というのは、ぼく個人的にはとても大歓迎なんだけど、音楽としてはちょっと微妙な感じだった。ただ、先にも書いた通り、ホントにそういうアレンジなのかもしれない。なにしろ、コントラバスが舞台下手に設置されたり、歌のソリストがステージ後方、パーカッションと合唱団の間に配置されていたりと、通常のオーケストラとは趣の異なる配置だったからである。そんな配置をする指揮者だから、第九の新しい解釈として、弦楽器を抑えつつ、管楽器を全面に出すようなアレンジがあっても不思議ではない。この指揮者の出身はロシア、正確にはエストニアだそうだし、ロシア的な作曲者の影響なんかも受けてたりするかもしれない。いや、アメリカで勉強したみたいだから関係ないか。
もうこうなったら、大晦日のNHKの放送で確認するしかない。
録音側で変にイコライザーをいじってなければ、またぼくたちが聴きにいった回の演奏が放送されるのであれば、ぼくがいたあのホールでの演奏がもう一度聴けるハズである。これによって、ぼくが聴いたあの第九が、斬新なアレンジによるものなのか、単純に座席の問題なのかが分かるわけである。
そうなれば、来年以降の座席の選び方もいろいろ考えないといけない。できれば指揮者が楽曲に込めた思いなんかも知りたいから、音響が変に影響しない場所で聞きたいとは思うけどね。とは言え、いつかはA席ではなく、S席で聴いてみたいななんて思ったりもしている。S席もA席なんかとは段違いの音響だったりしてね。

さて、さきことお袋さんが体調が芳しくなかったので、音楽を聴いた後はそのまま帰宅した。いつもなら帰り道に第九についていろいろ話しをするのが楽しいので、今年は残念である。
また来年も懲りずに聴きにいこうと思う。
まずは大晦日の音楽を楽しんでからだけどね。
| 音楽日記 | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0)
夢想の地平面
CALENDAR
S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< July 2017 >>
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
アクセス解析
 

現在の閲覧者数:
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE