「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
昔から変わらないゲームのルールって、実はスゴいかも。

先日、自宅近くを歩いていた時に思ったことである。学校の校庭でサッカー部らしき中学生がおそらく学校対抗かなんかでサッカーの試合をやっていた。
そういえば、サッカーって結構昔からあるスポーツだけど、そのルールってたぶん、ほとんど変わっていないだろう。100年前のサッカー選手とだって、今と変わらないルールでサッカーの試合ができるだろうな。
考えてみると、スポーツのルールって、基本的にはほとんど変わっていない。そりゃ、細かい点ではいろいろあるだろうけど、サッカーで言えば、「手を使わずに足だけでボールを蹴り、相手ゴールにゴールを蹴り込む」という基本ルールは変わっていない。野球だって同じで、「ピッチャーの放ったボールを相手チームのバッターが打ち返し、ベースを回って、ランナーがホームインすれば点が入る」という基本ルールは変わっていない。
これって結構スゴいことじゃないかと思ったのだ。
そりゃ、100年前と今では、体つきも違うだろうし、科学的視点での分析も進んでいるから、相対的な能力の面では今の方が高いだろうから、たとえばベーブルースが現代に蘇えったとして、今のメジャーリーグのピッチャーの放ったボールをぱっこんぱっこん打ち返せるかというと、さすがにそれは難しいのでは?と思ってしまうけど、ベーブルースと少なくとも同じルールで野球を楽しむことができる。
科学が発展して、より速いボールを投げられる投法とか、より遠くにボールを打ち返す打法は研究されているのに、ゲームそのものの必勝法、極端に言えば、どちらか一方が絶対的に有利になるような必勝法なんかは未だ開発されることなく、野球を100年前と同じようにプレイすることができるってのは、野球とかサッカーのルールが普遍的で如何に優れたものだったかが分かるというものである。野球やサッカーだけでなく、テニスやゴルフなんかも同じである。
またこれはスポーツに限ったことではない。カードゲームでも、同じことが言える。ポーカーの必勝法は未だ開発されず、より強い役にするため、手持ちのカードを交換するかしないかは、誰がやったって必ず悩むようにできている。51枚のトランプカードのどれが手元に来るか、交換するとどのくらい勝てる見込みが上がるかなど、確実に知る方法がないため、今でも100年前と同じルールでポーカーができるわけである。
それはポーカーのルールが普遍的で秀逸だという理由もあるけど、先ほどのスポーツのルールもそうだけど、果たしてそれだけなのだろうか。
まだ科学的に未発達だった時代に、スポーツやカードゲームなどで今でも通用する優れたルールが作られたというのは、何か鍵になる部分があるのではないだろうか。

 

ちなみに、以前某テレビ番組で放送していたけど、かつてある数学者がカードゲームのブラックジャックの必勝法を編み出して、これをカジノで試してみたところ、かなり高い勝率を得て、カジノへの出入り禁止になったなんて逸話を聞いたことがある。科学の発展でそれまでのルールでは立ち行かなくなる場合もまさにあり得るわけである。
それなのに、なぜ大半のゲームは今でも通用するルールが残っているのか。

 

これはそれぞれのルールに、人間ではどうしても分かり得ることのない、共通の要素があるんじゃないかと思うのだ。
それは「どちらが勝つか分からないドキドキ感」である。サッカーでも野球でもポーカーでも、勝負の行方を予測することができないため、どんなに知的能力・肉体的能力を高めたとしても、勝負に対する魅力は減少しないのである。勝負の行方を予想する思考を曇らせる共通の「何か」があるのだ。この鍵となる何か、人間がどうしても分かり得ない絶対領域とは何か。
ぼくはそれが「確率の計算」だと思っている。

 

世の中がこれほど発展して、ニンゲンの知的水準も高まっている中においても、放り投げて受け止めたコインが手の中で表になってるか裏になっているかを正確に予測することすらまだできないのだ。ピッチャーの投げたボールがどういう方向に来るか、あるいは投げられたボールをバッターが打つか打たないかは、相手には絶対に分からないのである。
宇宙にロケットを飛ばし、生物の住めない領域にさえその生息範囲を拡大しているほどの科学の発展をもってしても、確率を完全に掌握することはできていないというのは、なんだか奇妙なことである。
ニンゲンはスポーツやカードゲームが生まれるはるか前、それこそ狩猟採集生活をしている時から、いやもっと前からその生存を確率に支配されてきた。狩りに出かけて獲物を獲ってくることができるか、目の前のイノシシにあと5メートル近づくことで弓矢の命中率は上がり、しかし同時にイノシシに接近を気づかれる可能性も高まる中、あと一歩を踏み出すかどうか。生存競争の中で、ニンゲンだけでなく生き物すべてが確率の中でその生を紡いできたわけである。ニンゲンはその知的能力のおかげで、脆弱な肉体にもかかわらず、生存競争を勝ち残ってきた。それでもなお、生存競争の根本原理である確率を制することができていないのである。太古の昔から自然を制してきたニンゲンでも、まだ確率の支配から逃れることができないわけである。
しかし見方を変えると、確率を完全に把握しきれないことこそが、ニンゲンが未だ生存競争のただ中にいる証であり、つまり生き物であることの証でもあると言えると思うんだけどね。

 

ニンゲンを取り巻く事象は、いつも予測不可能で、突発的で、驚かされることばかりである。だからこそ、発想の飛躍も生まれるんじゃないかな。手のひらに握られたコインが表か裏かを予想する中で、「いや、表も裏もない。きっと直立してる!」なんて素っ頓狂な答えを出すヤツが出てくることこそが、予想を超えた展開であり、それが知的なブレイクスルーを生み出す素地になっているのではないだろうか。
まさにそういうところに科学の発展の種があるのだろう。いや、科学だけではなく、芸術の分野でも、突如として現れる天才は、それ自体が予測不可能な展開なのである。音楽でも絵画でも、その技術は長年のノウハウの蓄積をその基礎としているけど、素晴らしい芸術に欠かせない天才的な発想というのは、いつも突然やってくるのである。まさに確率予想のできない世界である。

 

スポーツやゲーム、芸術までもが、確率を計算できない欠陥みたいな特性に依拠していると思うと、なんだか妙な気分である。でも、それが世の中を楽しくさせ、常にイレギュラーを生み、種としての画一化を回避させ、環境適応性を高めていくことになり、結果として種としてのニンゲンの永続性を生むわけである。
サッカーの試合にハラハラドキドキしているうちは、まだニンゲンも生き物であり続けているというわけである。

 

ちなみに、前半で登場したブラックジャックの必勝法だけど、これは手持ち札と場に展開された札から、まだ隠れている札をコンピュータを用いて予想していくことで自身を有利にするというもので、テレビを観ていて「ああなるほどな〜」と思ったものだけど、これとまったく同じことを、以前勤めていた会社の役員の方が言っていた。
「麻雀なんて、手持ちの牌と捨て牌を見て、ちょっと計算すれば簡単に勝てるもんだよ、がっはっは!」
いや、ぼくは麻雀をやらない人だから基礎的な知識しかないけど、ちょっとした計算程度で勝てるようなら何百年も前から麻雀があるわけないよなーと思ったものである。しかしウワサではこの役員は学生時代から麻雀では無敵だったそうな。

| 日記 | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0)
夢想の地平面
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
アクセス解析
 

現在の閲覧者数:
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE