「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
「基本、禁止」は基本、禁止です。

最近のニュースで見かけたのだけど、最近の中高生は教科書や新聞に書かれるような長い文章の読解力が低下傾向にあるんだそうな。中高生を対象に実施されたテストで、読解力の低下を示す結果が出たんだそうな。
ニュースに書いてあったそのテストというのは、以下の3つの例題である。

 

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【例題1】
「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」
問:上の文が表す内容と下の分が表す内容は同じか、「同じである」「異なる」のうちから答えなさい
※出典:東京書籍(株)中学校社会科教科書「新しい社会 歴史109P」

 

【例題2】
「Alexは男性にも女性にも使われる名前で女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある」
問:この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい
「Alexandraの愛称は(  )である」
(1)Alex (2)Alexander (3)男性 (4)女性
※出典:開隆堂出版(株)中学校英語科教科書「Sunshine3」

 

【例題3】
「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアに主に広がっている」
問:この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい
「オセアニアに広がっているのは(  )である」
(1)ヒンドゥー教 (2)キリスト教 (3)イスラム教 (4)仏教
※出典:東京書籍(株)中学校社会科教科書「新しい 地理」36P

 

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ちなみに、【例題1】は「異なる」が正解で、正答率は中学生57%、高校生71%。【例題2】は「(1)Alex」が正解で、正答率は中学生38%、高校生65%。【例題3】は「(2)キリスト教」が正解で、正答率は中学生38%、高校生65%だそうな。
どの問題も正答率80%程度を想定して作られたというのだから、正答率が5割を割り込むのはなかなかショッキングな結果といえるだろう。たしかに読解力が低下していることを示す結果である。
ところでぼくはドキドキしつつも、なんとか3問とも正解だった。

 

さて、昨今の若者が学習能力が低くなっているなんて話しは、結構前から聞いていたことで今さら大騒ぎするようなものではないのだけど、今回のニュースから浮かび上がる特筆すべき特徴はなんだろうと考えてみた。
ぼくの見たところ、この問題はどれも「、」が関係している。
前の文章と次の文章を繋ぐ「、」がどういう意味を持っているのか、どういう繋がりなのか、あるいは何が省略されているのかが問われているわけで、それを理解していれば、正解が得られるというわけである。
つまり、この問題の正答率が低いということは、ぼくが考えるに、最近の中高生は「、」で繋げられた長文のセンテンスを理解するのが苦手なのではないかと思ったわけである。

 

もしそうだと仮定して、何か原因らしきものは考えられないだろうか。
そこで思いつくのは、最近のコミュニケーションの仕方である。近年のコミュニケーションツールの変化はとにかくスゴい。思えば30年も前の頃は、遠隔の相手と連絡するには、郵便で手紙を送るか、直接電話をするしかなかった。電話は手紙より比較的手軽のようで、結構ハードルが高い。高校生の頃にさきこの実家に電話する時は電話に親が出るんじゃないかとドキドキだったし(いや、実際、さきことお父さんばかりが電話口に出たものである)、こちらも相手も親が監視しているから長電話なんてできなかった。電話でゆっくり語らうなんて、あり得ない世界だったわけである。
その点では、手紙は良かった。書きたいことをそのまま書いて送ることができた。しかし当時は若気の至りで、とんでもないことを書き連ね、今読むと恥ずかしくて悶死するほどの手紙を何通もやり取りしたものである。
しかし、時代が進むにつれて、文明の利器がコミュニケーションの方法を変えていった。
ポケベル、携帯電話、ショートメール、文字数制限のない長文メール、チャット、ツイッター、そしてスマホの驚異的普及によりメッセージアプリが数多く出てきたのである。電話をしても、電話口に本人以外の人が出ることはまずあり得ないし、メールもタイムラグなく本人に届く。最近のメッセージアプリなんかでは、文字で会話をしているような即時的なコミュニケーションが可能である。そしてこのメッセージツールが、コミュニケーションを文字形式から会話形式にどんどん変化させていく。これにより書き言葉に触れる機会がどんどんなくなっていくのだ。
ぼくはこれが長文センテンスの読解力の低下と関係しているように思うのだ。

 

たとえば、メッセージアプリで「週末の日曜日に相手と映画に行く」という誘いの連絡をするとする。
自分「こんばんは」
相手「こんばんは〜」
自分「冷えるね」
相手「そうだね、寒くなってきたね」
自分「あのさ」
相手「なになに?」
自分「今度の週末、ヒマ?」
相手「週末って、土曜日?日曜日?」
自分「えっと、ヒマな日はどっち?」
相手「うーん、どっちかって言うと、日曜日かな?」
自分「そっか」
相手「なに?」
自分「スターウォーズって好き?」
相手「え・・・ああ嫌いじゃないけど?今度映画やるよね」
自分「そうそう。それでね」
相手「うん」
自分「一緒に観に行かないかなーと思って」
相手「ああ、うん。そうね。ちょっと待って。時間にもよるかなー」
・・・ってここまで書いて、あまりに長々しくて、コイツら一体いつになったら映画に行けるんだと思ってしまったわ。映画を観に行く約束くらい2、3言で済ませろよって思うけど、ここまで長々しい会話が必要になったのは、やはり文字コミュニケーションの機会が減少しているからだと思うわけ。
文字で書くとすると、たとえば「今度の週末、もしヒマなら映画に行きませんか?スターウォーズの新作やるんだけど、興味ある?」なんて書けば済む話しである。会話で相手の出方を探りながら冗長な会話をするのは、非常にマドロッコしいのである。いや、これが付き合い始めて間もない二人だったら、こういう会話が楽しいのかもしれないけど、ね。
こんなマドロッコしい会話をしていたら、きっと永遠にスターウォーズを観に行くことはないだろうな。

 

この話し言葉によるコミュニケーションに関係して、最近どうも気になっていることがある。
「基本、禁止です」という言葉である。
この言い回しがどうしても気になるのだ。まず、「基本」ってなんだ?そして「、」はどういう意味なんだ?禁止事項を伝える結構大事なメッセージなんだから、分かりやすく、伝わりやすく書くべきで、「基本、禁止です」なんて書かれるのはどうも好きではない。「基本、禁止」の「、」は話し言葉を前提として存在する「、」なのである。文章にする言葉なのに、会話形式に過ぎるのではないか。
ぼくは会社の仕事でも何かルールを作ったり、注意喚起をしたりすることが多いのだけど、それでも「基本、禁止」なんて書かない。ぼくは「原則として禁止です」と書くようにしている。

 

とは言え、ぼくもすべての文章で分かりやすい、伝わりやすい言葉遣いができているわけではない。ブログを書いていても、話し言葉のように「、」を使いたくなる時がある。「先週の日曜日、ぼくはキャンプに行った」なんて書くことも多い。前後の関係で分かりにくい時には「先週の日曜日のこと、ぼくはキャンプに行った」とか「先週の日曜日だけど、ぼくはキャンプに行った」という感じで、前後の文章の関係性をなるべく分かるように書くようにしているけどね。

 

そんなわけで、話し言葉が文字コミュニケーションの中に大きく進出してきた中で、読解力の低下という結果を招いているんじゃないかと思うわけである。その代表的な例が「基本、禁止」という言い回しというわけである。
そんな状況をさて、どうしたらいいのだろうか。
そもそもこんな問題は外国ではおこらないのだろうか。外国語は日本語と違って、話し言葉と書き言葉に大きな違いはない。話し言葉のまま文字にしてメールで送っても、失礼でもないし、意味がおかしくなることもなくて、正しくコミュニケーションができる。話し言葉と書き言葉に表現上の大きな違いがある日本語だから、こういうことが起こるんだろうなと思うわけである。

 

スマホのメッセージアプリと似ているけど、最近流行りつつある「企業内チャット」というのも、ぼくは好きではない。ぼくの勤める会社ではまだ導入していないツールだけど、効率重視の企業においては、メールすらマドロッコしいツールに成り下がり、相手が見ているディスプレイに直接メッセージが表示されるチャットがさらに効率的なんだそうな。何かちょっと聞きたいことがあった時、ぱぱぱっとメッセージを打ち込んで相手に送れる。相手はそれを見て、メールのような定型文なしに答えだけぱぱぱっと返信するわけである。メールの冒頭に書くような「〇〇様」「お疲れ様です。〇〇課の〇〇です。」はもちろん、「お伺いの件ですが、そちらの〇〇課長に聞けば分かると思います。」「よろしくお願いします」なんて堅苦しい文章を省いて、もらったメッセージに「〇〇課長に聞いて」とだけ書けばいいわけである。
しかし、ぼくはどうも好きではない。
チャットなどの短文メッセージが多くなると、日本語の理解というもっと大事なものを犠牲にしてしまうような気がしてるのだ。企業は目先の効率性ばかり優先するけど、これによって自社の社員の日本語力が低下して、知らず知らずのうちにもっと大きな損失に繋がるんじゃないかと思うわけである。メッセージアプリが普及した昨今では、メールすらマドロッコしいツールになったけど、しかしそれが日本語の溶解を食い止める最後の砦になるんじゃないかとも思えるのである。

 

それでも、きっとあと数年後には、チャットの利便性に負けて、導入しちゃうんだろうな。ぼくが「日本語の溶解が〜」とか「日本語の読解力が〜」とか「目先の効率性よりも日本人として〜」とか言っても、無視されちゃうんだろうな。
だから、今から少しでも抵抗するのである。
分かりやすい書き言葉への追及をやめず、書きながらいつも自問するようにしたい。そして、「基本、禁止」などという言葉が標準的な言い回しにならないように少しでも抵抗したいと思うわけである。

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