2016.02.03 Wednesday
シンクロニック・ヒラメキ・モーメント。
なんかこう後出しジャンケンみたいな話しだけど、たとえばある時何かをふと思いついて、あぁこれは面白そうだなーとか思いつつも、特に何もせずにそのままにしておくと、後になってその時ぼくが思いついたコトが目の前に現れたりすることがよくある。
その時ぼくが思いついたことを偶然他の誰かも思いついていて、しかしぼくはその発想をそのまま放置し、一方それを実現した人がいたということじゃないかと思ってる。世の中は「先にやったもん勝ち」な世界なので、ぼくの発想がそのまま具現化されたものを見ても「あぁっ!ぼくが思いついたコトなのにー!」などとは思ったりしない。世の中はそういうものなのだと充分分かっているからである。
しかし、「充分分かって」しまうほどそういう経験が多いのも事実である。いちいち「ぼくが思いついたコトなのに!」なんて子供みたいな主張はしないけど、そういう経験が多いとなんだかなーと思ったりする。
それにしても、同じような発想とはどうして起こるのだろうか。
こういうことがあまりにも多いと、何か理由があるんじゃないかと考えたくなっちゃう。ある特定の発想があったとして・・・えっと、適当な例が見つからないけど、とにかく何か「いいこと思いついた!」とヒラメいた瞬間があるとする。しかし、これとほとんど同時期に別の場所で、それこそ大阪とか福岡とか北海道とかすごく遠いところで同じように発想している人がいるんじゃないか。いや、もっと広く、中国とかヨーロッパとかアメリカで同じようなヒラメキを得た人がいるんじゃないかと思うのである。それは何らかの全地球的な作用が加わって起こる脳内反応みたいなもので、ぼくの発想力が飛びぬけているわけではなく、脳みそ内の化学的な反応の一種としてそういうことがあるのかもしれない。たとえば、太陽からの電磁波が特定の脳内活動、それこそシナプスの発火を促し、脳神経のある種のネットワーク型の人だけ作用して、ヒラメキを促す・・・なんて仕組みはどうだろう。ニンゲンの脳神経のネットワークは宇宙でもっとも複雑な構造物だと言われているけど、ネットワークにもいくつかの型みたいのがあって、ある刺激に反応する特定の型なんてものがあるのかもしれない。その型を持つ人だけがこの刺激に反応して同時に同じようなヒラメキを得るんじゃないか、と。
あるいはこんな説はどうだろう。そもそもニンゲンの発想とは、真の意味で自由で無限のバリエーションがあるというのは幻想であり、思考には案外制約が多いような気がする。発想の多様性は無限だと思われてるけど、実は何らかの法則や制限があるのかもしれない。考えてみれば、脳みそだって臓器のひとつに過ぎず、限定的な機能しかない胃や腸の仲間なのに、脳みそだけその能力が無限っていうのはなんだか不公平な感じもするわけである。脳みそを過信し過ぎてるというかね。だから同じ時期に同じように発想するというのは、昼近くになるとお腹がぐ〜と鳴るのと同じくらいありふれた現象なのかもしれない。
さて、なんでこんな話しを延々としているかと言うと、仕事の関係で訪れた某社のオフィスで、同じような発想に出会ったのだ。
それはオフィス内に設置された大きな木のオブジェである。あまりにも巨木なので、天井を突き抜け、また枝の広がりが天井の所々から覗くという造作である。
実はこれとまったく同じことをぼくは2年前に考えていた。
ぼくの会社の本社移転の時である。従業員が食事したり、リラックスしたりするスペース、いわゆるリフレッシュスペースに植物をたくさん設置して、緑あふれる空間を演出し、よりリラックス感を出したいとの意見が出て、一緒にプロジェクトを進めるチームの人といろいろ案を出していた。実際の植物、たとえば観葉植物を設置するのは、その後の管理が大変だと思い、フェイクの植物ならたくさん設置できるとぼくが提案し、その中でオフィスに聳える巨木を提案したのだ。イメージはディズニーランドにありそうなフェイクの木の造作である。それはあまりにも大きい木なので、床から天井まではその太い幹の部分しか見れず、その先は天井に吸い込まれるように途切れるのである。それはこの木がいかに大きいかを物語る。広がった枝が天井から覗いたりして、そこにはたくさんの葉が茂り、小鳥なんかもとまっていたりするのだ。この木の幹の部分にベンチを置いて、リラックスして座って打ち合わせ・・・そんな造作を考えて、実際恥ずかしいのにラフな絵なぞも描いてみせたりした。
しかし、これがメンバーには非常にウケが悪くて、「えー、本物じゃないとなー」なんて言われちゃって、結局却下されちゃったのである。いや、これ、絶対いいって。絶対みんな喜んでくれるってってほとんど確信に近い自信があって主張したんだけど、無残にも却下されちゃったわけである。
あれから2年である。ぼくは出会っちゃったのだ。ぼくが頭の中にヒラメいたあの巨木が具現化して目の前にあったのだ。しかも、ぼくの発想よりもさらに洗練されて、枝には葉だけでなくリンゴみたいな果実がついていて、根元の樹洞(うろ)にはちょっとした打ち合わせなんかができる小部屋があったりして、さしずめ秘密基地的な様相である。うん、ぼくが考えたものよりも1000倍いい感じになってるけど、基本コンセプトである天井に突き抜ける巨木の発想は、まさに同じだったのだ。
写真を見てもらえば分かるけど、これ、凄くいい感じなのだ。オフィスにこんな造作があるなんて、ホントわくわくする。これは従業員だって喜んじゃうよな。実際、今回この会社を訪れたのは「自分たちのオフィスをぜひ見て〜」というイベントだったわけだしね。
発想やヒラメキが他の誰かと被ってしまうというのは、ぼくにとってはよくあることなんだけど、この時ばかりは別の感情も激しく噴出するのをもはや押し留めることはできなかった。
だ・か・ら・言・っ・た・じ・ゃ・ん・か・!
もう地団駄踏んでしまうほど悔しかった。絶対成功すると思ってたネタがこうして成功例として目の前にあるのは、ホントに悔しい!この樹木の発想をした人が「いや〜、このネタは2年くらい前にふと思い浮かんだんですよね〜、ブレークスルーってやつ?」なんてチャラい感じで自慢してたら、ホントぼくは正気じゃいられないだろうな。後出しジャンケンで子供じみてるのは分かってるけど、それでも「ぼくが先に思いついたのにー!」って言いたくなっちゃうわ。
そんな悔しいデキゴトがあったこともあってか、冒頭で書いたように「ニンゲンが同じように発想する」ということは、誰にでもよくあることで、それは全地球的な化学的原因があるとか、または脳みそという臓器の限定された能力が原因だとか思いたくもなるのだ。ニンゲンのヒラメキや発想が真にランダムで無限だとすると、この巨木を前に悔しさや哀しさのやりどころがなくなってしまう。
そう言いつつも、脳みその無限な発想力を心のどこかで期待してるからこそ、絵なぞを描いたり、音楽をやったりできるんだけどね。そういう矛盾というか、二律背反的なところがニンゲンの脳みそにはあるのだろうな。
だからこの発想の同調というのは、とても不思議な現象なのである。
※これだ、これがやりたかったんだ!
※虹なんかかかちゃって、なんかいい感じ。
※スゴい景色の良さだ。
その時ぼくが思いついたことを偶然他の誰かも思いついていて、しかしぼくはその発想をそのまま放置し、一方それを実現した人がいたということじゃないかと思ってる。世の中は「先にやったもん勝ち」な世界なので、ぼくの発想がそのまま具現化されたものを見ても「あぁっ!ぼくが思いついたコトなのにー!」などとは思ったりしない。世の中はそういうものなのだと充分分かっているからである。
しかし、「充分分かって」しまうほどそういう経験が多いのも事実である。いちいち「ぼくが思いついたコトなのに!」なんて子供みたいな主張はしないけど、そういう経験が多いとなんだかなーと思ったりする。
それにしても、同じような発想とはどうして起こるのだろうか。
こういうことがあまりにも多いと、何か理由があるんじゃないかと考えたくなっちゃう。ある特定の発想があったとして・・・えっと、適当な例が見つからないけど、とにかく何か「いいこと思いついた!」とヒラメいた瞬間があるとする。しかし、これとほとんど同時期に別の場所で、それこそ大阪とか福岡とか北海道とかすごく遠いところで同じように発想している人がいるんじゃないか。いや、もっと広く、中国とかヨーロッパとかアメリカで同じようなヒラメキを得た人がいるんじゃないかと思うのである。それは何らかの全地球的な作用が加わって起こる脳内反応みたいなもので、ぼくの発想力が飛びぬけているわけではなく、脳みそ内の化学的な反応の一種としてそういうことがあるのかもしれない。たとえば、太陽からの電磁波が特定の脳内活動、それこそシナプスの発火を促し、脳神経のある種のネットワーク型の人だけ作用して、ヒラメキを促す・・・なんて仕組みはどうだろう。ニンゲンの脳神経のネットワークは宇宙でもっとも複雑な構造物だと言われているけど、ネットワークにもいくつかの型みたいのがあって、ある刺激に反応する特定の型なんてものがあるのかもしれない。その型を持つ人だけがこの刺激に反応して同時に同じようなヒラメキを得るんじゃないか、と。
あるいはこんな説はどうだろう。そもそもニンゲンの発想とは、真の意味で自由で無限のバリエーションがあるというのは幻想であり、思考には案外制約が多いような気がする。発想の多様性は無限だと思われてるけど、実は何らかの法則や制限があるのかもしれない。考えてみれば、脳みそだって臓器のひとつに過ぎず、限定的な機能しかない胃や腸の仲間なのに、脳みそだけその能力が無限っていうのはなんだか不公平な感じもするわけである。脳みそを過信し過ぎてるというかね。だから同じ時期に同じように発想するというのは、昼近くになるとお腹がぐ〜と鳴るのと同じくらいありふれた現象なのかもしれない。
さて、なんでこんな話しを延々としているかと言うと、仕事の関係で訪れた某社のオフィスで、同じような発想に出会ったのだ。
それはオフィス内に設置された大きな木のオブジェである。あまりにも巨木なので、天井を突き抜け、また枝の広がりが天井の所々から覗くという造作である。
実はこれとまったく同じことをぼくは2年前に考えていた。
ぼくの会社の本社移転の時である。従業員が食事したり、リラックスしたりするスペース、いわゆるリフレッシュスペースに植物をたくさん設置して、緑あふれる空間を演出し、よりリラックス感を出したいとの意見が出て、一緒にプロジェクトを進めるチームの人といろいろ案を出していた。実際の植物、たとえば観葉植物を設置するのは、その後の管理が大変だと思い、フェイクの植物ならたくさん設置できるとぼくが提案し、その中でオフィスに聳える巨木を提案したのだ。イメージはディズニーランドにありそうなフェイクの木の造作である。それはあまりにも大きい木なので、床から天井まではその太い幹の部分しか見れず、その先は天井に吸い込まれるように途切れるのである。それはこの木がいかに大きいかを物語る。広がった枝が天井から覗いたりして、そこにはたくさんの葉が茂り、小鳥なんかもとまっていたりするのだ。この木の幹の部分にベンチを置いて、リラックスして座って打ち合わせ・・・そんな造作を考えて、実際恥ずかしいのにラフな絵なぞも描いてみせたりした。
しかし、これがメンバーには非常にウケが悪くて、「えー、本物じゃないとなー」なんて言われちゃって、結局却下されちゃったのである。いや、これ、絶対いいって。絶対みんな喜んでくれるってってほとんど確信に近い自信があって主張したんだけど、無残にも却下されちゃったわけである。
あれから2年である。ぼくは出会っちゃったのだ。ぼくが頭の中にヒラメいたあの巨木が具現化して目の前にあったのだ。しかも、ぼくの発想よりもさらに洗練されて、枝には葉だけでなくリンゴみたいな果実がついていて、根元の樹洞(うろ)にはちょっとした打ち合わせなんかができる小部屋があったりして、さしずめ秘密基地的な様相である。うん、ぼくが考えたものよりも1000倍いい感じになってるけど、基本コンセプトである天井に突き抜ける巨木の発想は、まさに同じだったのだ。
写真を見てもらえば分かるけど、これ、凄くいい感じなのだ。オフィスにこんな造作があるなんて、ホントわくわくする。これは従業員だって喜んじゃうよな。実際、今回この会社を訪れたのは「自分たちのオフィスをぜひ見て〜」というイベントだったわけだしね。
発想やヒラメキが他の誰かと被ってしまうというのは、ぼくにとってはよくあることなんだけど、この時ばかりは別の感情も激しく噴出するのをもはや押し留めることはできなかった。
だ・か・ら・言・っ・た・じ・ゃ・ん・か・!
もう地団駄踏んでしまうほど悔しかった。絶対成功すると思ってたネタがこうして成功例として目の前にあるのは、ホントに悔しい!この樹木の発想をした人が「いや〜、このネタは2年くらい前にふと思い浮かんだんですよね〜、ブレークスルーってやつ?」なんてチャラい感じで自慢してたら、ホントぼくは正気じゃいられないだろうな。後出しジャンケンで子供じみてるのは分かってるけど、それでも「ぼくが先に思いついたのにー!」って言いたくなっちゃうわ。
そんな悔しいデキゴトがあったこともあってか、冒頭で書いたように「ニンゲンが同じように発想する」ということは、誰にでもよくあることで、それは全地球的な化学的原因があるとか、または脳みそという臓器の限定された能力が原因だとか思いたくもなるのだ。ニンゲンのヒラメキや発想が真にランダムで無限だとすると、この巨木を前に悔しさや哀しさのやりどころがなくなってしまう。
そう言いつつも、脳みその無限な発想力を心のどこかで期待してるからこそ、絵なぞを描いたり、音楽をやったりできるんだけどね。そういう矛盾というか、二律背反的なところがニンゲンの脳みそにはあるのだろうな。
だからこの発想の同調というのは、とても不思議な現象なのである。
※これだ、これがやりたかったんだ!
※虹なんかかかちゃって、なんかいい感じ。
※スゴい景色の良さだ。