「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
尾道への思い。
日本の音楽というか歌謡曲というかJ−POPというかそういったジャンルの中で、以前組曲「惑星」の中の木星のメロディに載せて「ジュピター」とか歌ってる人がいて、好きな作曲家の好きな楽曲の中の好きな楽章に安易に日本語を載せて歌うことに大きな嫌悪を感じて、あの世のホルスト氏も草葉の陰で哀しんでいるだろうなーと思っていたんだけど、ここ最近、尾道に思いを馳せるにあたり、この手の楽曲に日本語の歌詞を載せるのって以前からあったことに思い当たった。尾道と言えば、某映画監督の尾道三部作であり、その中でショパン氏の「別れの曲」を使っていたあの映画である。
しゅんすけはこの映画を観てからずっと尾道の街に憧れを持っていて、いつか行きたいと思いつつ、なかなか行けず、もう四半世紀も経ってしまった感である・・・って某百科事典サイトによれば、この映画は1985年の映画だそうだからマジで四半世紀前の思い出と言っても過言ではない。いや歳取ったものだ。

そんなしゅんすけの尾道への思いがこの春、ちょっと叶うかもしれない。
自転車仲間で計画する中に一部そういう部分があって、とは言え、上記のようなしゅんすけのココロの機微を共有できるのは誰もいないわけで、初めて訪れた街なのにどこかで見た覚えのある風景に人知れず感動していたりするのはしゅんすけくらいだろう。でも、いいのだ。今から楽しみである。
どのくらい楽しみかというと某Y○U○UBEでこの映画の映像が残ってないかなーと探してみたら、何やら映画の予告編みたいのがヒットして再生してみたんだけど、なんちゅうかそのレトロ感というか、青春まっただ中というか、まさに80年代、80年代に考えるレトロ感が現代の感覚と大きく遊離しているというか、完全に身悶えするほどに恥ずかしい映像になっているけど、この映像のほとんどのシーンで次に来るシーンやセリフが言えてしまうほど見尽くしたしゅんすけの身悶えするほどの思いがついに実現するのである。いや楽しみだ。
そんなしゅんすけを見て、ショパン氏も草葉の陰で哀しんでいるだろうね。でもいいや。

※恥ずかしくて死ぬ映像
| 日記 | 15:12 | comments(0) | -
「42.195キロ先の約束」
「詳しくは別ページで」と書いたランニングイベントの記事が全然アップできていない。先々週は千葉マリンマラソン、先週は新宿シティマラソンと立て続けに出場している中、仕事もその他のことなぞも含めかなりバタバタな状況の中で、忙しくて書くヒマがない・・・かというと、実はそうではない。たしかに仕事は超巨大X企画に向けて日に日にバタバタ感が増大しているのだけど、記事がアップできない大きな理由は、単純に「記事の題名」が決まっていないからである。

しゅんすけのサイトにはナニかとロゴマークが多くて、例えばランニングイベントのレポートは「豪脚発動」という標題があるし、サイクリングの記録には「路上のツバサ」、ちょっと前は「その道の先。はやく、とおくへ」とか「路上の爽快」とか標題をつけていた。しゅんすけはこういうどうでもいいトコロに妙にコダワリを持っていて、「豪脚発動」の前は「彼女の場合」とか「彼の場合」だった。旅行記でも富士登山は「煉獄篇」、「幻想編」、「地獄篇」と展開するし、チンクでの旅行は「街道をゆく」などと標題を考えるのも結構楽しい。そう言えば、ブログの標題は考えに考え抜いて「オクターブアップ!」、その前は「シュンスケニウムの原子量」だった。やはり、標題は大事である。

今回1月最初のランニングレポートを掲載するにあたって、標題を新しくしようと気合いを入れた。
何故なら新年最初のレースだったし、何よりしゅんすけが大いなる野望に向けて第一歩を踏み出した記念すべき大会だったからである。
そういうわけで、去年までの「豪脚発動」を改め、新しい標題を決定したわけである。
はてさて、ホントに標題どおりの野望を達成することができるのか。その先には一体何が待っているのか。これはこの野望を果たした時のしゅんすけのみぞ知るナニかなのである。

そんなわけで、標題も決まったことだし、先の2件のレポートをアップした。
| 日記 | 23:41 | comments(0) | -
週末は。
金曜は会社を早くに上がって、さきこと自転車仲間の方のお宅に行った。新年会の続き・・・というより、今年のイベント企画のためである。去年は佐渡ロングライドを大きな目標にしてたけど、果たしてどうするか。しゅんすけ的にはツールド宮古島がいいなーと思ってんだけどね。百花繚乱な議論の中、夜が更けていき、気がつくと5時、もはや夜ではないのだった。
楽団で総会があって、しゅんすけが今年の重責な役職を拝命することになり、なかなか気の引き締まる思いであった。
日曜はランニングのイベントで、6時に起床して出かけていった。今年2回目の新宿シティマラソンである。この時期には珍しいほどの気温の高さで、ポカポカ陽気の中、国立競技場のスタンドでしばしマドロミの時間を過ごしてしまったよ。レースの結果は別ページにて。


| 日記 | 22:03 | comments(0) | -
名の言えぬ本。
最近あまりにも本を読まない自分が嫌になるのだが、考えてみるとかつての唯一の読書タイムである通勤時間では、ほとんど電車で寝ているか携帯電話でダウンロードしたゲームなぞをやっている。このゲームは、去年の1月に某金管バンドの練習の際に、酷い降雪に遭い、全く積もってなかった練習前からたったの3時間でクルマでの走行が完全に不可能になるほどの積雪となり、やむを得ず電車で帰ることにし、翌日これが嘘のようなピーカンの陽差しで積雪は完全に蒸発、あれはタヌキかなんかに騙されたのかと訝りつつクルマを取りに行ったんだけど、あろうことか2時間もかけて辿り着いた練習場でクルマの鍵を忘れてきたことに気づき、泣く泣く引き返し、再び練習場を訪れ、何ゆえ週末の2日間で3回も同じ練習場に来にゃならんのかと大事な休日を台無しにした自分のおバカを心底呪いつつ、この日2回目の坂道を上っている最中に、余りにも手持ち無沙汰だったために思わず携帯電話でゲームをダウンロードしちゃったんだけど、これが大して面白くもないくせになかなか抜け出せなくて、空いている時間があるとついつい手が伸びることになって、気がつくと1年近くやり込んでいることに気づき、これではいけない、何でもいいから本を読まねばならないと手にとってしまったのが、このライトノベルだったというわけである。何の知的利益もない、しかも月額料だけはしっかりと徴収されてしまうケータイゲームよりも幾分はマシだというわけである。

そんなわけでライトノベルを読んだのだが、ノベルって言ってもほとんど高校生とかが読む漫画みたいなものである。買うのが恥ずかしくてしょうがなかった。コンビニで大人が買うようなソレ系の本を買うのは何ら恥ずかしくないけど(だって大人だから)、この歳になって高校生が買うような本を本屋で買うのはホント恥ずかしい。思わず関係ない本を上下でサンドイッチして買っちゃったよ、エロ本か?!あるいは「私は出版社に勤めており、日々こうして本屋で書籍の人気度をリサーチしているノデス」的な設定の小芝居を打たないと買えない。しかし、今回の本はしゅんすけのココロに引っかかるナニかがあった。恥ずかしい思いをしても買わずにいられないナニかがあったのである。

さて、何がしゅんすけのココロに引っかかったかっていうと、この物語で出てくる独特な設定、例えば宇宙人がいるとしてそれはどういう形で存在するのかとか、時間移動が可能だとしてそれはどんな理論に裏付けされているのかとかそういう設定なのである。
別に本編よりも設定の方に興味があるってことではないし、本編だってかなり面白い。やはり世の中の○○的な方々の支持を得るのだからそれなりにいい作品なんだろうな。同様に○○的な方々の支持を集めた汎用人型決戦兵器の某人造人間が登場する作品も、なかなか面白い作品であった。こんな○○的な作品ばかり観ているとしゅんすけも○○的になってしまうのではないかと危惧するも、自分の嗜好に正直になってなぜ悪いという半ば開き直りな感情もなくはなく、そう思うにつけ、ちょっと性癖なアレなおじさんとかがいるけど、彼らのアレな性癖はどういう経緯で発現してしまったのかと言えば、もしかしたら今のしゅんすけと同じである時ふと自分の嗜好に正直であるべきと思うに至ったからなのかと思うわけで、そうであれば遠からぬ将来にしゅんすけがアレ的なおじさんになってしまう図が思い浮かばないこともないわけで、いやそりゃさすがにマズいと思うわけである。だから、今回の読書感想文は書名については一切明記しないつもりである。うっかり書名を書いてしまったり、あまりにも分かりやすいヒントが書かれていたとしても、ぜひスルーして欲しいし、ゆめゆめしゅんすけのことをアレ的なおじさんと思わないように欲しいものである。そう、しゅんすけはあくまでおじさんではない・・・いやアレ的ではないのだ。

さて、しゅんすけがおじさんなのかアレ的なのかは別として、この本の中身は前述のとおりなかなか秀逸であり、プロットや文体がしっかりしてて読みやすいことに加え、特にその背景となる設定の理論がしゅんすけの琴線を激しく弾いたわけである。今回の読書感想文は、この裏設定の理論、その中でも時間移動に関する理論について、しゅんすけが激しく琴線を弾かれたことを書くことにする。

時間移動って、タイムスリップとかタイムトラベルとか言うけど、SFとしてはかなり古い小道具にもかかわらず、一向に実現の様子が見えないばかりか、その理論的背景さえも確立していない。100年もの歴史のある夢が未だこんな状況だなんて、そっちの方が驚きなんだけど、とにかく現実世界ではどうやって時間移動するのか、そもそも時間移動はできるのかさえまだ分かっていないのである。ま、だからこそ、フィクションの世界では勉強机の引き出しの中がタイムトンネルになってるとかラベンダーの香りを嗅ぐと云々とか設定で遊べるわけだけどね。
でも、この作品の中で登場する時間移動の理論は、非常によくできていると思う。少なくとも勉強机の引き出しを開けてタイムマシンに乗り込むよりは理に適っていると思う。
その理論とは、時間平面論というそうな。
しゅんすけもよく分かってないし、本気で○○的な方々からツッコミをいただくのも嫌なので、さらっと書くけど、時間とは川の流れのような絶え間ないものではなく、静止した瞬間の膨大な集積である、とのことである。いわゆるパラパラマンガのようなもので、一枚ごとの絵は静止しているけどこれをパラパラすることで動いているように見える。時間とはまさにそういう平面の集積であるという理論なんだそうな。そして時間移動とはこのパラパラマンガのある絵(ページ)から別の絵(ページ)にジャンプすることであり、つまりパラパラマンガを飛び出して立体的(3次元的)に移動するとも説明できる。ある時間にジャンプすると、その時間の人には突如その場に現われたように思えるわけだ。う〜ん、この時間がパラパラマンガのようなものだという説明やこれを立体的(3次元的)に飛び越えるという説明は、説明としてはなかなか分かりやすいと思う。

さて、ここでしゅんすけが気づく。
パラパラマンガに例えているが、この説明では分かりやすくするために一貫して次元を1つ落としている。つまり、パラパラマンガで表現される現実世界は3次元(立体)である。立体的パラパラマンガと言ってもいい。そして、上の説明でパラパラマンガを立体的(3次元的)に飛び越えると書いた時間移動の方法も実は3+1次元的な方法、つまり4次元的方法と言えるわけである。
説明を簡単にするために次元を1つ落とすというのは、トポロジーのお話しで一度書いている。(2003.07.26Saturday「四次元へのイザナイ。」)
この時に書いた話しとは、例えばこういう話しである。相同ではあるが合同ではない平面図形や立体図形を合同にするには、その図形よりも1次元高い次元の世界でないとできない。つまり平面図形であれば3次元世界、立体図形であれば4次元世界でないとできないわけで、手のひらや耳たぶは同じような形(相同)だけど完全に重ね合わせるためには4次元世界でないとできないわけである。でも、果たして手のひらや耳たぶを重ね合わせられる4次元の世界とはどんな世界なのか。縦・横・高さにあともう一つの座標が加われば4次元になるわけだけど、この加えられる次元とは一体何か?
この4次元に向かう最後の座標は「時間T」である、なんて言われるそうだけど、しゅんすけは実感できなかった。なんで時間なのか?時間なら3次元にだって存在している。2次元に存在しない座標「高さ」が3次元への入り口だとすれば、4次元の入り口たる座標は3次元に存在しない何かであるべきではないか。だから、4次元=縦×横×高さ×時間という公式に違和感を覚えていたわけである。
だけど、先ほどの時間平面論で語られる時間移動の方法が、この違和感を解消する。
つまり、時間移動とは2次元世界のパラパラマンガを3次元的に飛び越えるように3次元世界のパラパラマンガを4次元的に飛び越えるわけで、ここで4次元という概念と時間が結びつくのである。
4次元=縦×横×高さ×時間という違和感な公式と時間平面論による時間移動。このふたつの接続がしゅんすけの違和感を霧散させた。
そうか、時間移動とは4次元的なもので、それは断続的な時間と時間の隙間を飛び越えることだったのだ。

・・・うん、すっごく分かりにくい文章である。ここまでつらつらと書いてきたけど、どうしてもしゅんすけが独りよがりで納得している感は払拭できず、これが独りよがりの域を出ないのだとすれば、それはしゅんすけの文章力の低さにのみ起因していて、ホントだったらしゅんすけは「ユーリカ!」とか叫んでスッポンポンで走り出すくらいに納得したのである。ま、この「やったー!」感は少なくとも共有したいものである。

そんなわけで、読み始めたら止まらないこの本だけど、そうは言っても8巻を3週間で読むという高速読書では、さすがにそろそろ食傷気味になってきた。
やはり漫画的な側面から脱却できてないからなのかどうなのか。
でも、この本によって、今まで蓄積してきた知見が脳みその外側で初めて有機的に結合した感じがする。なんて言うかな、今まで入力オンリーだった情報を出力して、しかも他の情報と結合させて新しい知見を得たというか。そうだね、勉強ってこういうものだよね。脳みその中に蓄えた情報を脳みその外側で紡ぐのが楽しいんだよね。
今回の本は蚕から得た生糸を紡いで糸にするような本であった。生糸ばかり蓄えてもしょうがないよね。

さて次の本は、知見を紡ぐ本か、それとも生糸を蓄える本か。
| 読書感想文 | 16:57 | comments(0) | -
週末は。
いや、長い週末だった。
金曜日の夜に某ランニングクラブの自転車好きが集まった新年会は、今年の活動計画を決めようとの意気込みで始めたものの、終始バカ話しとなってしまい、結局24時30分に終了。いや、バカ話しは止めどない。どうも来週も集まって活動計画決めたり、自転車を新規購入しようという方に(ありがた迷惑的に)いろいろアドバイスをしようということになった。「お泊まりセット」持参だって・・・あ、こりゃバカ話しで終わるわ、きっと。
土曜は某金管バンドの練習があったんだけど、もの凄い数の出席者で、久々に大合奏を楽しんだ。
練習後に新年会的に集まったのだけど、折しもしゅんすけのココロが手折れてしまい、泣けた。焼き肉は美味しかったんだけど、気がついたら24時を大きく回っていて、宴会で24時を回るのは前日と同様だけど、翌日の予定を考えたらこりゃもうあり得ない時間帯なわけで、急いで帰宅するも、なんだかんだと回り道してたら自宅に到着したのが2時を回っていた。全然休息できないじゃないか!
そして迎えた日曜。朝6時前に起床して、今年初めてのランニングレースに参加してきた。
千葉マリンマラソンでのハーフ。結局2時間15分でゴールでき、まずは順調な滑り出し、去年の手賀沼の記録を5分だけだけど更新する形となった。
しかし、今回初めて参加したこのレースには、そのレース中に様々なドラマがあったわけで、この辺のことは別ページにて。


| 日記 | 23:38 | comments(0) | -
今年の目標。
去年もそうだったけど、1月はさきこと会議である。
ランニングとサイクリングについて今年の年間計画の立案。計画を立てないでサミダレ的にイベントに出ていると、しゅんすけの体力かさきこの財布のどちらかが枯渇することは分かり切っており、たぶん先に枯渇するのはしゅんすけの体力の方なんだけど、いずれにしても、目標を作るのは悪いことではない。
そして、今年の目標は、以下のとおり決まった次第である。

しゅんすけは、今年ついに「フルマラソン完走」を目標にする。ランニングを始めて3年、イササカ遅すぎの感はあるけど、しゅんすけの走力が一向に伸びず、併せて体重も一向に減少しない現状を鑑みれば、これでもかなりの冒険である。そして、いつ、どのマラソンに出場するか・・・。11月に開催されるであろう湘南マラソンに照準を合わせることにした。おおっ、かなり具体的に決まっちゃったもんだな。ホントに大丈夫だろうか。

さきこの方は、去年完走したウルトラマラソンに再び登場。今回はついに100キロに挑戦だそうである。去年72キロに出場し完走を果たしたさきこ曰く「ウルトラマラソンの世界で72キロとはいわばビギナーコース。ビギナーのまま終わらせたくない」とのことで、72キロがビギナーなら、しゅんすけが走る42キロは一体何なんだと思うけど、さきこの世界ではそういうことになっているらしい。
それでも、アイアン豪脚の勢いは収まらず、「富士登山競争の山頂コースに出場する」と言い出したのは、しゅんすけが必死で止めた。富士山の麓から山頂を目指すというほとんどニンゲンの所業ではないレースで、完走率は50%を切り、しかも去年は死亡者まで出たというレースである。去年は五合目のゴールを目指す「五合目コース」に出場したんだけど、さきこ曰く「五合目コースはいわばビギナーコース・・・以下略」だそうな。頼むから止めてくれ。
結局、不承不承で承諾してくれたけど、実はしゅんすけもホントは見てみたいのである。雲の霞の砂礫の斜面をあり得ないほどのスピードで駆け上がってゴールするさきこの姿。
でもね、正直言うと、その姿を見るためには、しゅんすけが山頂で待ってないといけないわけで、過去4度の富士登山でどれもさきこの手助けの中でやっと登頂を果たしたしゅんすけとして自身、さきこがゴールする瞬間に山頂にいることが想像できないんだよね。
そんなわけで、今年は富士登山をやってみよう。
しゅんすけも最後に登った3年前から、心肺機能、脚力の面でかなり向上しているハズである。タバコも辞めたしな。この登山でもし軽く登れちゃうようなことがあったら、その翌年にさきこの富士登山競争を認めてもいいと思っている。きっとしゅんすけは一人でも富士登頂ができるハズで、きっと登ってくるさきこを山頂で待っていることができるハズだからである。

さて、そんなわけで、今年の方針が大きく決まり、あとは細かいイベントをちりばめていくだけである。実は自転車のイベントについては何ら決めていない。来週の自転車仲間との年間計画ミーティング次第なのだけど、今年達成した箱根路の完全踏破バージョンをぜひやってみたいものである。それにはもうちょっと暖かくなるのを待つ必要があるけど。

果たしてどんな1年になるか楽しみである。
| 日記 | 22:53 | comments(0) | -
さよなら、チンク。
チンクとの別れを決め、新しいクルマを迎え入れ、新年を迎えた今日、今さら的な感じが否めないのだが、ついにチンク屋にチンクを引き渡す日が来た。これまでの間、マンションの暗い車庫の中で眠っていたチンク。もはや虫の息とさえ言われたチンクのラストドライブが始まるのである。

チンクに乗り込み、エンジンをかける。
虫の息だったうえに、2週間もエンジンをかけないで放置状態だったため、ただでさえかかりにくいエンジンがさらにいっそうかかりにくい。何度かイグニッションを引っ張った後、何とかエンジンがかかったものの、回転数を落とした途端にエンストする状態を騙し騙し車庫から出し、エンジンルームを開けていろいろ調整する。多少の調整で息を吹き返すことがある。今回も混合比を若干イジったために、エンジンが少し安定したようだった。

エンジンが安定してくれたので、チンク屋に向けて出発。
ホントは高速道路を通るルートで行きたかったんだけど、もはや高速道路で80キロを出すことさえままならない状態であり、加えてもしトラブルがあった時の安全性を考えると高速道路はあまりいいルートではなかった。なので、やむを得ず一般道、しかも長く急な坂道がない道路を選択することにした。オソロしいことに自動車保険も切れていたので、万一事故でも起こすと大変な状態だった。エンストしてレッカーされることもままならない状況だったのだ。
しかし、しゅんすけの心配に反して、チンクはラストドライブで素晴らしい走行を見せてくれた。
エンジンをチューニングしたのも奏功してか、エンジンの不安定さはほとんど見せず、快調に走ってくれたのだ。速度はなかなか上がらなかったけど、在りし日のチンクというか、この6年もの歳月を共にした相棒の走りだった。
これはホント嬉しかった。チンクはまだまだ走れる。全然虫の息なんかじゃなくて、ただチューニングがイケなかっただけなのだ。ホント涙が出そうだったよ。チンクとの別れはもはや避けようのないことだけど、それが分かってるからこそ、最後までいつものように走ってくれたと思う。いや、チンクが何かを思うわけないんだけど、ホントに寂しい気持ちだった。ありがとうの気持ちが一杯だった。

チンク屋でチンクを引き渡す。
ショップには当然、何台ものチンクがあって、まるで元の巣に帰ってきた仲間を祝福しているかのようだった。きっとこのショップでエンジンを始め、いろんなパーツが整備されて新しいオーナーに引き取られるのだろう。その方がこのチンクのためになるハズである。遠くイタリアからやってきたチンク。多くのオーナーが彼の中を通り過ぎ、そして今しゅんすけもその過去のオーナーの一人として、彼の思い出になったのである。
またいつかどこかの道路ですれ違うかもしれないね。その時、しゅんすけはチンクに気づくだろうか。そしてチンクはしゅんすけに気づいてくれるだろうか。

 
| 日記 | 22:22 | comments(0) | -
解散・・・しないみたい?
去年はサザンオールスターズが解散するっていうんで、物心ついた頃からのサザンファンなしゅんすけとしてはかなり衝撃な出来事だったんだけど、今日のニュースによるとチャゲ&飛鳥も解散するんだとかで、思わず懐かしくて家の中引っかき回してチャゲアスのCD探したり、それを持って急遽ドライブに出かけたり、某Yo○T○beで動画を探してきたりして、懐かしみつつ名残惜しんだ。とは言え、しゅんすけは誰かさんほどチャゲアスにノメり込んでいたわけではないので、ネットで調べたいろんな曲の中で知らない曲も少なからずあって、サザンほど曲を知っていたわけではないことに気がついた。
でも、知っている曲はしゅんすけの記憶を鮮明に呼び戻し、中学生とか高校生の時代にトリップさせる。いや、時が経つのは早いものである。
それにしても、サザンに続き、チャゲアスまで解散しちゃったら、しゅんすけのノスタルジーなグループはもはやアルフィーくらいしか残ってない・・・と思ったら、どうも誤報???

| 日記 | 01:34 | comments(0) | -
十二人目の少年。
「K−20 怪人二十面相・伝」を見た。
テレビでいろいろ宣伝しているので、気にはなっていたが今日観ることになるとは思ってなかった。ひょんなことからそうなった。
で、しゅんすけが数ある映画、特に宇宙人が地球にやってきて何やら警告するとかいう映画なんか結構興味があったんだけど、それでもこの映画を選んだ理由は、原作者にあった。
北村想氏。
しゅんすけをお芝居の世界に引き込むきっかけになった某戯曲の作者である。大学1年生の頃に、いろんな面で停滞気味だったしゅんすけに、新しい世界、未知の世界、全身に照明の光を浴びて大勢の観客の前に立つという特殊体験を味わわせてくれた芝居、その端緒となったのがこの北村氏の書いた戯曲であった。いや、懐かしーわー。
そんな北村氏の作品が元になっている映画なので、プロットがどうとか、伏線がどうとかそういうツッコミはおそらくないだろうと思っていた。安心して楽しめるだろうと思ってた。それよりもこの映画のために書き起こされた脚本や設定、そんな世界観をとにかく観てみたかった。なんせ第二次世界大戦がなかった世界が舞台なのだ。

結論としては、非常に面白い映画であった。良かった、変な宇宙人の映画なぞ観なくて。
ストーリーは全然心配していなかったけど、何よりディティールがスゴい。原作にない設定、第二次世界大戦がなかったら日本はどうなっていたんだろうというちょっと微妙に分かりにくい世界観をとても分かりやすく表現していた。こういう設定って、最初に言葉を尽くして理屈でまず分かって貰おうとしちゃうものだけど、細部まで作り込まれた設定とその表現があれば、そういうのはだんだん分かってきちゃうものなんだね。いや、なんか勉強になったわ。

それにしても、「怪人二十面相は誰だ?!」ってコピーはなーんか記憶の片隅に残ってるんだよなーと思ったら、1989年の作品なんだそうな。そう言えば、芝居なんかではこういう面白いコピーを使うよなーと思うにつけ、「沖田総司は女だった」ってコピーを思い出し調べてみると、つかこうへい氏の幕末純情伝も1989年の作品だった。しゅんすけがお芝居を知るずっと前だけど、しゅんすけが芝居をやる頃にそこここで上演されていたように記憶していて、ホントなーんか懐かしーなーと思う宵なのであった。

| 映画鑑賞文 | 23:09 | comments(0) | -
正月は読マンガ。
12月の初め頃から既にオカしくなってたと思う。しゅんすけの趣味嗜好がだんだん変わってきていて、気がつくとある指向性を持つベクトルに収斂してきて、それが世間的に言うと主に秋葉原に多く存在すると言われるソレになりつつあって、さきこがしゅんすけを見る目つきがだんだん変わってきたことよりも何よりもしゅんすけ自身がその傾向を気に病んできたわけであるが、しゅんすけに巣くうもう一人の自我はしゅんすけの表層人格が憂鬱に思う事態を気にとめることもなく、まさに我が道をゆくというか我関せずというか、このまま別人格になっちゃうとそれはそれで困るけど、もっと困るのはこの人格が今のしゅんすけの表層人格と入れ替わってしまうことである。
しゅんすけの内面に誕生したこの潜在人格は、その独特な趣味嗜好の赴くまま行動し、しゅんすけがうっかりしてると、某通販サイトで○○○をサイト上の買い物カゴに投入していたり、家族サービスで出かけた某地方都市の某リサイクルショップ(・・・って書くと健全な感じだけど、ゲームとかマンガとかいわゆるソレ系なリサイクルショップである)で時間を忘れて○○○していたり、しゅんすけをほとんどあやつり人形的に翻弄するんだけど、この正月休みの退屈で停滞した時間感覚の中で、さらにその勢力を広げ、しゅんすけの貴重な時間帯をそのマンガ的読書に浪費させたのである。そんな潜在人格に翻弄されて読破したマンガ的書籍はここ数日で3冊に突入。家族サービスしたりドライブしたり姪のゆうかと甥のかずきとじゃれ合ったりサイクリングに行ったりしながらの中、である。正直に言えば、4日で2冊ペース、イカン、本当に○○○に乗っ取られてしまうではないか。明日から仕事だと言うのに・・・と溜息を禁じ得ない。
このブラックホール的引力と共に年末年始休暇中に消失したしゅんすけの日常は戻ってくるのだろうか。
※この文章を読むと、しゅんすけ以上にどっぷり○○○に浸かってしまっている真性の○○○な方々には何のことか分かってしまうだろうし、その単語たちが分かってしまっちゃった人は気をつけた方がいいかもしれない。
| 日記 | 13:40 | comments(0) | -
夢想の地平面
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