最近あまりにも本を読まない自分が嫌になるのだが、考えてみるとかつての唯一の読書タイムである通勤時間では、ほとんど電車で寝ているか携帯電話でダウンロードしたゲームなぞをやっている。このゲームは、去年の1月に某金管バンドの練習の際に、酷い降雪に遭い、全く積もってなかった練習前からたったの3時間でクルマでの走行が完全に不可能になるほどの積雪となり、やむを得ず電車で帰ることにし、翌日これが嘘のようなピーカンの陽差しで積雪は完全に蒸発、あれはタヌキかなんかに騙されたのかと訝りつつクルマを取りに行ったんだけど、あろうことか2時間もかけて辿り着いた練習場でクルマの鍵を忘れてきたことに気づき、泣く泣く引き返し、再び練習場を訪れ、何ゆえ週末の2日間で3回も同じ練習場に来にゃならんのかと大事な休日を台無しにした自分のおバカを心底呪いつつ、この日2回目の坂道を上っている最中に、余りにも手持ち無沙汰だったために思わず携帯電話でゲームをダウンロードしちゃったんだけど、これが大して面白くもないくせになかなか抜け出せなくて、空いている時間があるとついつい手が伸びることになって、気がつくと1年近くやり込んでいることに気づき、これではいけない、何でもいいから本を読まねばならないと手にとってしまったのが、このライトノベルだったというわけである。何の知的利益もない、しかも月額料だけはしっかりと徴収されてしまうケータイゲームよりも幾分はマシだというわけである。
そんなわけでライトノベルを読んだのだが、ノベルって言ってもほとんど高校生とかが読む漫画みたいなものである。買うのが恥ずかしくてしょうがなかった。コンビニで大人が買うようなソレ系の本を買うのは何ら恥ずかしくないけど(だって大人だから)、この歳になって高校生が買うような本を本屋で買うのはホント恥ずかしい。思わず関係ない本を上下でサンドイッチして買っちゃったよ、エロ本か?!あるいは「私は出版社に勤めており、日々こうして本屋で書籍の人気度をリサーチしているノデス」的な設定の小芝居を打たないと買えない。しかし、今回の本はしゅんすけのココロに引っかかるナニかがあった。恥ずかしい思いをしても買わずにいられないナニかがあったのである。
さて、何がしゅんすけのココロに引っかかったかっていうと、この物語で出てくる独特な設定、例えば宇宙人がいるとしてそれはどういう形で存在するのかとか、時間移動が可能だとしてそれはどんな理論に裏付けされているのかとかそういう設定なのである。
別に本編よりも設定の方に興味があるってことではないし、本編だってかなり面白い。やはり世の中の○○的な方々の支持を得るのだからそれなりにいい作品なんだろうな。同様に○○的な方々の支持を集めた汎用人型決戦兵器の某人造人間が登場する作品も、なかなか面白い作品であった。こんな○○的な作品ばかり観ているとしゅんすけも○○的になってしまうのではないかと危惧するも、自分の嗜好に正直になってなぜ悪いという半ば開き直りな感情もなくはなく、そう思うにつけ、ちょっと性癖なアレなおじさんとかがいるけど、彼らのアレな性癖はどういう経緯で発現してしまったのかと言えば、もしかしたら今のしゅんすけと同じである時ふと自分の嗜好に正直であるべきと思うに至ったからなのかと思うわけで、そうであれば遠からぬ将来にしゅんすけがアレ的なおじさんになってしまう図が思い浮かばないこともないわけで、いやそりゃさすがにマズいと思うわけである。だから、今回の読書感想文は書名については一切明記しないつもりである。うっかり書名を書いてしまったり、あまりにも分かりやすいヒントが書かれていたとしても、ぜひスルーして欲しいし、ゆめゆめしゅんすけのことをアレ的なおじさんと思わないように欲しいものである。そう、しゅんすけはあくまでおじさんではない・・・いやアレ的ではないのだ。
さて、しゅんすけがおじさんなのかアレ的なのかは別として、この本の中身は前述のとおりなかなか秀逸であり、プロットや文体がしっかりしてて読みやすいことに加え、特にその背景となる設定の理論がしゅんすけの琴線を激しく弾いたわけである。今回の読書感想文は、この裏設定の理論、その中でも時間移動に関する理論について、しゅんすけが激しく琴線を弾かれたことを書くことにする。
時間移動って、タイムスリップとかタイムトラベルとか言うけど、SFとしてはかなり古い小道具にもかかわらず、一向に実現の様子が見えないばかりか、その理論的背景さえも確立していない。100年もの歴史のある夢が未だこんな状況だなんて、そっちの方が驚きなんだけど、とにかく現実世界ではどうやって時間移動するのか、そもそも時間移動はできるのかさえまだ分かっていないのである。ま、だからこそ、フィクションの世界では勉強机の引き出しの中がタイムトンネルになってるとかラベンダーの香りを嗅ぐと云々とか設定で遊べるわけだけどね。
でも、この作品の中で登場する時間移動の理論は、非常によくできていると思う。少なくとも勉強机の引き出しを開けてタイムマシンに乗り込むよりは理に適っていると思う。
その理論とは、時間平面論というそうな。
しゅんすけもよく分かってないし、本気で○○的な方々からツッコミをいただくのも嫌なので、さらっと書くけど、時間とは川の流れのような絶え間ないものではなく、静止した瞬間の膨大な集積である、とのことである。いわゆるパラパラマンガのようなもので、一枚ごとの絵は静止しているけどこれをパラパラすることで動いているように見える。時間とはまさにそういう平面の集積であるという理論なんだそうな。そして時間移動とはこのパラパラマンガのある絵(ページ)から別の絵(ページ)にジャンプすることであり、つまりパラパラマンガを飛び出して立体的(3次元的)に移動するとも説明できる。ある時間にジャンプすると、その時間の人には突如その場に現われたように思えるわけだ。う〜ん、この時間がパラパラマンガのようなものだという説明やこれを立体的(3次元的)に飛び越えるという説明は、説明としてはなかなか分かりやすいと思う。
さて、ここでしゅんすけが気づく。
パラパラマンガに例えているが、この説明では分かりやすくするために一貫して次元を1つ落としている。つまり、パラパラマンガで表現される現実世界は3次元(立体)である。立体的パラパラマンガと言ってもいい。そして、上の説明でパラパラマンガを立体的(3次元的)に飛び越えると書いた時間移動の方法も実は3+1次元的な方法、つまり4次元的方法と言えるわけである。
説明を簡単にするために次元を1つ落とすというのは、トポロジーのお話しで一度書いている。(2003.07.26Saturday「四次元へのイザナイ。」)
この時に書いた話しとは、例えばこういう話しである。相同ではあるが合同ではない平面図形や立体図形を合同にするには、その図形よりも1次元高い次元の世界でないとできない。つまり平面図形であれば3次元世界、立体図形であれば4次元世界でないとできないわけで、手のひらや耳たぶは同じような形(相同)だけど完全に重ね合わせるためには4次元世界でないとできないわけである。でも、果たして手のひらや耳たぶを重ね合わせられる4次元の世界とはどんな世界なのか。縦・横・高さにあともう一つの座標が加われば4次元になるわけだけど、この加えられる次元とは一体何か?
この4次元に向かう最後の座標は「時間T」である、なんて言われるそうだけど、しゅんすけは実感できなかった。なんで時間なのか?時間なら3次元にだって存在している。2次元に存在しない座標「高さ」が3次元への入り口だとすれば、4次元の入り口たる座標は3次元に存在しない何かであるべきではないか。だから、4次元=縦×横×高さ×時間という公式に違和感を覚えていたわけである。
だけど、先ほどの時間平面論で語られる時間移動の方法が、この違和感を解消する。
つまり、時間移動とは2次元世界のパラパラマンガを3次元的に飛び越えるように3次元世界のパラパラマンガを4次元的に飛び越えるわけで、ここで4次元という概念と時間が結びつくのである。
4次元=縦×横×高さ×時間という違和感な公式と時間平面論による時間移動。このふたつの接続がしゅんすけの違和感を霧散させた。
そうか、時間移動とは4次元的なもので、それは断続的な時間と時間の隙間を飛び越えることだったのだ。
・・・うん、すっごく分かりにくい文章である。ここまでつらつらと書いてきたけど、どうしてもしゅんすけが独りよがりで納得している感は払拭できず、これが独りよがりの域を出ないのだとすれば、それはしゅんすけの文章力の低さにのみ起因していて、ホントだったらしゅんすけは「ユーリカ!」とか叫んでスッポンポンで走り出すくらいに納得したのである。ま、この「やったー!」感は少なくとも共有したいものである。
そんなわけで、読み始めたら止まらないこの本だけど、そうは言っても8巻を3週間で読むという高速読書では、さすがにそろそろ食傷気味になってきた。
やはり漫画的な側面から脱却できてないからなのかどうなのか。
でも、この本によって、今まで蓄積してきた知見が脳みその外側で初めて有機的に結合した感じがする。なんて言うかな、今まで入力オンリーだった情報を出力して、しかも他の情報と結合させて新しい知見を得たというか。そうだね、勉強ってこういうものだよね。脳みその中に蓄えた情報を脳みその外側で紡ぐのが楽しいんだよね。
今回の本は蚕から得た生糸を紡いで糸にするような本であった。生糸ばかり蓄えてもしょうがないよね。
さて次の本は、知見を紡ぐ本か、それとも生糸を蓄える本か。