セミがうるさい季節になった。
朝の通勤時、自宅から最寄の駅まで向かう間に、学校の校庭に接した道があって、フェンス越しにだだっ広い校庭が見える。フェンスの内側、つまり校庭側には植木が植えられていて、またフェンスの外側、つまり道側には街路樹が植えられているから、フェンスの両脇に植木や樹木が並んでいる感じになっている。ちなみにこの道の反対側も学校になっていて、こちら側は学校の裏側、駐車場とかがあるんだけど、ここには大きな桜の木が植えられていて、春には素晴らしい桜の花が咲き誇るんだけど、今や葉桜を賑わすのは桜の花ではなくセミ時雨である。まさにセミ時雨ストリートな感である。そして夜になるとセミたちの饗宴は一旦終息する。たまに木から飛び立つセミがジジッと鳴き声を発したりするけど、基本的には夜にセミの声を聞くことはない。しかし、そんな静かな夜でも、セミたちの息遣いはひっそりと、でもたしかに存在している。それは校庭と道を隔てるフェンスが舞台となる。
このフェンスは校庭側の植木と道側の街路樹に挟まれるようになっていて、夜な夜なセミの幼虫たちがこのフェンスを登って羽化をするのである。鉄線が網目に組まれたフェンスの方が羽化するために地上に出てくるセミの幼虫たちにとって、ちょうど良い足がかりなのかもしれない。多い時にはこのフェンスに5匹くらいのセミの羽化が繰り広げられている時がある。街灯の灯りが届かないちょっと暗めになったフェンスにぼぉぅっと白いものが浮かび上がっていて、よく見ると羽化したばかりのセミの成虫なのである。この光景を見るにつけ、命のしたたかさというか力強さを感じる。今では慣れたけど、最初に見た時は圧倒されたもんな。でもこのセミがあの鬱陶しいセミ時雨になり、そしてその生涯の終わりにはマンションの通路とかに転がって死んでいるのかと思えばいきなりジジジジーッとか言って飛び上がってしゅんすけを驚かせるようになることを思うと、この幻想的な光景もちょっと複雑な気持ちになるのである。
そんなセミについて、この前クルマでラジオから聴こえた話しに思わずツッコミを入れざるを得ないことがあった。
ラジオでは男性と女性のパーソナリティがどこぞの先生を招いて、地球環境の保全について話しをしていた。話しの展開としては、生命の多様性を維持するため今の地球環境を少しでも守っていこう的なもので、まあよくある話しである。そしてこの「生命の多様性」について話しがおよんだ際にその例として出てきたのがセミの話しである。アメリカに生息するそのセミは幼虫期を終えて成虫になる羽化までの期間が、13年の種と17年の種の2種類存在していて、それぞれ「ジュウサンネンゼミ」「ジュウナナネンゼミ」と言うそうな。(便宜上「13年ゼミ」「17年ゼミ」と書く)
幼虫期が13年とか17年とかって、普通のセミが5年くらいであるのに比べてかなり長いんだけど、この長さの理由はまだ判然としていない。またほとんど生息地が同じ13年ゼミと17年ゼミがなぜ幼虫時代の年数を13と17にしたのかもハッキリとは分かっていない。でも、13年とか17年などという昆虫にしてはかなり長い時間を選択したのにはかなり強い必要性があったと考えるのが一般的な見解である。なぜなら13と17という数字自体が素数で、その最小公倍数は互いを乗じた221となり、つまり両者が同じ年に羽化するのは221年に一回だからである。それほどまで同時に羽化するタイミングをズラしたい必要性は何なのか、しかも他の数字と異なり素数が同じ倍数を持つのは互いを掛け合わせた場合のみという素数の性質を知っているかのような生態が、近年いろんな本で話題になるネタである。
ラジオで物知り的な先生が得意気に話していた内容としては、この2種のセミは他のセミと同じく大昔は幼虫期が5年とか6年の種だったんだけど、何らかの理由で幼虫期を長くする必要が生じ、これが徐々に長くなり、ついには13年と17年という年数を獲得したというわけである・・・ということなんだけど、これには物凄い違和感を感じた。少なくともこの説は最近の主流ではないハズである。正しくない見解を公共の電波に乗せちゃっていいのか、それともこれを聴いているであろうドライブ中のカップル、しかも長いドライブに疲れて話す話題も尽きかけてちょっと口数の減ったカップルの会話のきっかけになるようわざとツッコミやすいネタを流したのか・・・ってか、そんな意図はあまりにも分かりにく過ぎである。
ラジオ局の意図はともかく、セミの幼虫期の期間が徐々に伸長していったという説には、進化論の立場で当初から問題が指摘されていた。それは13年とか17年もの長い幼虫期を獲得するまでは、10年とか11年とか12年の幼虫期が進化の途上にあったとする点である。この考え方は前述したような同時期の羽化を避けたいという非常に強い必要性との関係で矛盾を生じるのだ。
試しにエクセルでマトリクスを作ってみたら、さらによく分かった。13と17の最小公倍数は221で確かに縦1〜13・横1〜17のマトリクスの範囲内ではもっとも大きい値になった。だから羽化の時期をズラしたい必要性がとても高ければ、進化の途上で13と17を選択するのがもっとも合理的である。しかしこのマトリクスを見てみると、12と17だって最小公倍数が204となり結構いいセン行ってるのだ。また13と16だって208だから同時に羽化するタイミングは208年に一度ということになり、これも結構大きな数字である。しかも12・17や13・16の組み合わせは、13年ゼミ・17年ゼミと比べて片方が1年少ないわけで、徐々に進化したとの説を採るのなら必ず通過したハズの年数である。なぜ13・16、12・17の組み合わせではなく、13・17の組み合わせに落ち着いたのか。または同時羽化を回避したい年数=221年(13・17)に204年(12・17)、208年(13・16)を凌駕する特別な意味があるのだろうか。しゅんすけでさえ200年を越える年数を実感することは難しいのに、もっと寿命の短い昆虫風情に200年を越えるサイクルの生態的必要性があるとも思えない。そう考えると、幼虫期の年数が進化の過程で徐々に伸長していったという考えは無理があると言えるのだ。
ではどのような進化過程であれば無理がないかというと、以下の2つが考えられる。ひとつはもともと何種類もあった幼虫期の年数が環境変化によって淘汰され、13年ゼミと17年ゼミが生き残ったという考え方。たとえば極端な話し、もともとは1年、2年・・・20年くらいまでの幼虫期年数のラインナップがあって、突如発生した致死性の寄生虫や地上の環境変化(寒冷化とかね)など影響でたまたま13年ゼミと17年ゼミが生き残ったというストーリーである。寄生虫の発生サイクルがちょうど211年で一巡するから、これにバッティングしないためとする言う人もいる。
もうひとつは、それまでの比較的短い幼虫期の種から突然変異により13年ゼミと17年ゼミが誕生したとするストーリーである。今まで5年くらいで成虫になっていたセミがいきなり13年も幼虫期を過ごすセミを生むかどうか怪しくて、まさに「トンビがタカを生む」ような話しだけど、最近の進化論ではあり得る話しとして見直されているんだそうな。逆に「進化とは徐々にゆっくり進行するものだ」とする考え方自体が少数派になりつつある。キリンの首はゆっくり伸びたとすれば、なぜ「中くらいに長い首を持つキリン」の化石が発見されないのか。ゾウの鼻も然りである。首の短い原始キリンから突如として首の長いキリンが生まれるというのは想像しにくいかもしれないし、そういう個体が同時多発的に発生するのかと思うけど、形態として発現しないような遺伝子レベルで変異が長い時間をかけて蓄積していき、環境の変化などの何らかの引き金によって一気に変異が発現すると想定すれば、このストーリーも充分に実現可能性があると思うし、逆にひとつめのストーリーよりもあり得そうにさえ思われる。こちらの考え方は、進化の漸進性(ゆっくり少しずつ進む)を否定しているので、ニンゲンのようないきなり高度な知能を持つ生物の発生も説明ができることになる。たとえばニンゲンの脳みそなんか数十万年前からほとんどその大きさや構造が変わっていないのに、知能レベルは物凄い進歩を遂げている。石器時代のニンゲンは、今こうしてコンピュータを操っているニンゲンとほとんど変わらない脳みそを持っていたのである。そんな脳みそという進化上の産物が類人猿の進化の途上でいきなり登場したのはなぜかという疑問が生じ、これは漸進進化の考えでは説明できないのである。「進化の飛躍」という考え方が支持される理由はこの辺にもあるのだ。
進化論とは実験や観察ができない科学なわけだから、結局のところ、セミの幼虫期が13年と17年なのかという命題には確かな結論が出ないんだけど、進化の飛躍という考え方がこのナゾを少しだけ明るくしているのは確かである。
そんなわけで、今回のセミの話しもこの先生は進化の漸進性を未だに信奉している感じがして、違和感を感じたのである。このラジオ、数年前にミトコンドリアDNAに関するニュースでも思いっきり間違った話しをしていたから、あまり科学に関するニュースには詳しくないのかもしれないね。
こんなラジオを聴いた翌朝、この日も暑い中家を出て会社に向かう中、生命の力強さを感じさせたセミの羽化ストリートには既に翼を広げて飛び立って主を失ったセミの幼虫の抜け殻がフェンスにぶら下がり、風もないのにゆらゆら揺れている。このケタタマしいセミの鳴き声のどれかが、この抜け殻の主なんだと思い、彼らの短い夏を少しだけ応援したくなったのだった。