「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
重いアルバム。
京都チャレンジのことばかりで恐縮だけど、昨日は撮影した写真を現像することにした。
最近街中にあるケータイやデジカメの写真を自身でプリントするサービス。メディアを直接機械に差し込んで読み込んで写真を選択するだけで、いわゆる紙焼きの写真がプリントアウトされるなんて、便利になったものだ。写真屋さんに現像に出して2、3日待つなんて、前世紀的というか昭和的な牧歌的な匂いがするもんな。
ところで今回の京都チャレンジで撮影した写真の枚数は、実はパソコンにバックアップする際には数えていなくて、今回現像用のプリンタにメディアを挿入して分かったんだけど、実に498枚に及ぶ。いやスゴい。もちろん同じアングルで撮影したり、失敗したものもあるから全て現像するわけじゃないけど、この中から取捨選択して果たして何枚になるか。
それで実際に機械の前で写真を選択してみると、234枚ほどになってしまった。いや実際はプリントした後にふと思い立って数枚の追加プリントをしたから240枚ほどにはなっただろう。金額にして7千円以上。まあこれほどの冒険はこれから先は二度とないだろうことを考えると、それだけ出費する価値はあるかな。
しかもプリントした写真はアルバムに収納するわけで、このアルバムを買うのに3千円ほどかかっちゃった。
つまり京都チャレンジの写真を現像して保存するだけで1万円ものお金がかかっちゃったことになる。たしかにそれだけの価値のある冒険をしたと思うけど、あまり写真を現像しないしゅんすけにはこの金額はちょっと驚きだったな。
それにしても、写真を現像するというのはやはりいいものだ。
現像した実体としての写真を見ると、同じ画像をパソコンの画面で見ている時と違って、撮影した時の雰囲気が浮かび上がってくる。ファインダーには収まり切らなかった風景の広がりみたいのが、写真を見ていると感じられる。たとえば三保の松原で撮った海岸から見る風景はうっすら浮かぶ富士山を中心に右手に海が広がり、左手に清水の街が広がってるんだけど、写真ではその風景はほんの少ししか写っていない。しかし写真で見ると記憶からの補正が入るのか、180度くらい広がった風景が感じられるのだ。波の音や吹き抜ける風もそうである。またニンゲンの視覚の特性で、物凄く小さく写っているものでも、瞬時にフォーカスすることができる。大きさにして数ミリ程度のものだけど、富士山が写ってるだけで、印象ががらっと変わったりするのだ。やはり写真はちゃんと現像した方がいいと思う。
現像した写真は台紙に差し込んで専用のバインダーでまとめた。せっかくなので写真の説明文なんかも入れてたら、この作業だけで夜遅くなってしまったけど、しゅんすけにとってはまさに京都チャレンジを追体験するような貴重な作業だった。終わったらヘトヘトになっちゃったよ。完成したばかりのアルバムを見たさきこも、しゅんすけが言葉では語り尽くせなかった京都チャレンジの細部(の一部)を知ることができたと思う。あとは写真でも語れない部分を文章で記していくのみである。この作業も結構大変そうだなあ。
そんなわけで、いずれにしてもアルバムは完成である。
時価1万円の費用をかけた、プライスレスの写真を詰め込んだアルバムである。いろんな意味で重いアルバムである。
| 日記 | 09:51 | comments(0) | -
道路上での自転車という存在。
最近の自転車ブームとこれに伴って多くなってきた交通事故を防止するために、東京を中心に自転車の安全走行を推進する動きが広まっている。もともと自転車は法律では軽車両として記載があるものの、実態としては車道を走ったり歩道を走ったり、歩行者と同じ信号や横断歩道に従ったりと結構曖昧な感じで、ロードバイクを乗るしゅんすけとしてはこの曖昧さが逆に危険なんじゃないかと常々思っていたところだった。自転車が車道を逆走(右側走行)するのは非常に危険なのに乗ってる本人はこれが実は安全なんだとすら思ってるっぽいのはオソロシイ限りである。この他にも、携帯電話を見ながらとかウォークマンを聴きながらとか、信号無視、無灯火などがよく見られるわけで、だから今回のような安全推進、要は取り締まりの強化なんだけど、そういうのは悪くない話しだと思っていた。
(関西圏では雨の日でも傘を差しながら自転車に乗る。これは片手運転で危ないからってことで、ハンドル部に傘を固定する器具なんかもあるようだ。先週の雨の京都ではそういう自転車を何台も見かけた。そもそも雨の日に自転車乗るって感覚がスゴい)
しかし、である。なんか、ちょっと微妙に座り心地の悪い気分なのである。
今回のような行政の対応は、路上の自転車の存在が目に余るようになってきたからなわけで、つまり自転車が社会問題化した結果である。社会問題化した事象への「規制」というちょっとネガティブなアプローチが気になるのである。特に自転車は法律と実態の合間で曖昧な存在であり、そこに強力な規制がかかることで、変なアツレキを生まないか心配なのだ。たとえば、車道の左側端を走行することにしても、これを強行しちゃってママチャリや子供が乗る自転車は大丈夫なのか?とか自転車が車道を走るようになったら逆に道路渋滞を助長しないか?とかね。特に今まで歩道をフラフラと走っていたママチャリが車道を走るようになるのは非常に危険なんじゃないかと思うわけである。法律に書いてあるからってある日突然それを振りかざすってのもどうかと思うわけよ。だからしゅんすけがこのニュースに触れた時は、良かったなーという思いよりもこう思った。「一番最悪な展開になってしまった」と。
しゅんすけはこの問題については、もっとやんわりした感じでアプローチすべきだと以前から思っていた。それぞれの危険な乗り方は、法律で規制される「違法行為」ではなくて、「マナー違反」なんだというアプローチである。
最近はマナーに関するテレビCMも増えている。マナーとは違うかもだけど、「心は見えなくても心遣いは見える」とか言われちゃうと、思わず席を譲っちゃったりするもんな。そもそも車道を逆走して「この方が実は安全なのだ」なんて勘違いしてる人には、まずはこういうアプローチが良かったんじゃないかと思うのだ。なぜこういうアプローチがないのかね。
もしかしたら道路を安全に自転車が通行することになると困る勢力がいるのかもしれない。道路は自転車ではなく自動車が走るべきだという勢力は、自動車製造やら道路建設やらの分野で大きな利権を持っているから、その利権を脅かすような自転車が増えてくるのを良く思っていないのかもしれない。この勢力って政治も巻き込んで相当強い力を持ってるから、これに対抗するのは大変なことである。
そう思うにつけ、もしかして?と思い当たるのが、先日テレビで特集していた「ピストバイクの危険な走行」についての放送である。駆動部分と直接連動した固定ギアを持つっ競輪用自転車、ピストバイクは、その構造のシンプルさを更に追究してブレーキ器具を装備しないものがあるそうで、テレビではそれが街中で非常に危険だというのである。たしかにブレーキ器具のないピストバイクはピストバイク独自の安全な停車方法があったとしても、やはり危険だと思う。それにしても、なぜピストバイクなのかとも思う。ピストバイクが走ってるのは、いわゆるオシャレな街中であって、それは日本の中では極々一部の狭い地域なのである。しかしこういった特集を全国放送していれば、形が似ているロードバイクが誤解を受けるのはほとんど必然である。しゅんすけが実際に見たワケじゃないけど、某新聞でも同様に取り上げられたピストバイクの特徴の説明では、「ハンドルが曲がってる」とか「タイヤが細い」などの記述もあって、これってロードバイクだって当てはまるわけだから、実際にピストバイクを見たことがないシロウトの人はこの危険な乗り物をロードバイクと混同しちゃうんじゃないかと思うのである。しゅんすけが京都チャレンジを終えて職場に復帰した時も、しゅんすけが自転車に乗ってることを初めて知った人は「ちゃんとブレーキ付いてるの?」って聞くもんな。マスコミがピストバイクをこうしてヤリ玉にあげるのは実は別に理由があるのではないか。もしかして?と思うのは、それが自転車に流行されると困る勢力による最近流行してきたロードバイクを牽制するネガティブキャンペーンの臭いがするからである。
彼らは車道を走るロードバイクが増えることは道路を取り巻く利権が脅かされることだとする論理から、自転車が危険であることを暗示するように誘導してるような気がするのだ。今回の自転車への取り締まりの強化も、車道を走るロードバイクが取り締まられる可能性のあるものだという暗示をかけているようにも思えて、つまりロードバイクを始めようという人たちの気持ちを削ぐことに繋がるような気がして、さらに一層座り心地の悪い気分になるのである。
昨今のエコロジーブームというか、二酸化炭素排出量がどうのとか言ってる中で、移動手段としては究極に二酸化炭素の排出量が少ない自転車が変なバイアスを受けるというのは何か釈然としない。ホントに二酸化炭素を少なくしたいと思ってるのかって思う。いや、しゅんすけも自動車に乗るし自転車を手放しで賛美するつもりもないけどね。でもこうした道路行政の利権体質の片鱗を感じたりすると、ホント日本って政治的に成熟してないよなーと思ってしまう。逆に言えば自転車がまったく何の利権も絡んでない産業だということも言えるかもしれない。そう思うにつけ、やはりスゴいなーと思うのは、自転車産業の会社である。
某シ○ノ社は日本では釣り具メーカーとしての認識が高いけど、自転車のギアなんかでは世界で走ってる自転車の半分くらいはこの会社の製品である。また反射板(リフレクター)とか自転車のライトを作ってる某キャッ○アイ社も世界的なシェアを持ってる会社である。どこぞの自動車メーカーのように国からの厚い保護を受けて国内や海外で展開してるのと比較するべくもない。日本は実は自転車立国なんだね。
ホントはね、しゅんすけは前段で言ったような自転車マナーの啓発を、こういう会社にやって欲しかった。マナー啓発によってヨーロッパのように日本でも自転車が安全に走れるようになれば日本でも自転車が大きく売れると思うし、会社にとってもいいことだと思うんだけどね。でもそういう動きはまったくなかった。そして自転車は社会問題化して行政の規制の対象になってしまった。これを思うと非常に残念な気持ちになる。あぁついに最後のチャンスも逸してしまった・・・と。そしてこのネガティブなムーブメントはこれからも続くんだと思う。自転車を取り巻く環境は今までの静寂を破って今まさに大きく変わろうとしている。行政や産業や流行の動向がこれからどういう動きを見せていくのか。それは自転車という存在が道路においてどういう存在かを知るだけでなく、国においてどういう存在なのかを知ることにも繋がると思うのである。
| 自転車日記 | 08:47 | comments(0) | -
京都チャレンジ後日談。
イカン、京都チャレンジから帰ってきて結構時間が経っちゃったのに何もブログにアップしなかった。
先週は木曜日に京都・三条大橋に到着し、前夜に深夜バスで京都に到着したさきこと合流、しゅんすけのビッグチャレンジはここにそのフィナーレを迎えることになったわけである。その翌日はちょろっと京都観光なぞして、しかしあいにくの雨で念願の京都市街サイクリングはできず、午後になって濡れそぼった相棒のこてつ号をたたんで新幹線に乗り込んだ。1週間ぶりの横浜の風景はやはり懐かしく、徐々に達成感も出てきたりした。「冒険は帰還してこそ冒険たりえる」の言葉のとおり、しゅんすけは自宅に到着し無事にその冒険を終えたのである。
さて、650キロもの距離を走り切ったしゅんすけの脚はさすがに疲労が蓄積されていて、筋肉痛がひどい状態だった。でも実は筋肉痛自体は京都チャレンジの3日目(箱根超えの翌日)から出てきていて、だからその後の行程は筋肉痛の状態でペダルを回し続けることになって、しかも一度自転車に乗ってしまえばほとんど筋肉痛は気にならなかったことを考えると、筋肉は疲労していてもまだまだ筋力は残っている状態だったと言える。もちろん筋肉痛には違いないので、痛いし脚に力が入らなかったりはするんだけどね。
久し振りに会社に出社したけど、同僚は暖かく迎えてくれた。しゅんすけの不在中に仕事上の問題はほとんど起こらなくて、しゅんすけが休むとなぜか問題が発生するジンクス、しかもそれはしゅんすけの怠慢に起因したものとかじゃなく偶発的なもので、まさにそれはミステリーとしか言えなかったんだけど、いずれにしても今回はそのジンクスを撥ね退け、大きな問題もなく会社に復帰できた次第である。しゅんすけが長期休暇に入ることは同僚はもちろん、取引先にも伝えていたことなので、気を遣って問題が起こらないようにしてくれてたのかもしれないけど、つまり言い換えれば、しゅんすけの京都チャレンジを知ってる人は結構いたわけで、だからしゅんすけが会社に行くとホントいろんな人から労いの言葉をいただいた。廊下ですれ違うたびに「京都、どうでした?」と聞かれるのは、いや、これはとても嬉しかったわ。
今回のチャレンジについては、例によってホームページの方に紀行文を書こうかと思っているので、道中のエピソードはブログではあまり書かないようにしたいんだけど、後日談につながる話しとして、iPhoneの話しがある。
実は道中、iPhoneを落としてディスプレイのガラスを割ってしまったのである。それはもう見事にコナゴナにヒビが入ってしまい、でも幸いiPhoneの機能には支障がなくて、帰宅後もしばらくその状態で使ったりしてたんでど、画面は見にくいし、指でタッチしてるとガラスの細かい破片が指先に付いていることもあって、これでうっかり目なんかこすっちゃったら大変だってことで、修理をすることにした。iPhoneの修理はどうもアップルでは受け付けてなくて、そういったノウハウを持つ市井の業者が引き受けてくれる。今回は仕事上付き合いのあった某ソフトバンクの営業さんに聞いて、近くて安い修理業者を紹介してもらった。そこは8500円でガラスの交換をしてくれるところだそうで、その金額にはちょっと悩んじゃうところがあったけど、背に腹は代えられず已む無く修理することにした。表参道から細い路地を入った奥にあるその業者はたった40分でしゅんすけのiPhoneのガラスを交換して、新しくしてくれた。iPhoneの破損からほとんど1週間後経ったその日、再びiPhoneのガラスはその輝きを取り戻したのである。ところでどうしてiPhoneを割っちゃったのかは、後日記載の紀行文にて。
そんなわけで、今のしゅんすけはいつもの状態に完全に復帰している。京都チャレンジのあのわくわく感やドキドキ感を思い起こしつつ、紀行文はどういう風に書こうかとうきうきしつつ、次はどこへ行こうかと密かに考えていたりするのである。
| 自転車日記 | 13:45 | comments(0) | -
東海道走破!
今年最大・・・というか、ここ最近の中で最大というか、ほとんど人生最大の挑戦になった京都チャレンジから昨日帰宅した。
事故もなく無事に京都まで走破でき、今回の挑戦を終えることができた。
某ツイッ○ーとか某SNS、メールで応援してくれた方々に非常に感謝している。またこの歳になってワガママな挑戦を理解してくれ、精神的にも物的にも金銭的にも支えてくれたさきこにも大大大感謝である。
今はとにかく疲労回復が最優先である・・・が、今日はいきなり会社の同僚の結婚式のために出かけないといけないんだけどね。
ところでほとんど1週間ほど普通の生活から離れていてパソコンなんか触ってなかったからか、キーボード入力が全然ダメになってる。これは社会復帰に時間がかかりそうダゾ。

| 自転車日記 | 08:33 | comments(0) | -
林檎の夢の残滓。
今日から京都チャレンジである。今日は日本橋から横浜まで帰ってくるだけの40キロ程度のサイクリングで、ほとんど足慣らしで終わってしまった。京都チャレンジのことは終わってからちゃんと記録として記事を書こうかなと思っているので、今日はそのことに触れないんだけど、今日のサイクリングで日本橋からスタートして銀座通りを通っている時にふと見たら、アップルストアに多くの人だかりができていたのが気になった。先日アップル社の創始者スティーヴ・ジョブズ氏が逝去したそうで、多くの人が店先に花を手向けていた。しゅんすけはアップルユーザーではないんだけど、スティーヴ・ジョブズ氏の功績はウィンドウズユーザーとかアップルユーザーとかを超越して、パーソナルコンピュータをここまで普及させたという偉大なものなので、哀悼の思いでしゅんすけもふらっと店先まで行ってみたのだ。
たくさんの花が手向けられ、その中には彼の肖像とか囓られた林檎とかも置かれていた。こういう風景が世界中で見られるんだろうなと思うにつけ、やはりスゴい人だったんだなと改めて思う。
コンピュータがこうして身近な存在になった理由のひとつが、マッキントッシュ・コンピュータの普及だと思うし、しゅんすけがこうしてパソコンの画面に向かってカチャカチャやってる風景も元々はマッキントッシュに繋がってると思うんだよね。そう思うにつけ思い出されるのは、初めてパソコンに出会った時のことである。それは旧友・きむらくんの自宅にあった、かなり初期のマッキントッシュだ。画面に現われるカラフルな画像や自分で動かしたとおりに画面上で動いてくれるマウスなど、今や当然過ぎて言われないことだけど、当時はそれだけで声を上げてしまうほどに物凄く感動したものである。特にペイントツールでは、マウスが動いたとおりに線や図形が描かれ、指定した色が塗られたりして、ただただ感動していたのを覚えている。大きな感動に反して小学生でも描かないような幼稚な絵を画面に描いて、「これは芸術だからぜひ保存しておいて欲しい」ときむらくんにお願いしたものだ。
しゅんすけのこの感動は、画面上の任意の位置でクリックすることでコマンドが実行される「GUI(グラフィックユーザーインターフェイス)」がその源泉になっている。つまり、しゅんすけのパソコンライフの始まりにはGUIがあり、それはつまりGUIを商用として初めて普及させたマッキントッシュがその象徴ということになる。
今はパソコンとしてアップル製品を使うことはないのだけど、それでもしゅんすけの人生の中で大きな位置にあるのがマッキントッシュであり、だからこそこれを開発して世の中に普及させた巨人スティーヴ・ジョブズ氏には大いに感謝すると共にその死に対して哀悼の意を表するのである。
また、スティーヴ・ジョブズ氏がアップル社に復帰した以降は、驚くべき斬新なIT商品が次々と発表され、そのどれもが大ヒットになったのは、ホントにスゴいなと思う。iMacとかiBook辺りはさほどの驚きでもなかったけど、iPodが出た時にゃかなり驚いた。いわゆるウォークマン的な機器は、再生機と音楽を落とし込む媒体が別々に存在するのがカセットテープ以来の常識だったから、あんなちっこいマッチ箱みたいなものに何千曲も入るなんて、ホント衝撃だった。しかしさらに驚いたのがiPodtouchだった。いわゆるPDA的な機器としてはマーケットは成熟していた感があったし、そもそも日本人はPDAはあまりウケないという市場の声もあった中、音楽のポータブルプレイヤーとしての側面からアプローチして見事に成功したし、さらに進化したiPhoneではこれに電話を付けちゃうというウルトラ技を展開、さらにiPadに至ってはあまりにもぶっ飛んだ商品過ぎて最初はどう反応していいか分からないほどだったもんな。そんなiPhone、iPadが今や物凄い流行になってるんだからね。今でこそアンドロイドが出てきて、スマートフォン市場などと言われてるけど、それが市場と言われるほど大きくなる原因となったのは、氏が売り出した小さな箱だったことを思うと感慨深いというかただ感嘆が漏れるのみである。
とにかくニーズがないところに商品やサービスを投下してニーズを作っちゃうところがぶっ飛んでる。新しい商品やサービスがお金になるかどうか分からないのに商品を作り出し、それが新たなニーズ、しかも爆発的に巨大化するニーズを生み出すという、いや日本人では絶対にマネができない芸当である。(いや今度ちゃんと書くと思うけどね、しゅんすけの会社で○○しようとしたら上司が××してそれでも△△だったら結局◇◇しちゃったということがあって、そういうのを見てると、スティーヴ・ジョブズの足下にも及ばないなーと思ったワケよ)
今後アップル社はどうなっていくのか。氏の天才的なヒラメキと商売の才がなくなった今、氏の夢の残滓をコネくり回すようなことにならなきゃいいけど。しかもそれがITの世界での質的な死に繋がらなければいいなと思う。氏の代わりに誰かが発想し、創り出し、売り出すことをしなければ遠くない将来にそういうことがあるかもしれない。そんな世界がどういうものか分からないけど、少なくともしゅんすけが初めてパソコンに触った時のような単純で純粋で無垢な感動というのはITの世界にはもはや望むべくもないのかもしれない。
しゅんすけが初めてパソコンを触った時に得た感動と、斬新な発想への感動。改めてスティーヴ・ジョブズ氏に感謝しご冥福をお祈りするのである。

| 日記 | 23:18 | comments(0) | -
日常と非日常の狭間。
明日からしゅんすけは1週間の休暇に入る。
かねてから書いてきたとおり、この休暇中に京都までサイクリングしてこようと思っている。ついに京都チャレンジが明日に迫ったのである。
それにしても、1週間もの休みってのはしゅんすけにとってはあまり馴染みがない。ゴールデンウイークとか年末年始にそのくらい休みがあったことはあるけど、個人的な休暇としては4年くらい前にハワイに行った以来ではないだろうか。明日から始まる休暇という名の非日常といつものように仕事をする今日までの日常の境目に立ってなんか座り心地の悪い感じである。そして、この日常に戻ってくるのは、すべて京都チャレンジの後である。京都までの道中がどういうものになろうとも、それが何らかの終末を迎えるまで、しゅんすけの日常は戻って来ないのだ。朝起きてスーツを着て家を出て電車に乗って会社に行くといういつもの行為自体が京都チャレンジの前にはもはや二度と体験できないものなのである。次にスーツを着るのも、次に会社でメールチェックするのも、次にこうして自宅のパソコンに向かうのも、すべて京都から帰ってきた後のことだと思うと、なんていうか、感慨深いというか不安というか変な気分である。
あまりにも長く休暇を取るので、取引先には念のため言っておいたんだけど、当然返す言葉で「どこか行かれるんですか?」となるわけで、そうなると「京都まで・・・」「あ〜いいですね〜」「・・・自転車で。」「え?!」って感じになって、結局この話しをしてしまうことになるわけで、最後には「ぜひ頑張ってくださいね!」などと言われてしまったりする。だから会社の人もそうだけど、取引先の人もしゅんすけの京都チャレンジのことは知ってるのである。
また今日はお袋さんからも電話をいただいた。しゅんすけのブログは随時チェックしてくれているようで、いよいよ明日ということでエールをいただいた。これほどの人たちに応援してもらっては頑張らないわけにはいかないのである。
明日からの非日常、どんな風景が待ってるか今からドキドキである。
| 自転車日記 | 23:04 | comments(0) | -
おニューでトリノなプロメテウス。
最近のニュースだけど、欧州の研究チームが実験したところによると、ニュートリノの中には光の速度よりも若干速く移動するものがあることが分かったそうな。これは、どんな物体も光よりも速く進めないという相対性理論の反証ではないかとちょっと大騒ぎになっているようである。相対性理論によれば、物体は光よりも速く移動することができないから、光の速度に近くなればなるほど、その物体の体積は小さくなっていき、質量は増大し、その物体が持つ見かけ上の時間の進み方がどんどん遅くなっていく。光の速度と同じになれば、その体積は限りなくゼロ、質量は無限大、時間は進まなくなると理論上は言われていて、つまりこんな状態に耐えられる物体は存在しないから、物体は光の速度に近づけても同じかまたは超えることはできないとされていた。光の速度を超えられないので、つまり時間の進み方は遅くはなれど逆行することはないので、この理論ではタイムマシンはできないということになる。
しかし今回のこのニュースが出るや、タイムマシンの非実現性に疑問が出てきたとかで、「タイムマシンは不可能じゃない」などというキャッチフレーズがそこここで言われるようになった。「今回のニュースを簡単に言い換えるとこういうこと」みたいな感じで、「光よりも速く移動するニュートリノの発見→タイムマシンが作れるかも」的な論調になってしまっているのである。この短絡さ加減には違和感を覚えざるを得ない。
でも、しゅんすけがいちばん気になったことは、光よりも速く移動するニュートリノの存在が、相対性理論の重大なホコロビになるかどうかである。相対性理論の大きな欠陥になるようだと、そもそも相対性理論の信用性がなくなるわけで、それはつまり相対性理論からの帰結である「E=MC^2(2乗)」の信頼性は大丈夫かということになる。この数式は、しゅんすけもよくは分からないけど、つまりは「物体の持つエネルギーはその物体の質量と同じである」ってことらしいんだけど、まさに原子力発電とか原子力兵器などの基本的な理屈のひとつなのである。つまり、この数式や理論自体のホコロビがそのまま原子力発電への信頼性のホコロビに繋がっているのである。
いやもしそうであれば大変なことである。
理論的に完全に掌握していたと思われた原子力発電の基礎理論に欠陥があったなんて、いくら「原発は安全です」とか「ただちに人体に影響は〜」とか言ってても、実際は全然信用できなかったってことになるのだ。いやこれはコワいわー。
E<MC^2ならまだしも、E>MC^2だった日にゃなんかヤバさ加減が若干増幅しちゃってる感じで、なんか後者の方のような気が何となくするんだけど、このことについては誰も説明しない。いや大丈夫なのかね。説明する必要がないほど、問題ない話しなのか、また例によってお偉いお役人が隠してるのか。いずれにしても、タイムマシンがどうとか言ってるレベルじゃないと思うのだ。
そんなわけで、しゅんすけは原子力発電には大いに反対である。「これだけ電気の恩恵に浴していて反対とはこれ如何に」な意見もあるんだけど、いやいくら必要だからって、身を滅ぼす恐れのある危険を冒して電気がどうしても必要とか思わないけどね。しかも話しによれば、原子力発電はいろんな点で供給過剰な感じだそうだし。
今回のニュースはほとんど収束した感じだけど、どこかでさらに大きくホコロビが発見されてやっぱり大変になるというのは勘弁してほしいなーと思うのだ。
| 日記 | 14:59 | comments(0) | -
オクトーバー・プライオリティ
今日は会社の関係で多摩川まで行って、バーベキューやらフットサルやらをやってきた。朝はかなり肌寒くて時折雨が降ってくるという微妙な天気だったんだけど、時間を追うごとに晴れ間も見えてきて結果的には非常にいい天気になってくれた。まるで雨男なしゅんすけが雨を引き寄せるパワーを超える晴れ男(女)の参加者がいたのかもしれないね。そんなわけで好天の下、バーベキューもそれなりに大成功(?)、フットサルもそれなりに大成功(?)のうちに終わることができた。良かった。うん、久し振りにやり切った感のある仕事だったな。
さて、この日のバーベキュー&フットサル大会は、しゅんすけの上半期最後の大仕事なわけで、当然下期にもいろいろやらねばならない仕事があるわけだけど、それが本格的に始まる前にしゅんすけは京都に向けて旅立つことになっている。つまり今日の仕事を終えた以降は、特に優先順位の高い仕事はなくて、多少の残務処理や日常作業はあるものの、しゅんすけの思いは他に気兼ねなく京都チャレンジに向けることができるのだ。そうなのだ、いよいよ待ったなしである。
そんなわけで、しゅんすけの愛車・こてつ号に取り付けるプレートを作成した。ほんのささやかだけど、東京から京都へ向かってビッグチャレンジ実施中であることをアピールするプレートである。この構想は結構前からあって、プラスチックパネルやニスを購入していたんだけど、昨日になってついに着彩に着手した。このプレートと一緒に京都を目指す。しゅんすけの思いを込めたプレートである。ちなみに京都ではさきこが自転車と共に待っていてくれることになっている。無事京都に到着することができれば、しゅんすけとさきこは京都・三条大橋で再開することになる。翌日は自転車で京都観光してこようかと思っているけど、さてさて、しゅんすけは無事京都・三条大橋に辿り着くことができるだろうか。


※この写真を撮った後に久し振りに洗車した。頼むぜ、こてつ号!

※拡大するとこんなことが書いてある。
| 日記 | 21:16 | comments(0) | -
世代交代。
来週の京都チャレンジを前に今日が最後の休日なので、いろいろ準備をしておこうと思った。その準備のひとつが「散髪に行くこと」で、今日は朝から床屋に行ってきたのだ。しゅんすけは一時期美容院なぞに行っていた時期もあったけど、女性の柔らかいタッチで髪をチョキチョキされるよりも男のごっつい手で豪快にジョッキジョッキと切られる方がなんか「散髪してるわー」って気になって、もっぱら床屋に行くことにしている。髪を洗う時に前向きに屈む感じになる床屋と違い、美容院は後ろ向きに倒れる感じが何となく苦手でもある。
しゅんすけが通っている床屋は、10年以上も前にさきこが一人暮らしを始めたアパートの1階で営業していた床屋で、その後二人暮らしを経て、今のマンションに越してきたわけだから、かれこれ15年くらい通ってる店である。今の家からは少し距離があって、自転車やクルマで行くことが多い。別に技術が上手いとかそういうわけじゃないんだけど、近場の床屋をいろいろ試してみても、やはりこの床屋が一番しっくりくるのだ。
さて今日もクルマを店の前に停めて、いつものように店のドアを開けると、見慣れない女性が出迎えてくれた。
たぶんご主人の娘さんだ。そう言えば親にならって理容だか美容の業界に入ったと言っていた。今日はお手伝いかなと思って、彼女に誘なわれるままにシートに座ると、隣のシートで別の人の散髪をしていたご主人がしゅんすけの近くまで来て、「娘です」と紹介してくれた。そして続けてこう言ったのだ。「跡継ぎです」
う〜ん、確かにご主人は齢60を越え、足腰の衰えも見えてきたのかもしれない。しゅんすけの髪を切るその手つきもかつての豪快さはなく、髪型の出来映えも行く度に微妙に違っていたり、ハサミを取り落としたりすることも多くなった。理容師ってのはいつまで現役でいられるか知らないけど、しゅんすけですらその変化が分かるほどだから、本人も当然分かっていたのだろう。だから別の店で働いていた娘さんを呼び寄せたのだろう。そう思うとなんか哀しい感じがする。こうして世代は交代していくんだろうな。
この店は今のご主人で2代目だそうで、娘さんが跡を継ぐと3代目ということになる。今の常連客では80歳、90歳も方もざらだそうだから、つまり親子孫の3代にわたって髪を預けてきたということになる。その人たちにとってもこの世代交代は感慨深いものなんだろうね。
娘さんの手つきはやはり女性の理容師のそれで、豪快さはまったくないのだけど、親から受け継いだ店を守っていく気概が指に感じられるようで、不慣れで戸惑いがちな手つきでも次もまたお願いしようと思った。
ところで、この床屋のご主人は、クルマや自転車で来店したしゅんすけが会計を終えて店を後にする時に、火打ち石をぱちんぱちんと叩いて見送ってくれる。安全祈願のような意味があるんだろう。地元の消防団にも参加する街では世話好きな重鎮的な位置にいるご主人の人柄が現われてるようで、古い慣習とは言えこの火打ち石を叩くのがしゅんすけはとても好きなのだ。
今日は散髪の合間に「最近、自転車乗ってる?」などと聞いてきたので、「そうですね。来週は京都まで自転車で行くんですよ」と言ったらとても驚いていた。だからかもしれないけど、店を後にする時に打ち鳴らされた火打ち石はいつもよりも力がこもっていたかもしれない。なんか分からないけど、このご主人に散髪されるためにも、京都から安全に帰って来なければと思った。
| 日記 | 12:01 | comments(0) | -
夢想の地平面
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