ぼくが以前オヤシラズを抜いた歯医者のその後のことである。
妙齢な女性歯科医の華麗なるテクニックによって、ぼくのオヤシラズはきれいさっぱりなくなり、ぼくを苛む歯痛の元凶はついに永久に葬り去られたので、この華麗なテクニックに歯科治療への信頼をちょっとだけ回復していたぼくは、歯科医の言う「他にも治療を要する虫歯がある」という誘い文句に乗って、その後も歯医者通いを続けていた。
今のところ抜歯したオヤシラズ近くの奥歯も虫歯だというので、目下この治療に専念しているのだけど、最近どうも怪しい感じがしてきた。
ある時、奥歯の治療に併せて、先生が「歯が汚いですねー」などと言うので、クリーニングと称した治療(?)を受けるべく、治療台に乗った。この女性の先生による華麗なる施術が再び始まるのかと思っていると、ぼくの治療台に近付いてきたのは別の女性だった。白衣ではなく、なぜか黒い衣服に身を包んでいた。その所作から、どうも「クリーニング担当の歯医者」だと窺い知れた。
小さな歯科医院とは言え、それなりに患者の出入りがあったから、効率よく治療をこなすために、治療の内容によって先生が変わるのだろうと思い、まずはこの黒い歯科医に身を委ねることにした。
そして黒い歯科医は、ぼくの口の中をくまなく覗き込んで、こう言うのだ。
「歯と歯茎の間の汚れが酷いですね。このままだと歯周病がさらに進行してしまうので、汚れなどを除去しないといけません」
あー、やっぱ歯周病でしたか・・・。まあ年齢的にそうだろうなと思っていたけど、初めてそういう風に言われたので、ちょっとショックだったり。
「それで治療ですが、汚れをちゃんと取るには、健康保険の適用外の方法もあります。これだと完璧に取れますね。保険適用内の治療もできますが、汚れを充分取ることができないかもしれないです」
マスクに顔を覆われた黒い歯科医は、淡々とそう言うのだ。保険適用外の治療・・・いや、そもそもこの歯科医院はどうも治療費が高いような気がしていていた。ちょっと歯をいじっただけで1500円は取られるし、この前のオヤシラズでは5000円は下らない治療費を請求されたと記憶している。だから保険適用の治療費でさえ、この歯科医院の治療費は高いと思っていたのだ。だから保険適用外の治療とはどれだけおカネがかかるものか、念のために聞いてみた。
「費用は歯の状況にもよりますが、だいたい1万から2万ですね」
に、にま・・・2万円?いや、汚れを取るだけでしょ?そのお高い治療方法でぼくの歯がどれだけ白くなるか知らないけど、2万はないよなー。トレス台が買えてしまう。この病院で治療費の高額さに驚いたのは、無痛治療5万円を提示された時に続き、2回目である。
そもそも今回の治療はあくまで虫歯を治すためである。そりゃ歯がきれいになるのはいいことだし、歯周病とやらの進行を抑えるのも大事だけど、それでは目的がボヤけてしまうような気がして、保険適用外のクリーニングをとりあえず辞退することにした。その瞬間、黒い歯医者の目が光ったような・・・?
こうして地獄の施術が始まった。
クリーニングとかいうから、昔勤めてた会社であったような歯石取り程度の軽いガリガリが来るのかと思ったらとんでもなくて、ほとんど歯を削るような強力な器具が口の中にツッコまれ、麻酔もなしに歯茎の隙間をガリガリやるのである。これは痛い。
歯医者はよく「痛かったら言ってくださいね」とか言うけど、口を大きく開けているのに「痛いです」なんて言えないわ・・・ってそういうレベルじゃなく、身悶えするほどに痛さを全身で表現しているのに、この黒い歯医者は一向にその手を緩めることをしない。歯にこびりついた汚れを、あたかも焦げ付いたフライパンをたわしでゴシゴシやるような感じで容赦がない。いやもうこれは拷問である。これをやられながら「ほら、知ってることを全部吐いちまいな!」とか言われたら、すぐ言う、言います言います、知らないことも全部言っちゃいますってほどの拷問である。
しばらくの間、この拷問が続いた後、やっと口から拷問器具が抜かれた。長い拷問に身体を硬直させ、冷や汗を流していたぼくは、「口をゆすいでください」と黒い歯科医に言われるままに水を含んで吐き出した。吐き出した水は赤く染まっていた。おお、これ出血しとるやん。痛さを感じるっていうか、これわざと痛くしてないか?
「あの、痛いです」
ぼくは控えめに言ってみた。歯の汚れをここまで放置していたぼくが悪かったです的な言い方は、もう痛くしないで欲しいとの懇願する思いが滲んでいた。
「あー、そーですねー、ちょっと痛いですよねー。痛かったら言ってくださいね」
感情の抑揚のないセリフである。あ、これ、やっぱりわざとか?
ぼくが保険適用外の治療を断ったから、「保険適用外の治療はこれほど痛いのだ、思い知れ!」ってことか?そりゃ実入りが多くなる保険適用外治療の方が儲かるかもしれないけど、それを断ったからと言って報復することはないじゃないか。いや、クリーニングとは元来そういうものなのかもしれない。けど、患者が痛いって言ってるんだから、そりゃ痛くならないように注意すべきではないか?痛くしないでと言ってるのに痛くするのは、もはや刑法の暴行罪に該当するんじゃないか?などと思っていると、だんだん腹が立ってきた。
こうしてしばらくの間、クリーニングと称する拷問が続き、ようやく終了したのだった。あれは最近の歯科治療の中では特異な体験であった。
しかし、それもクリーニングだけのことだろうと思っていた。あの黒い歯科医にさえ当たらなければ大丈夫。他の治療では妙齢の先生がしっかりやってくれるわけで、その点は安心である。
そう思って、あれから2、3回ほど通っているけど、例の先生はあまり姿を現さない。その代りに、別の先生(これも女性)が奥歯周辺の型を取ったり、レントゲン(また?)を撮ったりしつつ、奥歯に被せた歯を取り除いて仮歯を被せられている。この歯を被せた昔の施術が不十分だったそうで、根本が虫歯になってるとか何とか言っていた。それじゃまあ、お任せしようと思った。
そして、昨日のことである。
奥歯に被せられた仮歯は、既に2、3週間ほども被せられたままで、そろそろちゃんとした歯が被せられるのかと思った。しかし今回、ぼくの治療台に現れたのは、例の妙齢の先生ではなく、いやそもそも女性ではなく、男性だった。
この先生は以前撮影したレントゲンをパソコンの画面に映し出して、いろいろと説明し出した。その説明は、なんというか、とにかく分かりにくいもので、しかも決して断言しないような話し方だった。
例えて言うと、飲み屋に行き、カウンターに座り、お店の人と話しながら飲んでいるとする。ぼくが「冷奴ください」と注文し、小鉢に乗せられたお豆腐が出てきたところで、「醤油いただけますか?」とお願いする。すると、お店の人はすぐに醤油を出そうとせず、こう言うのだ。「醤油もいいですけど、最近は岩塩なんかかけて食べる人もいますよ。沖縄にピンク色をした塩が取れる海岸があって、すべて手作業で塩を作ってるんですね。この塩にはミネラルが・・・」などと、塩の話しをし出して、塩を勧めてくるのだけど、決して「塩で食べてみませんか?」とは言わない。塩の魅力を説明してぼくが「じゃ、塩ください」と言うのを待つのである。この男性の歯医者がまさにそういう感じなのである。
つまり彼は、もっと高額の治療をしたいのだ。歯を被せてしまったらもうその歯は治療できないから、さらに長く、高額な治療を続けるように、いろいろと不安を煽ってくるのである。そして、最後にはこう言うのだ。
「目に見えない虫歯も、この顕微鏡を使って治療すると虫歯を跡形もなく除去できます。ただ、保険適用外の治療なんですが、歯の深い部分にある虫歯を根絶するにはこの方法が最適です」
・・・出たな、妖怪。
首を動かすと、ぼくの後ろには巨大な治療器具が既にスタンバイされているのが見えた。最新の外科手術で使うような顕微鏡を装備した治療器具である。これは前からここにあったっけ?
それにしても、彼の言うように顕微鏡でしか見えないような虫歯をここであえて治療する長い時間にどれほどの意味があるのだろうか。散々ぼくの不安を煽っていたけど、実際痛くもない歯の治療にかかっているほど暇もおカネもないのである。
ここで保険適用外治療を断ると、その後の治療でとんでもなく後悔することになるかもしれないと思ったけど、鈍感なぼくでもそろそろ気づいているのだ。
ぼくはカモにされている。
東京は歯科医院の生き残り競争が非常に激しいそうである。少しでも儲かる施術をしないとすぐダメになってしまうのだろう。幸いぼくの会社の周辺は、大使館も多いし、政治家の宿舎や住まいや事務所も多いので、多少おカネがかかってもいいという人は多いのかもしれない。まあ、そういう人たちを相手にしているというわけである。そうか、ぼくはお呼びでない客だったかな。
この顕微鏡治療の費用はあえて聞かなかった。今となっては、果たしていくらって言われるのか興味はあるけど、どうせぼくが歯の健康の代償として支払える額を大きく超えているに決まっているのだ。
そういうわけで、ぼくの歯科治療は、この時点で新しい局面を迎えそうである。まだぼくの奥歯は仮歯のままだけど、その状態で歯医者を変えるということもきっとできるだろう。この歯医者に食われてしまう前に逃げた方がいいかもしれない。森の中のレストランに入ってみたら、逆にいつの間にか自分たちが食材にされていたという寓話のような展開である。果たしてぼくの歯科治療はその後どういう展開を見るのだろう。