「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
「とっておき」のランニングコース。
週末はさきこと散歩なんかもしつつ横浜山手の方を歩いた。地元からバスに乗っていくと、外人墓地とか港の見える丘公園に行くことができる。この日は元町に用事があったんだけど、こうしてバスで行くというのは新鮮である。このバス通りはぼくの幼少期からバスやクルマで何百回も走った道で、ぼくの大好きな道のひとつである。
中村橋のバス停の先から長い上り坂になり、その後外人墓地や港の見える丘公園まで続く山手の尾根道を走る。この最初の坂道は稲荷坂というのだけど、これを前にしてバスの車内に「この先、急な上り坂になります」なんてアナウンスがされるという、坂の多い横浜にあってあえてそんな放送がされるほどの坂道である。坂を上り切ると、外国人住宅地が現れる。ここは戦後に接収されたアメリカ海軍従事者やその家族が住むための住宅地である。昔は検問が緩くてぼくも何度か中に入ったことがあるけど、今は鉄のフェンスで固く閉ざされている。近年、この住宅地が日本に返還されるという話しがあって、見た目上は何も変わっていないけど、どうも話しは少しずつ進行し、同時に接収前の地権者との調整もしているそうである。
道をしばらく進むと、住宅の造りが徐々に高級感を増していく。オシャレな家や昔ながらの造りの家や変わった形の家が次々と現れる。最近ぼくは門扉の形状に興味があるんだけど、この辺はキレイなデザインの門扉とかが多い。私立の学校なんかもいくつか立ち並び、雰囲気のあるカトリック教会もあったりする。まさに観光地・横浜らしい街並みである。
こうして観光地的な色合いを濃くしながら道が続き、戦前に建てられた外国人居留地の住宅や公園や外人墓地、港の見える丘公園が現れて、道は尾根を降りていくのである。

バスに乗ったぼくとさきこは、こんな道を通っていくんだけど、この日は稲荷坂の途中で普段見かけないものを見た。
ランニングする2人の男性の姿である。ランニングと言っても、いわゆるランニングウェアを着ているのではなかった。白い上下に黒いソックス、背中にアルファベット表記された名前。野球のユニフォームだった。胸には「Y」の一文字。これはこの近くにある野球部で有名な某高校ではないか。彼らが練習の一環でこの坂道を走って上っているのかということにかなり驚いた。ぼくも走ったことのない道を、走ってるバスから見ても分かるほどの結構なペースでぐいぐい上っているのである。いや若さってスゴイわ。
走る彼らを追い抜いて坂の上に至ると、顧問の先生らしき人がいて、隣に女子マネージャー。ここで折り返すのかなーと思い、バスはそのまま進んでいくのだけど、なんとその後も車窓に度々このユニフォームが現れるのである。何人もの野球部員がこの道を走っているのだ。いやこれ、どこまで行くんだろう。
追い抜いても追い抜いてもその先に野球部員は現れ続け、バスが山手の高級住宅地に入ってからもその姿が途切れることはなく、ついにぼくたちが下車するバス停にも彼らが現れた。

「どこまで行くの?」
ぼくは走ってる彼らに思わず声をかけた。2人で走っていた野球部員は「港の見える丘公園までです」と元気に答え、「頑張ってね!」というぼくの声援に答えて走り去って行った。
港の見える丘公園まで?・・・ってこれ何キロあるんだろう。冒頭の稲荷坂という激坂を超え、その後の若干のアップダウンのある道を走って港の見える丘公園まで行くというのか。幼少期からバスとクルマでしか行ったことのないぼくにとっては、その距離はとても長く感じられてて、ただただいやスゴいわーと感心しきりだった。
しかし、相手は高校生である。ぼくも負けてはいられない。なにやら変な対抗心が芽生えてしまい、ついに「明日はぼくがこの道を走ってやる」と決意した。

そんなわけで、今まで走ったことのないこの道をふとしたキッカケで走ることになった。
さきこも調子が良くなっていたので、一緒にゆっくり走ることにした。自宅から一旦バス通りに出て、これを進み、ついに稲荷坂である。そういえば、去年さきこが入院していた時に病室の窓からこの坂道が見えたものである。その時はどういう視覚的錯覚なのか、思ったよりもかなり傾斜が緩く見えたものである。
しかし、横浜でも有数の激坂の一つである。実際にはその傾斜はなかなかのものである。息を調えてゆっくりと刻むように上っていく。予定のコースではまだ序盤ということもあってあまり体力を使わないようにする。この日は風もなく陽射しが暖かくてとても走りやすかった。
数百メートルの坂道を上り切り、外国人住宅地前で一旦休憩。この日は鉄フェンス近くに警護の人はいないようだった。その代わり(?)に近くの日なたにはネコが横になって眠っていた。暖かい陽光を受けて気持ち良さそうに寝ていたので、声をかけて撫でさせてもらった。
その後、さきこと外国人住宅地が完全に返還されたらどういう開発をするといいかみたいな話しをしつつ、山手方面に向かっていった。山手の高級住宅地では門扉の形状をいろいろ見ながら走った。そしてほどなく外人墓地、港の見える丘公園である。いや、距離感を全然感じさせない道である。実際に何キロもあるわけじゃないけど、景色が飽きさせないんだろうね。
その後来た道を帰った。高級住宅地が普通の住宅地になり、外国人住宅地になった。帰りにはネコはいなかった。
こうして14キロほど走って帰ってきた。
まあこの時期に14キロの練習程度でいいのかって問題はあるけど、散歩を兼ねたランニングとしてはとても楽しい道だった。クルマや自転車では見えなかったものがたくさん見えた。雰囲気のある建造物をゆっくり見ることができたり、ふと見える路地の先がいい雰囲気だったりと、ランニング程度がもっとも楽しめる速度だということが分かった。クルマや自転車だとクネクネ道を走ることに集中して景色を見るヒマがないんだよね。
さきこも当初は道の狭さに不安を隠せない感じだったけど、走ってみて印象ががらっと変わったようである。うん、これはこれからどんどん走りに来たい道である。ぼくたち以外にもランナーが結構走っていたしね。

ちなみにこの道を走ったおかげで右脳にも結構栄養が行ったようである。冬の描けない時期だからまだ形にはなってないけど、このランニングは走力のためにも良かったけど、右脳のためにも良かったみたいである。
| Be RUNNER! | 13:00 | comments(0) | trackbacks(0)
昨日は。
昨日は折から体調が悪かったこともあって大事を取って会社を休ませてもらった。いやホントはもうほとんど体調は回復していたんだけど、どうしても平日の午前中でないとできない用事があったのだ。
銀行で小銭を入金する作業である。
ぼくの自宅でぼくやさきこが以前からチクチク溜めてきた小銭がそれなりのおカネになったので、まとまったおカネとして使えるように銀行口座に入れようと思ったのだ。銀行窓口は平日15時までなので、会社を午後半休しても間に合わないし、会社まで小銭を持っていくにはかなり重いし、ここはやむを得ず会社を休んで行くしかないのである。
そんなわけで、雨が降っていたけど、さきこの溜めていた500円玉貯金とぼくの溜めていた1円から500円の小銭貯金を大きな容器に入れて、これをリュックサックの中に入れて家を出た。

この大きな容器は、事前に重量を測っておいたんだけど、その重量はなんと7.8キロだった。以前ハワイに行くというので、その資金の足しに500円玉貯金を入金しに行ったことがあったけど、あの時はたしか2キロ程度だったかな。10円玉などがとにかくスゴい量なので、金額はさほど大きくないけど、小銭だけで8キロほどもよく貯めたものである。これをリュックサックに入れて背負うともうバランスを崩してしまう。玄関先でヨロけてしまいうまくシューズが履けなかったわ。
以前にも2回ほどこの手の作業をしているとは言え、銀行で小銭を入金することにちょっと抵抗があった。銀行のソファに座って順番を待ち、呼び出されて窓口でリュックを開け、中から大きな容器を取り出すという行為がとても恥ずかしいのである。しかも平日である。なんかこう、定職のないオジサンが生活費に困窮して、かき集めた小銭を換金しに来ているように見えるのが耐え難いのである。だから窓口で容器を取り出す時にもし小銭が容器の中で移動してざざざーっと音がしたら恥ずかしいなとか、容器を受け渡す時に窓口の人に「小銭の入金ですね!」などと大声で言われたら・・・いや、容器を取り出す時にうっかり手が滑って容器を落としちゃって、大量の小銭をまき散らしちゃったらもう死ぬほど恥ずかしい。
銀行の店内には、結構お客さんがいて、まあ幸いお昼休みの時間じゃなかったところが幸いだったけど、それでもいろいろ妄想してしまいかなり恥ずかしかった。
ところが順番待ちをしているぼくが呼び出され、窓口の人に用件を伝えると、窓口の人は万事分かったような感じですんなりと対応してくれた。小銭の入った容器は、いつもお札しか数えてない銀行員には重すぎたと思うけど、しずしずと奥に運んでいった。小銭が手元から離れてぼくは安堵した。
そんなわけで、小銭はまとまった金額として口座に入金された。まあちょっと贅沢ができる程度のおカネでしかないけど、このおカネがこれから2月の記念日に向けてあっという間に消費されることになるわけである。

さて銀行を出たぼくは、雨ではあったけど、せっかくクルマで出かけてきたので、そのまま海までドライブに行くことにした。一人で海までドライブするのは非常に珍しいけど、一人だからずっと海を見たり、コーヒー屋で絵なぞの構想を練ったり、パソコンをカチャカチャできるなーと思った。あえて高速道路を使わずに一般道を通って北鎌倉から鎌倉、由比ヶ浜を経て逗子、葉山方面に向かった。
ぼくはここのところ、右脳が全然回ってくれなくて、これは毎年冬になると起こる恒例行事みたいなものなんだけど、絵なぞが描けないというのは非常に辛いことで、まだ描けなくなって1か月程度ではあるけど、これが春から夏まで続くと思いぼくはかなり焦っていた。だから普段の雰囲気を変えたところで絵なぞの構想を練るというのは、もしかしたら右脳が回転してくれるキッカケになってくれるかもしれなかった。
海にドライブというのは普通は休日の晴れた日に多いわけで、この日のように平日で雨の寒い日に行くというのは珍しかった。だからかもしれないけど、右脳には非常にいい栄養を与えることができたように思う。ドライブ中に目に入ったものが、何となく想像力を刺激してくれそうな感じだったのである。
たとえば、ぼくがずっと描き起こしたいと思っていた自分の部屋の様子について、窓に向かう形での一点透視法で描いていたんだけど、ハンドルを握っているとふと「図面内に消失点を持たせない形で上下の二点透視法で描いたらどうなるかな」と思い立ち、コーヒー屋に入ってメモに描き起こしてみたら、これが結構イケそうな感じだった。ずっと描きたかった絵なぞに思わぬ天啓が下りてきた感じである。この他にも思いついたものはいくつかあって、そのすべてが絵なぞに具現化できるかどうか分からないけど、右脳の潤滑油くらいにはなったんじゃないかな。
ちなみに二点透視で描いたぼくの部屋の図は、自宅に帰ってからちゃんと描き起こしてみて、なかなかいい感じで描き上げることができた。
まあこれは絵なぞというにはちょっと違うのかもしれないけど、焦っていた自分にとっては良かったと思う。

さきこは早くに退社したそうだから、この際会社まで迎えに行くとか、夜もドライブするとか考えはいろいろあったんだけど、ここは都合よく発症する風邪の症状を懸念して、自宅で静養させてもらった。ここ1週間ほどずっとぼくの体調が悪くてさきこには迷惑をかけっぱなしである。週末にはこの辺のお返しができたりするかな。

※すべての小銭が集まった図。これで8キロ弱。

※作業環境というイメージでいろいろ偉そうに解説も入れたりしてね。
| 日記 | 12:52 | comments(0) | trackbacks(0)
地球儀の思い出。
某SNSでちょっと前に友達登録した中学生時代の旧友がいるのだけど、ある時この人がこんなコメントを投稿した。
「どなたか不要になった地球儀を譲ってくれませんか?」
社会人になってずっと疎遠になっていた彼だけど、SNSの情報によると就職して結婚してお子さんまでいるようである。しかもずっと持ち続けてきた夢も続いているようである。SNSの友達登録をするまでは、大学卒業後どういう生活をしているのかさっぱり分からなかったので、ずっと気になっていた。昔からの夢をどういう形で実現しているのかもとても気になっていたから、若手やエキストラがたくさん出演するドラマや映画なんかのテロップにしれっと名前が出たりしないかと探してみたこともあった。
SNSで友達登録されて初めて彼の夢がぼくが考えていた形とはちょっと違った形で実現し、今も継続していることを知った。これはとても嬉しいことだった。ぜひこれからもその夢を膨らませていって欲しいなと思う。

さて、そんな彼が地球儀を探していた。
このコメントに対する他の友人のコメントのやり取りを見ていると、どうも自分のお子さんにプレゼントするためのようである。新品を買ってもやんちゃな子供はどうせ壊してしまうとかそういう理由だと思うけど、でも使い古しの地球儀を探して子供にプレゼントするなんてなんとも彼らしいと思った。
結局、友人のひとりが手を上げて地球儀を提供したみたいだけど、それとは別にぼくは彼と地球儀のエピソードを思い出していた。もう30年も前の記憶である。

ぼくが中学生の頃のことである。
ぼくは彼とその他の友人数名で映画を作っていた。当時はまだ珍しかったホームビデオカメラを持っている友人がいて、これを知ったぼくたちはこれで映画を撮ろうということになったのだ。当時ハマっていた特撮ヒーローを題材にしたストーリーで主役はもちろん、ぼく。地球に隕石として落下してきた謎の物体を巡って悪の組織と正義のヒーローが戦うという話しである。うん、年甲斐もなく今聞いてもワクワクするゾ。
当時はカメラだけがあって編集機器なんてものはなかったから、ストーリーを展開させるためには、シーンごとに順を追って撮影する必要があった。まとめ撮りして後で繋げるなんて考えもつかなかった。だから冒頭のシーンは、必然的にストーリーの発端、謎の隕石が地球に落下してくるシーンということになる。
このシーンを撮影するために、ぼくたちは彼の家に集まった。
宇宙空間を漂う隕石が地球に落下するシーンを撮るには、まず部屋に宇宙空間を出現させる必要がある。夏の暑い日にもかかわらず雨戸とカーテンを閉め、光が入らないようにした。彼の自宅に備付の懐中電灯を持ち出して太陽の光を表現。そして問題の地球である。ぼくたちは彼の勉強机の上に置いてある地球儀に目をつけた。地球儀には地球を支える支柱や台座みたいなものが付いていて、これがあっては宇宙空間の地球は表現できないと、なんの迷いもなくこれを分解。地球儀の地球部分だけを取り出してこれに紐をつけ、天井から吊るした。懐中電灯を横から当てられた地球儀の地球は、まさに宇宙空間を浮遊する地球そのものだった。さらにそこら辺に落ちていた石に紐をつけてこれを画面に入らないように手で吊り下げ、カメラが回ったらカメラ手前からゆっくりと地球(儀)に近づけていく。まさに地球に隕石が近づいていく映像である。若干残念なのは、宇宙空間に浮遊する地球には国境線も国名も表示されている点である。有名な宇宙飛行士が言った「宇宙から見た地球には国境線はなかった」という深い言葉を真っ向から否定する仕上がりになってしまった。
撮影が完了して、ぼくたちはビデオカメラの小さい窓を覗き込み、そこに宇宙空間に漂う地球が映っているのを見て、歓声をあげた。これがぼくたちが初めて撮影した映像であり、初めての特殊撮影(特撮)だった。もう30年も昔のことである。
その後、不慣れな機械操作のために何度か誤って上書きしちゃって、その都度彼の自宅にお邪魔して何度も特撮を敢行するハメになった。中学生の男子が数人集まって、真っ暗にした部屋で何やらゴソゴソやるなんて非常に怪しい。彼のお母さんは閉口していたな。それから冬までいろんなシーンを撮影を続けて、完成はしなかったものの撮影する行為自体がとても楽しかった。
その後高校に入り、しばらく中断していたけど、大学に入ってから別の映画を作ったりして、これは別の友人が獅子奮迅の大活躍で編集作業なんかをしてくれたので、映画として完成を見たのだけど、それ以降は社会人になる前に集まることが自然となくなっていった。社会人になる前の最後の夏休みに撮影したのが最後の作品になるのだけど、暑い盛りに彼の自宅を訪れ、いろいろ撮影している中で、彼の就職活動の話しを聞き、それまでフワフワしていたぼくが印刷業界に照準を絞って、その後ある印刷会社に就職することができたのを思い出す。何かのきっかけというのは、本当に些細なことなんだけど、後で振り返ると人生を左右する大きなデキゴトだったりするものである。ぼくの人生のきっかけは、彼の自宅、暑い中撮影のために何度も入り浸ったあのアトリエのような部屋から始まったのである。

地球儀の話しから芋づる式にどんどん思い出してしまった。
こうして思い出したことをいろいろ考えていると、意外と彼はぼくに大きな影響を及ぼしているのが分かる。ここには書かないけど、絵なぞのことでは映画以上に大きくぼくは影響を受けていると思う。それに演劇についても。
今はお互い別の方向を見て生きているけど、この繋がりはこれからも大事にしていきたいなと思う。

それにしても、彼のお子さんに渡った地球儀である。考えてみれば、中学生の時のあの撮影でぼくたちが彼の地球儀を分解しちゃわなければ、あの地球儀は未だに健在で、わざわざSNSで呼びかけることはなかったんじゃないだろうか。お父さんが使っていた地球儀が子供に引き継がれるという親子の感動的な美談をぼくたちの歪んだ青春が踏みにじったのかもしれないと思い、いやぼくたちが地球儀を分解してしまったからこそ、SNSを通じて彼と思い出を共有できたんだと思ったりもして、人の縁の不思議さを思うのである。
| 日記 | 12:13 | comments(0) | trackbacks(0)
近況。
先週からどうも体調がすぐれなくて、風邪をひいたみたいである。
そんなわけで全然ブログが更新できなかったので、最近のデキゴトを短くまとめてみる。

先週はさきこと会社帰りに管弦楽の演奏会に行ってきた。さきこの会社のツテで割安で入手したチケットで、なかなかいい演奏会だった。演奏も非常に良かったけど、ここで特筆すべきはこの演奏会の会場がサントリーホールだったこと。映像では何度か見たことのあるステージ後ろまで客席になっているあの独特な形状を生で見ることができた。この演奏会ではその席まで客席としていなかったけど、いつかあの後ろ側の席に座ってプロの演奏を聴きたいものである。いや、そもそもサントリーホールのステージに・・・なんてね。

先週から調子が悪かったけど、東京マラソンを来月に控えるさきこは練習に余念がなく、週末はわざわざ皇居まで行ってロングランの練習をしたそうな。かなり寒い日だったので、目標の30キロは走れなかったそうだけど、それでも25キロを走ったんだから大したものである。
その翌日にはまた東京で救命救急の講習に参加した。人工呼吸とか心臓マッサージの他、AEDの操作訓練もあったそうで、まったく経験のないぼくは非常に興味深くて楽しみにしていたんだけど、体調不良によりさきこだけが参加した。いいなー。
さきこの充実した週末と異なり、ぼくは新しいベッドの上で寝転んでいただけだった。

去年末から発表があると言われててまったく音沙汰のない某マイク○ソフト社のサー○ェスミ○。サーフ○ス○ロ3で別売りになっていたキーボードカバーが漏れなく付属するというキャンペーンがあったり、パソコン雑誌でわざとらしいほどタブレットパソコンを売り込んできたりと、ついに発表か?!と個人的にざわざわしていたんだけど、その後特に何もないまま1月も下旬になってしまった。マイ○ロソフト社はサーフェ○ミ○を発売するつもりなのか、どうなのか。そろそろタブレットパソコンを買い替えたくて、その時は8インチサイズでキーボードが接続(PCに認識され)やすい機器にしようと思っていて、それこそまさにサー○ェス○ニなわけだけど、さてさてどうなるものやら。

年が明けて、仕事が始まり、いつものように昼休みをコーヒー屋で過ごそうと店に行ったら、「明けましておめでとうございます」などと挨拶をされてしまった。なんだか常連さん的な扱いを受けてて気恥ずかしかったわ。ぼくはどうも常連さん的扱いが苦手で、どんな場合でも自分の立場を超えないようにしてきた。地元のコンビニでも「購買者」としての立場を堅持して、他の人のように店員さんと「今日は寒いですねー」などと言葉を交わしたりしない。この前さきことランニングした後にそのままコンビニに行ったら店員のおばちゃんに「いつもどこまで走ってくるんですか?」なんて聞かれて、以前からそんなことを気にしていたのかと恥ずかしくなってしまった。
このコーヒー屋では、以前からぼくに対して常連さん的扱いをいろいろしてきてくれて、ぼくはその度に恐縮しつつ恥ずかしくなるのだけど、この辺の話しはまた今度。

仕事でメールのやり取りに使っているソフト(メーラー)が酷い。
過去に受信したメールがいつの間にか消えてしまったりするのだ。いや故意に消そうとしたわけではなく、例えば特定のアドレスの過去の受信履歴を検索しようとすると、どういうわけか1件もヒットしないのだ。いや、過去・・・それこそ1、2か月前に確実にやり取りしたのに、1件もヒットしないとはどういうことか。ともかくメールが消えてしまっているようなのである。
情報セキュリティを優先して、メールをパソコン本体ではなく、サーバに保管されるようにしていて、サーバの負荷があがったりすると変な動作をするとかそういう感じなんじゃないのかね。いやそれはぼくの想像だけどさ。実際には原因不明だそうで、「なんだかんだで消しちゃったんじゃないンスか?」なんて言われたりする。アホか。
昨今はメールだって裁判なんかで証拠として提出されたりするんだから、その辺はしっかりして欲しいわと思う。

そんなわけでトリトメもなく書き綴ってきた。とにかく風邪を治さないとダメだ。ブログの絵なぞもランニングもまったくできない、本当に無為な時間を費やすことになってしまう。
| 日記 | 12:36 | comments(0) | trackbacks(0)
1月17日。
阪神淡路大震災から20年が過ぎようとしている。
あの衝撃的な大震災がもう20年前のデキゴトになるということに時間の無常を感じる。いや昨日のこと・・・とは言わないまでも、そんなに過去のことになっちゃったんだね。
大震災はそれまでにも何度か発生していたけど、都市圏でのこの大規模震災はぼくにとって初めての経験で、朝のニュースで神戸市街の上空からそこここで黒煙が上がっている映像は、大学生だったぼくにとってホント驚愕的だった。大学に行くと「関西で地震があった」という情報に何人かの学生が「またまた〜」なんて冗談みたいに返していたのを覚えている。サークルの部室に行くと、普段はゲームばかりしていたテレビが珍しくニュース番組を映していて、死者行方不明者の数を報じていたけど、その数が自宅を出る時よりも増えていて、また授業(当時は試験期間中だったから期末試験だったか)を終えて部室に戻ると、さらに数字が増えていて、どこまで数字が上がるのか不安になる一方、いつもゲームでスコアを競っていたテレビが、どんどん増加する死者行方不明者の数を映している符号を感じて、その不謹慎さに自己嫌悪になったりした。
その後、大手スーパーなどが緊急支援として被災地に大量に物資を送ったり、全国からたくさんのボランティアが集まったりしたのを知った。こうやって被災地は復興していくんだと実感したし、さらにその後も「頑張ろう、神戸」の合言葉で街が次第に復興していくのを見てきた。日本という国を初めて実感したとも言える。大規模な災害に対して、一人ひとりがどう向き合っていくのかを、この阪神淡路大震災での対応で分かったと思う。そういう点ではこの災害対応がすべてのスタートだったのだと思う。
そして東日本大震災が起こった。あの時の助け合いのマインドは確実に継承されているのを感じた。より一層強くなったかもしれないね。災害に対するのに、インフラの整備などのハード面での強化は必要だけど、こういうマインドを持つソフト的な部分も重要なんだろうね。
ただ、東日本大震災では災害の新しい要素があった。原子力発電所の事故である。これは神戸でも、いや世界的に経験がないことである。この教訓を今後に生かせるか。教訓を継承できるか。まさに今試されているんだと思う。

そんなわけで、20年があっという間に過ぎた。
ぼくがこの日のことをずっと覚えていて、いつか来たるべき日に役立てることが、亡くなった大勢の方への手向けになるのかなと思うわけである。
| 日記 | 12:48 | comments(0) | trackbacks(0)
飛行機見ながらランニング。
今年初のランニングイベントということで、初参加の「城南島羽田マラソン」に参加してきた。
なかなかコンパクトな大会である。ぼくが参加する10キロコースの男性の参加者が200人もいないからな。女性なんか100人程度だったし。横浜ロードレースのアットホームな雰囲気に通じる感じである。
事前にコースを確認していなかったから、当日会場で城南島公園を4周するコースと知った時は驚いた。てっきり休日の城南島を交通規制して大勢のランナーが駆け抜けるようなイメージがあったので、大会運営のコンパクトさとあわせてちょっと拍子抜けだった。また更衣室にしていた大きめのテントは海風に吹き飛ばされて、着替えてる人がいきなり白日の下に露わになるというハプニングもあった。ぼくもこのテント内で着替えたんだけど、ほとんど全裸状態の時にテントが飛ばされなくて良かったわ。吹き飛ばされた時に中にいたさきこは着替え終わってたみたいで大丈夫(?)だった。テントは当初から風に煽られていたので、まあ案の定という感じで中にいた人も笑っていたようだけど、こういうところもコンパクトなイベントだからこそかもしれないね。
ランナーの記録を計測するICタグもシューズやゼッケンに取りつけるタイプではなく、手首に巻いてフィニッシュ後に読み取り機に接触させるタイプだった。スイカとかパスモみたいである。より低コストでできる記録ということだろうけど、こういう手作り感や先ほどのハプニングも含め(?)、こういうコンパクトな大会は好きである。来年も出たいなと思う。

ところでランニングの方は、1月に入ってから練習をしていたおかげか、結果としては10キロ・54分弱という記録を出すことができた。さきこは最初ぼくを大きく離して先行していたけど、ウォームアップ不足なのか、途中で足が痛くなってしまったようで、ぼくから3分ほど遅れてフィニッシュになった。でも1時間が切れて良かった。
天気が良くてランニングにはいいコンディションだったし、羽田から飛び立った飛行機が上空を通過するのを間近で見ることができるし、とても楽しく走ることができた。休日の朝に東京モノレールに乗るというのもなんか非日常な感じでいい。
帰りはモノレールに乗って羽田空港まで行って飛行機を見ながら食事した。飛行機を見るのが好きなので、これも大満足である。

今年はこのイベントから始めて、2月には神奈川マラソンで10キロ、青梅マラソンで30キロ、さきこは翌週に東京マラソン、その翌週には三浦国際マラソンでハーフ、下旬にはぼくが板橋シティマラソンでフルマラソンと3月上旬までランニングイベントが続く。そろそろ4月以降のランニングイベントの告知が始まるので、エントリーの準備をしないとな。
今年は今までとは違う大会にいろいろ参加したいものである。


| Be RUNNER! | 09:34 | comments(0) | trackbacks(0)
ビル解体を見て。
ぼくの去年の大きな仕事のひとつが「本社移転」だったことは回顧録にも書いたけど、移転した後の「旧本社」の解体が現在進んでいる。もともとテナントビルだった旧本社はかなり古い建物で、実際ぼくよりもはるかに年上。一応耐震補強をしてあり、東日本大震災もこの建物で乗り切った。しかし首都圏での震災リスクが高まる中、ぼくの会社が出ていくのを機に建て替えすることになったみたいである。ちなみに多くのテナントが出ていった後、最後まで残ったのはぼくの会社だった。
ぼくの会社が出ていった直後から内装の取り壊しが進み、晩秋から建物自体の取り壊しが始まった。これは年をまたいで今も続いてるけど、今や低層階と地下階を残すだけだから、ほどなく解体は終了して、次の建物の建設が始まるんだろう。次はマンションが建つそうな。へぇ〜。
それにしても、当初、決して低いわけではない建物の最上階でショベルカーがガンガン稼働している光景は不思議だった。きっと巨大なクレーン車で最上階まで持ち上げたんだと思うけど、決して広くない面積に大型ショベルカーが3台も動いているというのはなんだかスゴいし、壊してる間にフロアの床が抜けたりしないのだろうかとか、ショベルカーはどうやって壊しながら階層を下っていくのだろうとかいろいろ考えてしまった。
※ちなみにショベルカーが破壊しながら階層を下る方法について、いろいろ考えたけど、やはり分からなかった。たぶんだけど、ショベルカーで床を壊して穴を空け、これに鋼製のスロープを渡して下層階に下りていくのだろうと想像している。いや、他に方法が思いつかない。それでも3台もの大型ショベルカーが所狭しとグイングイン稼働してるのを見ると、ホントかなと思ったりもする。

それにしても、移転作業真っ最中の夜中に、ふと思い立って壁に落書きしたのはどうなったかな。巨大なショベルカーでガリガリ削られる前に壊された天井から差し込む陽射しが当たったりしただろうか。紙以外に絵なぞを描くことはなかったので、こういう形で絵なぞが消されていくのは不思議な感覚である。

そんなわけでちょっと不思議な気分になりつつも、かつての職場がどんどんなくなっていくのを見ている。そういえば、ぼくが前に勤めていた会社も高輪のビルから移転したな。その際に近くにあった自社ビルも壊して売り払っちゃったそうで、ある日自転車で会社建物の前に立ち寄った時、とても寂しかったのを覚えている。
旧本社は先に書いたとおり、東日本大震災はこの建物の1階に勤めている時に起こった。その後3階に移動したり、6階を借り増ししたりとぼくには思い出深いこの建物がこうしてなくなっていくのは、やはり寂しいものである。そういえば、自宅周辺でも古い家屋が取り壊されて更地になっていたり、近くの高校が統廃合でなくなり、その敷地は広大な更地と戸建て住宅が数件立ち並ぶ風景になったな。そういういろいろが相まって、旧本社ビルがなくなっていくが寂しくなるんだね。
ビルの取り壊しのためにどんどん低くなっていったシルエットが、建て替え工事が始まると今度はどんどん高くなっていく。こうして街のライフサイクルが回っているんだなと思う。
| 日記 | 13:47 | comments(0) | trackbacks(0)
年末年始。
明けましておめでとうございます。
今年も「オクターブアップ!」「夢想の地平面」をよろしくお願いします。
・・・ということで、9日間もあった年末年始休暇は矢のように過ぎ去って今日から仕事である。普段なら三連休ですら長いと感じることがあるのに、その3倍の九連休がどうしてあっという間に過ぎていくのかとつくづく思うのである。
そんな矢のように過ぎ去った年末は、大掃除を中心に、自宅改造計画を少し進めつつ、友人主催の餅つき大会に参加して、31日の大晦日はさきことロングランの練習をした。当初は東京マラソンを見据えて30キロ走をしたかったんだけど、ぼくが練習不足で足が衰えてしまい、22キロほどが精一杯で終わることになったのである。また元旦は、ここ数年は「明けましてサイクリング」ということで鎌倉・鶴岡八幡宮までサイクリングに行っていたんだけど、前日のロングランで筋肉痛になってしまい、また強い寒気が下りてきたこともあってサイクリングには過酷な天候と考え、出かけずに元旦の朝を迎えた。昼前に窓の外を見ると、みぞれが舞っているのが見えて、筋肉痛を押して寒風の中を出かけなくて正解だったと思ったものである。
2日はさきことお袋さん、姪と甥を連れて、箱根駅伝の沿道応援と皇居の一般参賀に行ってきた。子供たちがいるとぼくも楽しくなってしまい、百人一首をやったりお年玉争奪クイズ大会などをやったりして結局夜まで目一杯楽しんでしまったよ。
そして3日は箱根駅伝をテレビ観戦し、これに触発されて権太坂辺りをランニングして、そして気が付くと4日、休暇の最終日になっていたというわけである。無為に過ごした感じはないけど、こうして過ぎていった時間を思うとなんか寂しいものがあるな。
ちなみに、この休暇中にさきこには遅めのクリスマスプレゼントということで、腕時計を購入した。ランニングで使えるようなGPS機能付きの腕時計である。東京マラソンで活躍できればいいなと思いつつ、そういえば女性用の腕時計をプレゼントしたのは去年の誕生日だったかな?と思うにつけ、腕時計をよくプレゼントする年だったなあ。
また、ぼくは自宅パソコンのキーボードが大き過ぎて使いづらいので、モバイルで使っていたキーボードをこれに充てて、モバイル用のキーボードを新調した。・・・と言っても、まったく同じものを買ったんだけどね。自宅パソコンに流用した旧モバイル用のキーボードは、キーボードを斜めに傾斜させる足の部分に不具合があって、ずっとこの不具合を我慢しながら使っていたんだけど、どうせ自宅パソコンのキーボードを変えるなら足がおかしいこのキーボードでも使用上は問題ないので、モバイル用を新調することにしたわけである。つまり、今こうしてカチャカチャしているキーボードは新しく購入したものということである。
そんなわけで、新しい年を迎えてぼくの身の回りも少しだけリニューアルされた感じで、新しい気持ちでいつものようにコーヒー屋でパソコンをカチャカチャやっているわけである。
さて、新しい年が始まった。
今年はどんな年になるか。
| 日記 | 13:45 | comments(0) | trackbacks(0)
夢想の地平面
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