先日のニュースで日本語の慣用句について、誤用する例が多くなっているなんて話しがあった。
「話しのさわり」というと「話しの冒頭部分」なんて思いがちだけど、正しくは「話しの要約」を意味するんだそうな。同様に「存亡の危機」は誤用で「存亡の機」だそうだし、「足元をすくわれる」ではなく「足をすくわれる」が正しいのだそうな。日本語は時代とともに変化するなんて言われて、今までにもいろんな新語・造語ができてきたけど、古くからある言葉は、なるべく正しく使うようにしたいものである。まあぼくもまだまだ勉強中で、先の3つの例はすべて間違って覚えていたわけだけどね。
ニュースでは、そんな変わりやすい日本語の代表例として、最近の若者言葉を取り上げていた。
流行語は若者言葉から発することが多くて、それは若者が互いの繋がりをより強く認識したいために「内輪言葉」を使うからだとも言われている。友達と強く結びついていることをより強く認識したくて、内輪ではないと分からない言葉を作り出す。内輪言葉が分かることがそのコミュニティの繋がりの強さを表すわけである。それが次第にコミュニティ以外でも一般化し、世間に一般化するという構造である。もちろん、若者発信だけではなく、テレビやインターネットなんかから発する場合もあるけど、その場合においてもコミュニティ内の内輪言葉にしたいという日本人の特有のメンタリティがあるように思える。ネットの某巨大掲示板での隠語などはいい例だと思う。
そういった内輪だけで通じる言葉は、省略言葉の形を取る場合が多い。長い単語を内輪では省略して呼ぶみたいな感じ。アルファベットに置き換えたりすることもあるかな。
ニュースでは、最近の若者の短縮言葉をいろいろ取り上げて、街角の人にアンケートして「分かる」「分からない」なんてアンケートを取っていた。もちろん年代が高くなれば知らない言葉も多くなる。新橋で酔っ払ってるおじさんが最近の言葉を見せられて「えー、全然分からないよー」なんて言ってる映像が出ていた。
ここで具体例を出すのはなんだか気恥ずかしいけど、ニュースの中で言われていたのは、「り」とか「そま」などである。「り」は「了解」のことだそうな。以前は「りょ」という若者言葉があるけど、さらに短縮化して、最近は「り」で済ませるそうな。「そま」は「それってマジ?」の省略である。少し前に知った言葉「とりま」と同じか。あれは「とりあえずまあ」の省略だったかな。
さらにニュースは続き、最後の締めとして国語学者らしき人が出てくる。
まあこれが一般的なニュースの構成なんだろうな。冒頭にニュースの核になる事実を提示して、次にこれをヒネった最近の世相なんかを提示して、これに対する世の中の反応なんかを提示して、最後に学者がそれらしいことを言って締める・・・って感じ。最後に出てくる学者がほとんどの場合で画面の背景に書棚が映ってるというのも、もはやお約束である。書棚を背負って何かそれらしいことを言ってると、どんなヘンテコなことでも妙に納得してしまう暗示にかかるのかな。
今回のニュースにおける学者の意見はこうである。
「若者が言葉を省略する傾向は以前から見られたことで、『了解』のことを『り』などと省略するのは、その傾向がもっとも進んだ状態ではないか」
うん、なるほどね。ひらがな1文字で情報伝達できるなんて、事態はここに極まれりというわけである。うん、そのとおりだと思う。上に掲げた例以外にもたくさんの省略語があるそうで、それらを見るにつけ、若者の内輪言葉の省略化の傾向はどんどん進んでいると思うしこれからも進むんだと思う。
しかし、ここまで省略化を促した原因は他にあるだろう。そのことに言及しないといけないだろう。
それは、予測変換である。
スマホなどの機器が高度に普及したことは、「り」のような究極の短縮言葉に大きな影響を及ぼしていると思うのだ。
「り」と打てば、予測変換で「了解」が筆頭に来る。若者はこれを選択して表示する手間を省いたのだ。手間を省略し、そして結果として、ひらがな1文字の究極の短縮言葉があらわれたのだ。
日本語で「り」から始まる言葉はさほど多くない。固有名詞以外で普段頻繁に使うのは「了解」くらいである。それは機種は違えど、たいていのスマホは同じような予測変換になるものである。だから「り」だけでも通じるのである。何度も情報伝達をしている内輪だからこそ、「了解」なんて何度も打っていたし、もはや「りょうかい」まで打たなくても予測変換で「了解」が出てくる。当初は「りょ」まで打って「了解」を表示していたけど、そのうち「り」だけで「了解」を得ることができる。これにより若者の頭の中で「りょ⇒了解」「り⇒了解」の図式が定着したわけである。若者が共有したのは、短縮言葉なんていう表層的なものではなく、スマホ機能の裏側にある予測変換機能そのものなのだ。国語学者はここまで言及しても良かったんじゃないかな。
というのは、これって結構スゴいことなのだ。
先に書いたとおり、ひらがな1文字でなされる情報伝達は、予測変換というスマホ内の機能に依拠する。閉じられたコミュニティの中でお約束になっていた内輪言葉が、今度はコミュニティとは別次元の機器の機能にその結びつきの証、いわば「結び目」を移行させたわけである。つまり「この言葉が分かるのは、予測変換の熟度が同じくらいの仲間」というわけである。コミュニティの結び目は、従来そのコミュニティの中にあったのが、今回の例ではコミュニティの外、スマホの機能そのものにできたというわけである。
見た目は単純な短縮言葉のようだけど、その本質は全然違うもののように思える。
いやさらに考えを進めると、もともと日本人の内輪言葉のメンタリティには、どこにでもその結び目を持たせることができるほどの柔軟性があったのかもしれない。いやそれとも日本人だけに限ったことではないのかな。世界中にある内輪言葉の根底にある基本構造みたいなものにかかわることかもしれない。日本語でそれが顕著なのは、日本語がそういった変化に柔軟な言語だからかもしれない。
そう思うと、それまでの若者言葉、これも気恥ずかしいけど、「チョベリバ(=超ベリーバッド)」みたいな言葉とは別次元にある話しのように思えるのだ。
ここまではあくまでぼくの妄想だけど、先に書いたように、国語学者が若者の短縮言葉の傾向にスマホ普及の影響を挙げなかったことがかなり意外だったな。まさかこの学者、ガラケーユーザーだろうか。いやガラケーだって予測変換機能くらいはあったよな。それとも「スマホの害悪」みたいな話しの展開を避けるために、わざと論点をズラしたりしたのかな。そのニュース番組のスポンサーが通信会社だったりしてね。
そんなわけで、絶えず変化する日本語は、今や老若男女に浸透したスマホの影響を受けるところまで行っている。いくら本や新聞を読んでも、普段やり取りするスマホ同士の言葉には敵わないだろう。この状況がもっと進むと、ほとんどの言葉が、予測変換プログラムを前提にした省略に置き換わってしまうかもしれないね。「り」はほとんど「了解」以外の使い道がないひらがなだけど、いろんな言葉の頭文字になってるひらがなは、たとえば「あ」とかは、「あ1」=「明日」、「あ2」=「明後日」、「あ3」=「足」、「あ4」=「愛してる」なんて表現になっちゃったりしてね。
いくら仲良くなっても、「愛してる」を「あ4だよー」とか言われても、ぼくは全然嬉しくないわ。
※今回の話しは、コミュニティの結びつきの根拠(ここでは「結び目」と表現しているけど)が、コミュニティの内部ではなく、外部にあるという話しだったけど、考えてみれば、そういう事例はここ最近の話しではないかもしれないね。
某ジブリアニメ「風立ちぬ」の冒頭部分で、主人公とヒロインが出会うシーンでも、互いがポール・ヴァレリーの作品の一部分を引用して心を通わせていた。互いの距離感がぐっと近づく閉じたコミュニティができる瞬間である。まったく付き合いがないにもかかわらず、彼らがここまで強い結び目を獲得したのは、まさに作中の言葉を知っているというコミュニティ外の結び目に依拠していたことになる。本文でも書いているけど、こういうことは洋の東西を問わず、また言語の性質なども一切問わず、知的な社会性動物としてのニンゲンにもともと備わったものなのかもしれないね。