「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
ヒサビサロップンダイ。

先週は丹沢湖を周回するランニングイベントに参加して、ハーフマラソンを走ってきた。今シーズン最初のランニングイベントである。春から続けているダイエットの効果がどのくらい現われるか、いや、実際は夏以降にリバウンドしてしまい、ダイエットの効果もたかが知れてる感じなのだけど、それも含めて、楽しみにしていたランニングだった。
結果的にはなかなかいい記録だったと思う。
タイムとしては、2時間14分。1キロ当たりのタイムは6分16秒で、6分台前半で走れたのは、ここ最近はなかったと思う。
このイベントは毎年参加していて、これまではずっとさきこと並んで走るようにしていたけど、今回はぼくの調子が良かったので、速めのペースで先行させていただいた。

 

天気が良くて、丹沢湖の向こうに富士山が見えるような日。この時期にしては気温が高くて、走っていて暑くなるほどだった。
10キロを超えたところでタイムはちょうど1時間。ハーフマラソンで10キロを1時間で走れたのはホントに久し振りである。ちょっと嬉しくなった。
しかし、15キロ辺りから疲労が増してきて、ペースが落ちてきた。まあ予想はしていたけど、それでも6分後半程度を維持できていた。
最後の数キロはホントにキツかったのだけど、久し振りにいい記録が出るかもしれないとの思いから、最後まで6分台で走ることができた。
やはりダイエットは無駄じゃなかったね。

 

いいタイムなんて言っても、ぼくのベストタイムには到底及ばない。ダイエットは無駄じゃなかったと言っても効果は限定的である。こんな記録でいい気分になってるのは逆に恥ずかしいことである。
でも、気持ちよく走れたし、低迷していたここ最近の中ではいいタイムだったので、まあ良しとしようと思う。
問題はこれからもダイエットを継続して、1月のハーフマラソンでどこまで走れるかである。

 

ちなみに、次回のハーフマラソンは横田基地を走るフロストバイトである。ぼくのベストタイムはたしかこのイベントで出たんじゃなかったかな。
ぜひ、いい記録を出したいものである。そのためにも筋トレをしつつ、食事制限も継続しつつ、そしてランニング練習もしないといけないわけである。
12月と正月休みが勝負かな。

最近はどうも仕事が忙しくて、休日出勤もあるし、年末年始休暇中に久し振りに巨大なXデーがあるので、ランニング練習もままならないと思うけど、モチベーションだけは維持していきたいなと思うのだった。

 

※ところで今回のランニングでは、新調したGPS腕時計を使用した。衛星と通信して走行距離やラップタイムを計測してくれるやつである。これがないと、自分のペースが分からなくて、ランニング中のタイムと沿道の距離表示からペースを算出するためにずっと頭の中で割り算をしていないといけないのだけど、この腕時計のおかげで、そういう煩わしさから解放されている。
少し値が張る買い物だけど、もはやぼくのランニングにはなくてはならないツールである。

※ランニング前に湖畔の駐車場から。中央に白い富士山が見える。

| Be RUNNER! | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0)
シャープペンを求める旅、最終章?

以前からぼくがシャープペンを探し求めていることをこのブログに書いてきた。
高校生時代にふと立ち寄った文房具店で300円ほどで購入し、大学試験も就職試験も共に乗り越えてきたこのシャープペンは、最近は絵なぞの主線を描くのに使っていて、それがなかなかいい感じなので、これからも使い続けていきたいと思っていたのだけど、否が応でも老朽化の波が押し寄せるわけで、ある日突然使えなくなってしまうリスクに対応するため、このシャープペンに代わる別のシャープペンをずっと求めていた次第である。
しかし、愛用のシャープペンと同じような長さ、太さ、重さ、バランスなどを兼ね備えたシャープペンはなく、もちろん数十年も前に文房具店で買った安物のシャープペンだから、今ではどこにも売っておらず、苦心してきた。
愛用のシャープペンに代わると思って購入したのに、長過ぎたり、太過ぎたりで、なかなかいい製品はない。あるシャープペンは、長さ、太さ、重さ、バランスともになかなかいい感じだったのだけど、どういうわけか芯がポキポキ折れた。筆圧を強めたいところで、愛用のシャープペンなら折れないのに、そのシャープペンは芯が折れるなんてこともあった。

 

最近は筆記用具としてのシャープペンはあまり使われなくなったのか、文房具店内でも売り場面積も非常に狭くなった。さらに、機能性シャープペンとも言うべき、たとえば芯が回転して常に一定の太さになるよう工夫されていたり、芯を出すのに持ち替えてノックしなくていいようにそのまま上下に振ると芯が出たりと、ぼくにはあまり必要のない製品ばかりが売り場を占めるようになってきた。ぼくが欲しいのは、もっと素朴なシャープペンなんだけどな。

また、万年筆のペン軸を木材で作るというとある職人と知り合いになった折、シャープペンも木製で作れないかと思ったことがあった。愛用のシャープペンを破壊して、ペン先とノック部分を取り出して、新たに作った木製ペン軸に流用するのである。職人は快く引き受けてくれたのだけど、もし失敗すれば、愛用のシャープペンをも失いかねないという危険な賭けで、あまりのリスクにずっと保留したままにしている。

 

そんなある日、さきこと横浜の東〇ハ〇ズに行き、文具売り場でふと見かけたシャープペンがあった。木材でペン軸を作ったシャープペンである。木材で作った筆記用具と言えば、ウイスキーの酒樽を再利用して作ったシャープペンを以前仕事で使っていたけど、今回見つけたのはこれと似たいわゆる「企画モノ」の商品のひとつで、北米のメイプル材をペン軸にしたシャープペンである。
もしかしたら・・・という期待をもって購入してみた。

ペン軸に落下防止のクリップがついていて、これは絵なぞを描く時に邪魔になることもあるので、何の迷いもなく、これをポキッと折って、金ヤスリを使って切断した断面をキレイに整えた。これが果たしてどういうタッチを見せてくれるのか。

 

つい先日、絵なぞを描く機会があった。今年に入って4枚目になる作品である。今回のモチーフはオオカミ。来年の干支にちなんでイヌのモチーフを描きたいとは思っていて、先々月に柴犬の絵などを描いたけど、それとは別にオオカミも描きたいと思っていた。数年前に描いた絵なぞは、ライオンと門をモチーフにして「ライオンズ・ゲート」なんて題名を付けてみたけど、同じように「ウルフズ・ゲート」なんて、オオカミの他に何らかのゲートっぽいモチーフが必要で、今回は金網に囲まれたフェンスのゲートをモチーフにしてみた。自宅近くにある米軍住宅地のフェンスをイメージしてみた。
描き上げてみるとさほど複雑でもないのだけど、金網の描写を工夫したり、オオカミの正面からの顔を研究したりと、結構苦労した一作である。
その主線に新しく買ったシャープペンを使ってみた。
オオカミの描写など、時に強くて太いタッチが必要なんだけど、新しいシャープペンはこれに見事に答えてくれた。
まさに愛用のシャープペンと変わらない筆致である。まあ細かい点を言えば、愛用のシャープペンの方がいい部分もあるのだけど、こうして1枚の絵なぞを描き上げられる程度には「使える道具」だと思う。
ついに探していたシャープペンと出会うことができた・・・と言っていいのか。どうだろうなー。あと数枚は描いてみないと分からないけど、新しい相棒を得た実感は確かにある。もしそうなら、ぜひあと数本は揃えておこうと思う。また何十年も経って、シャープペンが老朽化した時に移植して使えるようにしておきたいからね。いや、そんな先までシャープペンで絵なぞを描いたりしてるのかな。新技術の画材が出て、シャープペンなんて大昔の道具みたいになっちゃってないかな。もしかしたらそうかもしれないけど、そんな未来になってもシャープペンを大事に使ってお絵描きをしているぼくでありたいな、とも思うのである。

※描いた絵なぞはこんな感じ。

※上が愛用していたシャープペン。下が新しい相棒(?)のシャープペン。

 

| 日記 | 14:47 | comments(0) | trackbacks(0)
考えない葦はどこへゆく?

先日の新聞に「量子コンピュータの開発に多くの日本企業も関わるようになってきた」なんて記事が載っていた。最近ニュースなんかでよく見かける量子コンピュータだけど、ぼくはその知識をあまり持っていない。AIとか量子コンピュータとか気になる話しなので、ちゃんと本を読んで知識を得ておきたいと思ってはいるんだけどね。
量子コンピュータは、スーパーコンピュータの何倍、何十倍、いや何千倍もの能力があるそうで、スーパーコンピュータで数千年はかかるだろうと思われる計算を数分でできてしまう能力があるんだそうな。そりゃ、スゴいわ。ぼくの自宅のパソコンの比ではないし、それは計算能力のうえではニンゲンの脳みそすら超越してるんじゃないだろうか。
もし量子コンピュータが実用化されたとして、そんな高い計算能力の量子コンピュータが出した答えは、もはやニンゲンには検証不可能なんだろうね。「量子コンピュータがそう言ってるのなら正しいのだろう」なんてことになるんだろうな。なんせぼくだって最近はエクセルの表計算の検算なんてついぞしなくなって「エクセルがそう言ってるんだから正しいんだろう」って思ってるくらいだから。

 

さて、そんな量子コンピュータの能力がニンゲンでは計り知れないほどになってしまったら、一体何が起こるんだろうか。
ぼくが真っ先に思いつくのは、暗号解読である。現代社会ではウェブ上の電子取引が盛んで、その中で重要な個人情報やクレジットカードの情報を保護しているのが、暗号である。以前読んだ本に書いてあった話しだけど、2つの6桁の素数を掛け算して得た12桁の数字が暗号化のカギになるんだそうな。そして掛け算の元になった2つの6桁の素数が、暗号を復号化するカギである。暗号化のカギになる12桁の数字を傍受したとしても、それがどんな数字を乗じたものかを割り出す素因数分解にはかなり時間がかかるそうで、現在のスーパーコンピュータでも数十日程度はかかるんだそうな。時間をかけてやっと暗号解読ができるようになっても、その頃には電子取引は完了しているし、暗号化・復号化のカギは既に別の数字に変わっているので、つまり電子取引の安全性は担保されるわけである。
しかし、スーパーコンピュータで時間のかかる計算も量子コンピュータならお茶の子サイサイだろうから、近い将来の話しとして、電子取引はその安全性を失うハメになってしまうのではないだろうか。もはやウェブでの取引なしには生活や経済活動が成り立たない世の中で、暗号がその意味をなくしてしまうのだ。量子コンピュータの実用化は、そんなオソロシイ一面もあるわけである。ちなみに量子暗号などという究極の暗号技術も研究中だそうで、「量子コンピュータが先か量子暗号が先か」みたいな展開になっているわけである。

 

量子コンピュータが物凄い計算能力を発揮して、暗号すら簡単に解かれてしまうことを思うと、今度は数学の諸問題のことを思い出す。数学にはニンゲンの英知ではまだ解明することのできていない問題がたくさんある。以前ぼくが読んだ本は、数百年もの間その答えが出ていなかった「フェルマーの最終定理」の話しだった。
数学にはまだ解明されていない問題が他にもたくさんあって、数学者はこれを何とか解こうと日々研究を続けているんだそうである。
そんな中、最近はいくつかの数学問題が解明されている。そのひとつがいわゆる「四色問題」である。ぼくは「白地図問題」という名前で記憶しているんだけど、たとえば日本の白地図を色で塗りつぶそうとするときに、それぞれの県がごちゃごちゃにならないように「隣り合う県は同じ色で塗らない」というルールを課した場合、手元に何色あれば足りるかという問題である。「四色問題」というくらいだから、答えは「4色」なんだけど、これが長年数学的に証明されないできた。多くの数学者がこの難問に取り組んだのだけど、最後の一手がどうしても証明できなかったそうな。そこでコンピュータを用いてこれを解析させ、結果として「どんな図形の並びであっても、4色あれば色分け可能である」という結論を得て、四色問題は解決したのである。
長年の問題がついに解決したのだから、きっとその解決の先には素晴らしい数学的真理があったに違いない・・・と思ったところ、解決にコンピュータを使って計算をしたので、その結果に至る中で数学的な発見はなかったそうなのだ。プログラムが正しければあとはコンピュータが計算するだけで、まさにそれは「コンピュータがそうだと言ってるのだから正しいのだ」「コンピュータが4色だと言うのだから4色なのだ」というわけである。
上述した内容は、ぼくの記憶を元に分かりやすく書くために端折ってる部分もあるので、正確な記述ではないかもしれないけど、要するに数学的問題もコンピュータによる「力業」で解決させることができるという話しである。しかしそれは単に「その問題の答えを得た」に過ぎないわけで、そこに数学的な知見はない。白地図を塗りつぶすのに必要な色の数は4色である・・・って分かったところで、それが役に立つのはまさに白地図を塗りつぶす時だけである。本来ならきっと幾何学的な真理が隠されていたかもしれないものを、ただ答えを得るためだけにコンピュータを使うことで、その裏にある知見に触れることはできない。そんな風に答えを得る数学の研究に意味はあるのだろうか。
数学だけでなく、学問の研究の意味とは、研究によって得られた知見がさらに新しい問題を提供し、これを解明し続けることで、知見がどんどん積み重なっていくことだろう。目の前の数学的問題は、その答えを出すこと自体に大きな意味はないというわけである。
この先、量子コンピュータがホントに現実となったらどうなるのだろう。
どんな複雑な問題でもすべて量子コンピュータが解決し、ニンゲンはその過程に触れることはない。量子コンピュータの出した答えを盲信するだけで、その裏側にニンゲンの知見を大きく飛躍させる真理が隠されていたとしても、気づくことはない。ただ答えを得るだけである。それはなんだか危険な感じがする。

 

そもそもニンゲンが考える、思考するというのは何なのだろう。
ぼくが思うに、ニンゲンの思考とは「仮定に仮定を積み重ねて真理を導くこと」だと思っている。たとえばAという仮定とBという仮定を組み合わせて考えて、Cという答えを得る。これを現実に当てはめてみて、これが正しかった時に、その前提であるAもBも正しいということになる。ニンゲンが得てきた知見はずっとそんな思考の連続だった。
そんな思考の連続という話しでぼくが思いつくのは、進化論である。
進化論とは詳細な点で依然として議論はあるものの、大雑把に捉えればもうほとんど真理として定着している考え方である。「生き物は環境に適応するためにその形態を変化させてきた」とする考え方だけど、一方で実に大事なことは「誰もその進化が起こってる現場を見たことがない」ということである。世界にはさまざまな生き物がいて、それぞれ環境に適応してそのさまざまな形態に至ったわけだけど、どれも「適応して得た結果」に過ぎない。ダーウィンがガラパゴス諸島に行って、同種の生き物なのにその形態がさまざまなカメやら鳥やらを見て、「環境に適応して形態を変化させてるのでは?」と思っただけで、目の前でカメの甲羅がぐにゃーっと変化したり、鳥のくちばしがびよーんと変化したわけではないのだ。目の前にある「結果」という事実をもとに仮定に仮定を重ねて理論構成して進化論という答えを得たのである。
ニンゲンの思考とはそういうものである。
その思考の結果は、本当の意味での真理ではないかもしれない。しかし、その思考の過程ではさまざまな発見があり、ニンゲンの科学を進歩させた。そして更なる思考が、当初の思考を超える新しい知見を生むこともある。
たとえばニュートン物理学である。万有引力の理論から派生して思考を重ね、地球を回る惑星の動きを正確に予測する理論を得た。惑星の動きにどんな理論が根底にあるかなんて誰も見たこともないところを思考により予想して独自の物理法則を得たのである。これによりニンゲンはこの世に底流する原理を垣間見たのだ。
しかし20世紀初頭に相対性理論が提唱され、ニュートン物理学は「真に正しいとは言えない」ことになってしまった。いやいや、相対性理論だって「今のところ正しそう」というだけで、科学が発展していく中で、より良い理論が出てくるかもしれない。しかし、相対性理論によって宇宙開発など、科学は飛躍的に進歩したのだ。思考の連続はそれが正確ではないとしても、その過程でニンゲンにさまざまな知見を与えてくれるのだ。
もっと簡単な話しだけど、たとえば「ニューヨークにピアノの調律師は何人いるか?」なんて問いがあったとする。いや、想像もつかない。普通に考えたら分からない話しである。しかし、仮定に仮定を重ねて考えていくと、それなりの数字を得ることができる。当てずっぽうにいきなり「100人!」とか言うんじゃなくて、「ニューヨークにピアノは何台あるだろう?」「ピアノを所有できる経済的能力、つまり裕福度ってどのくらいだろう?」「ある所得層以上がピアノを所有できるとして、その所得層はニューヨークにどのくらいいるだろう?」「そもそもピアノの調律って年に何回くらい必要なんだろう?」などと思索を深めて仮定を重ねていくことで、当たらずも遠からぬ回答を得ることができる。これをコンピュータにやらせようとしてもダメだろう。彼らに言わせれば、「ニューヨークにいるピアノの調律師の数を知りたければ、電話帳を見るしかない」というわけである。

 

量子コンピュータが開発研究され実用化を果たし、これに合わせてAIの研究も進んでいく中、ニンゲンは思考を積み重ねることができていくだろうか?進化論や相対性理論のような、実際は分からないけど、現実的には正しそうな思考の結果を得ることはこれからもできるんだろうか。自分では思考しているつもりでも、実は量子コンピュータやAIにお伺いを立てて、その言う通りにしか動けてなかったなんてことがあるんじゃないか。ぼくが「エクセルで計算したんだから検算は不要だろう」なんて言って、うっかり合計範囲を間違えていたなんてこともあるわけである。
これはSF小説やマンガなんかでもさんざん採用されてきたネタだけど、ニンゲンが将来思考するのをやめてコンピュータの言う通りにしか動けなくなった中、コンピュータが提示した「ニンゲンは地球にとって害悪でしかないので、絶滅させるべき」なんてことを信じて自分たちを攻撃するようになるなんて話しがなんだか現実になりそうな気もしなくもない。ニンゲンが思考をやめた時に、もはやニンゲンは人間性を失うんだろうな。それはコンピュータに飼われた家畜でしかないということである。

 

ニンゲンの存在とは何かを考えた哲学者はたくさんいて、その中で「ニンゲンは考える葦である」と言ったのはパスカルである。ニンゲンが考えること、思考することをやめてしまったら、ホントに文字通りただの葦と変わらなくなってしまう。「考えないニンゲンはただの葦である」というわけである。
ここまで考えて、そういえば某ジブリアニメにも「飛ばない豚はただの豚だ」なんて言うシーンがあるけど、これがパスカルの哲学思想を意識して言い換えたような感じがして、なんだか含蓄のあるセリフだなーなどと思ったものである。

| 日記 | 09:02 | comments(0) | trackbacks(0)
出雲弾丸出張

先日、島根の事業所に出張に行ってきた。朝一番の飛行機に乗って現地に行き、午後から仕事して、夕方に帰ってくる強行軍だった。まあ現地での仕事はさほど長くかからなかったので、こういうこともできたわけだけど、仕事を終えて帰る時が大変だった。

※朝の出雲空港。かなり曇ってるなー。八雲立つ?

※仕事帰りに少し虹が出た。なんだか神々しいわ。

 

仕事を終えたのが、16時過ぎ。取引先を駅まで送迎して、少し早めにフリーダムを得た。この日はこのまま帰るだけという状況になり、しかし飛行機の時間まで若干の余裕があった。
ここはひとつ、出雲大社まで行ってみよう。
ぼくは高速道路に乗り、一路出雲大社を目指した。
高速道路を走っていると、太陽は中国山地に隠れ、辺りはどんどん暗くなっていった。宍道湖を過ぎれば出雲大社まで近いのかなと思ったけど、実際はそうでもなくて、宍道湖の端からさらに10キロ以上の道のりだった。ぼくは2回ほど宍道湖畔を出雲大社までサイクリングしているけど、そういえば宍道湖沿いの道を離れてからそれなりの距離を走ったことを思い出した。
出雲大社の近くに着く頃には辺りはすっかり暗くなっていた。観光名所で国内外からもたくさんの観光客が訪れる場所なのに、通りには人影もなく、お土産屋も早くも閉店しているようだった。
観光客用の駐車場も閑散としていて、もしかしたら既に閉まっているのかもとの不安もあったけど、とりあえず出雲大社の入り口まで行ってみることにした。
神社に入れる時間が何時までなのか、そもそも神社に営業時間的なものがあるのかどうか知らないけど、暗い参道の脇に灯篭が灯り、うっすらと石畳を照らしていた。とりあえず中には入れるようだった。
暗い神社には、強い風が吹いていて、巨木の枝がしなって唸り声をあげているようだった。風に吹かれてとても寒かったけど、真っ暗な神社に来る機会もそうそうないもので、しかもそれが出雲大社であればなおのことだから、それで少しテンションが上がっていたのか、あまり寒さは気にならなかった。10月の「神在月」を終えて、日本中の神様が帰っていった後の、まさに「祭りの後」的な神社は、独特の、何やら不気味な感じさえするのだった。
拝礼では、いわゆる「四礼四拍手一礼」(一拝祈念二拝四拍手一拝)で、たしかお賽銭箱の近くに記載されていたような気がするのだけど、既に暗かったので分からず、四拍手だけは覚えていたので、手を4回打ってお祈りしてきた。
お袋さんにお守りをいただいて帰りたくて、でもどの建物も灯りは灯っているものの戸は閉じられていたのだけど、何とかひとつだけ戸を開けてお守りを並べていたのを見つけ、無事お守りをいただくことができた。
またこのまま社殿をぐるりと回ってみようかと思ったのだけど、社殿の裏側に続く道にはロープが張ってあってこれ以上行けないようだった。残念。
それでも通常は参拝しないような時間帯に出雲大社に行くことができ、独特の雰囲気を味わうことができて良かったわ。

 

※暗い境内の様子。一種不気味な独特の雰囲気。

 

※ところで神在月は旧暦の名称なわけで、旧暦で運営されている神社での神在月の期間は今の暦とは当然異なる。先ほど調べてみたら、今年の神在月を調べてみたら、11月28日から始まるんだそうな。なんだまだ神在月じゃなかったんだ。「祭りの後」ではなくて「祭りの前」だったわけだね。そう思うと、独特な雰囲気にも何か違う意味が加わる感じ。

 

ぼくは出雲大社を出て、出雲空港を目指した。この時点で18時前である。
ここからが長かった。
飛行機の出発時刻である19時半よりもかなり余裕をもって保安検査場を通過し、あとは飛行機に乗るだけという段になったんだけど、出発時刻の20分前になっても10分前になっても搭乗が始まらなかった。アナウンスによると飛行機の到着時刻がかなり遅れていて、運行時間に大きな遅れが出るとのことである。何しろぼくが乗るべき飛行機が未だ羽田空港から到着していないのである。
ちょうど疲れていたこともあって、少し居眠りをしつつ、それでも飛行機はやって来ず、待ち草臥れたところでやっと飛行機が到着、その数十分後には搭乗できることになった。やれやれ、1時間遅れである。
羽田空港に到着すると、既に22時近くである。ここから京浜急行で最寄り駅まで座って帰れるなーなどと思っていたら、今度は川崎で停車したまま動かなくなった。
どうも人身事故のようである。復旧のめどは立っていないそうで、JRなどの振替輸送も始まっているようだった。しかし天下の京急である。きっと早めに復旧してくれると思った。同じ電車に乗っていた人も同様の思いで、誰も席を立たずに我慢強く座っていた。復旧の目途の立たない事態でも、案外早めに復旧できたりするのが京急だからね。
しかし、今回はなかなか復旧しなかった。アナウンスの内容は依然として復旧の見込み立たずの内容である。
時刻は23時を過ぎた。これはダメかも分からない。このまま待って日を超えるのは避けたいと思い、ぼくは重い荷物を担いで電車を降りたのだ。
JR川崎から桜木町を経て、地下鉄で自宅近くまで帰ってくると、時刻は既に0時を超えていた。
いや大変だった。19時前に出雲空港に到着してから、7時間もの時間が経っていた。当初は22時過ぎには自宅に帰れる予定だったのにね。
思えば、飛行機が遅れなければ、京急の運転見合わせの前に最寄り駅に着けたハズで、そう思うとなんだか釈然としない感じである。まあ飛行機ってのは遅れるものだけどね。

 

そんなわけで、去年のサイクリング以来の出雲の旅であった。まだ月曜日である。これから長い、キツい一週間を過ごすと思うと、もうそれだけでゲンナリするのである。
しかしそれでもあの独特な雰囲気を醸していた出雲大社の参道を思い出すと、なんだか頑張れそうな気がしてくるので不思議なものである。

| 日記 | 13:57 | comments(0) | trackbacks(0)
「基本、禁止」は基本、禁止です。

最近のニュースで見かけたのだけど、最近の中高生は教科書や新聞に書かれるような長い文章の読解力が低下傾向にあるんだそうな。中高生を対象に実施されたテストで、読解力の低下を示す結果が出たんだそうな。
ニュースに書いてあったそのテストというのは、以下の3つの例題である。

 

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【例題1】
「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」
問:上の文が表す内容と下の分が表す内容は同じか、「同じである」「異なる」のうちから答えなさい
※出典:東京書籍(株)中学校社会科教科書「新しい社会 歴史109P」

 

【例題2】
「Alexは男性にも女性にも使われる名前で女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある」
問:この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい
「Alexandraの愛称は(  )である」
(1)Alex (2)Alexander (3)男性 (4)女性
※出典:開隆堂出版(株)中学校英語科教科書「Sunshine3」

 

【例題3】
「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアに主に広がっている」
問:この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい
「オセアニアに広がっているのは(  )である」
(1)ヒンドゥー教 (2)キリスト教 (3)イスラム教 (4)仏教
※出典:東京書籍(株)中学校社会科教科書「新しい 地理」36P

 

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ちなみに、【例題1】は「異なる」が正解で、正答率は中学生57%、高校生71%。【例題2】は「(1)Alex」が正解で、正答率は中学生38%、高校生65%。【例題3】は「(2)キリスト教」が正解で、正答率は中学生38%、高校生65%だそうな。
どの問題も正答率80%程度を想定して作られたというのだから、正答率が5割を割り込むのはなかなかショッキングな結果といえるだろう。たしかに読解力が低下していることを示す結果である。
ところでぼくはドキドキしつつも、なんとか3問とも正解だった。

 

さて、昨今の若者が学習能力が低くなっているなんて話しは、結構前から聞いていたことで今さら大騒ぎするようなものではないのだけど、今回のニュースから浮かび上がる特筆すべき特徴はなんだろうと考えてみた。
ぼくの見たところ、この問題はどれも「、」が関係している。
前の文章と次の文章を繋ぐ「、」がどういう意味を持っているのか、どういう繋がりなのか、あるいは何が省略されているのかが問われているわけで、それを理解していれば、正解が得られるというわけである。
つまり、この問題の正答率が低いということは、ぼくが考えるに、最近の中高生は「、」で繋げられた長文のセンテンスを理解するのが苦手なのではないかと思ったわけである。

 

もしそうだと仮定して、何か原因らしきものは考えられないだろうか。
そこで思いつくのは、最近のコミュニケーションの仕方である。近年のコミュニケーションツールの変化はとにかくスゴい。思えば30年も前の頃は、遠隔の相手と連絡するには、郵便で手紙を送るか、直接電話をするしかなかった。電話は手紙より比較的手軽のようで、結構ハードルが高い。高校生の頃にさきこの実家に電話する時は電話に親が出るんじゃないかとドキドキだったし(いや、実際、さきことお父さんばかりが電話口に出たものである)、こちらも相手も親が監視しているから長電話なんてできなかった。電話でゆっくり語らうなんて、あり得ない世界だったわけである。
その点では、手紙は良かった。書きたいことをそのまま書いて送ることができた。しかし当時は若気の至りで、とんでもないことを書き連ね、今読むと恥ずかしくて悶死するほどの手紙を何通もやり取りしたものである。
しかし、時代が進むにつれて、文明の利器がコミュニケーションの方法を変えていった。
ポケベル、携帯電話、ショートメール、文字数制限のない長文メール、チャット、ツイッター、そしてスマホの驚異的普及によりメッセージアプリが数多く出てきたのである。電話をしても、電話口に本人以外の人が出ることはまずあり得ないし、メールもタイムラグなく本人に届く。最近のメッセージアプリなんかでは、文字で会話をしているような即時的なコミュニケーションが可能である。そしてこのメッセージツールが、コミュニケーションを文字形式から会話形式にどんどん変化させていく。これにより書き言葉に触れる機会がどんどんなくなっていくのだ。
ぼくはこれが長文センテンスの読解力の低下と関係しているように思うのだ。

 

たとえば、メッセージアプリで「週末の日曜日に相手と映画に行く」という誘いの連絡をするとする。
自分「こんばんは」
相手「こんばんは〜」
自分「冷えるね」
相手「そうだね、寒くなってきたね」
自分「あのさ」
相手「なになに?」
自分「今度の週末、ヒマ?」
相手「週末って、土曜日?日曜日?」
自分「えっと、ヒマな日はどっち?」
相手「うーん、どっちかって言うと、日曜日かな?」
自分「そっか」
相手「なに?」
自分「スターウォーズって好き?」
相手「え・・・ああ嫌いじゃないけど?今度映画やるよね」
自分「そうそう。それでね」
相手「うん」
自分「一緒に観に行かないかなーと思って」
相手「ああ、うん。そうね。ちょっと待って。時間にもよるかなー」
・・・ってここまで書いて、あまりに長々しくて、コイツら一体いつになったら映画に行けるんだと思ってしまったわ。映画を観に行く約束くらい2、3言で済ませろよって思うけど、ここまで長々しい会話が必要になったのは、やはり文字コミュニケーションの機会が減少しているからだと思うわけ。
文字で書くとすると、たとえば「今度の週末、もしヒマなら映画に行きませんか?スターウォーズの新作やるんだけど、興味ある?」なんて書けば済む話しである。会話で相手の出方を探りながら冗長な会話をするのは、非常にマドロッコしいのである。いや、これが付き合い始めて間もない二人だったら、こういう会話が楽しいのかもしれないけど、ね。
こんなマドロッコしい会話をしていたら、きっと永遠にスターウォーズを観に行くことはないだろうな。

 

この話し言葉によるコミュニケーションに関係して、最近どうも気になっていることがある。
「基本、禁止です」という言葉である。
この言い回しがどうしても気になるのだ。まず、「基本」ってなんだ?そして「、」はどういう意味なんだ?禁止事項を伝える結構大事なメッセージなんだから、分かりやすく、伝わりやすく書くべきで、「基本、禁止です」なんて書かれるのはどうも好きではない。「基本、禁止」の「、」は話し言葉を前提として存在する「、」なのである。文章にする言葉なのに、会話形式に過ぎるのではないか。
ぼくは会社の仕事でも何かルールを作ったり、注意喚起をしたりすることが多いのだけど、それでも「基本、禁止」なんて書かない。ぼくは「原則として禁止です」と書くようにしている。

 

とは言え、ぼくもすべての文章で分かりやすい、伝わりやすい言葉遣いができているわけではない。ブログを書いていても、話し言葉のように「、」を使いたくなる時がある。「先週の日曜日、ぼくはキャンプに行った」なんて書くことも多い。前後の関係で分かりにくい時には「先週の日曜日のこと、ぼくはキャンプに行った」とか「先週の日曜日だけど、ぼくはキャンプに行った」という感じで、前後の文章の関係性をなるべく分かるように書くようにしているけどね。

 

そんなわけで、話し言葉が文字コミュニケーションの中に大きく進出してきた中で、読解力の低下という結果を招いているんじゃないかと思うわけである。その代表的な例が「基本、禁止」という言い回しというわけである。
そんな状況をさて、どうしたらいいのだろうか。
そもそもこんな問題は外国ではおこらないのだろうか。外国語は日本語と違って、話し言葉と書き言葉に大きな違いはない。話し言葉のまま文字にしてメールで送っても、失礼でもないし、意味がおかしくなることもなくて、正しくコミュニケーションができる。話し言葉と書き言葉に表現上の大きな違いがある日本語だから、こういうことが起こるんだろうなと思うわけである。

 

スマホのメッセージアプリと似ているけど、最近流行りつつある「企業内チャット」というのも、ぼくは好きではない。ぼくの勤める会社ではまだ導入していないツールだけど、効率重視の企業においては、メールすらマドロッコしいツールに成り下がり、相手が見ているディスプレイに直接メッセージが表示されるチャットがさらに効率的なんだそうな。何かちょっと聞きたいことがあった時、ぱぱぱっとメッセージを打ち込んで相手に送れる。相手はそれを見て、メールのような定型文なしに答えだけぱぱぱっと返信するわけである。メールの冒頭に書くような「〇〇様」「お疲れ様です。〇〇課の〇〇です。」はもちろん、「お伺いの件ですが、そちらの〇〇課長に聞けば分かると思います。」「よろしくお願いします」なんて堅苦しい文章を省いて、もらったメッセージに「〇〇課長に聞いて」とだけ書けばいいわけである。
しかし、ぼくはどうも好きではない。
チャットなどの短文メッセージが多くなると、日本語の理解というもっと大事なものを犠牲にしてしまうような気がしてるのだ。企業は目先の効率性ばかり優先するけど、これによって自社の社員の日本語力が低下して、知らず知らずのうちにもっと大きな損失に繋がるんじゃないかと思うわけである。メッセージアプリが普及した昨今では、メールすらマドロッコしいツールになったけど、しかしそれが日本語の溶解を食い止める最後の砦になるんじゃないかとも思えるのである。

 

それでも、きっとあと数年後には、チャットの利便性に負けて、導入しちゃうんだろうな。ぼくが「日本語の溶解が〜」とか「日本語の読解力が〜」とか「目先の効率性よりも日本人として〜」とか言っても、無視されちゃうんだろうな。
だから、今から少しでも抵抗するのである。
分かりやすい書き言葉への追及をやめず、書きながらいつも自問するようにしたい。そして、「基本、禁止」などという言葉が標準的な言い回しにならないように少しでも抵抗したいと思うわけである。

| 日記 | 14:58 | comments(0) | trackbacks(0)
焦り、のち大感謝。

ちょっと焦ったわ。

さきこが先週土曜日に財布を置き忘れてしまい、これに気付くのになんと7時間ほども経過していて、これはさすがにダメかも分からんとなったんだけど、結果的には置き忘れた駅の駅員に届けられていた。幸い中身に何の影響もなく、おカネもクレジットカードも健康保険証もすべて無事だった。いや、良かったわー。
実はさきこはその前に自宅でもとある書類がなくなったと焦っていて、休日出勤に向かうぼくのバッグに入ってないかなんて聞いてくるほど焦っていた模様。これは結局、テーブルの下から発見されたんだけど、どうも夜中にネコが暴れてて、何かの弾みでテーブルの上に置いてあった書類を蹴落としてしまい、それがテーブルの下の見えないところに入っちゃったみたいである。大事な書類が見つからない焦りが、さらに焦りを呼んで、駅で財布を置き忘れる事態の遠因になったみたいである。
ぼくは外でも家でも会社でも、席を立つ時は振り返って指差し確認をするのだけど、さきこも指差しまではともかくそういう癖があると思っていたから、かなり意外だった。

 

「日本ではなくなった財布が手つかずのまま落とし主に届く」というのが、外国でも驚きと共に言われることがあるけど、今回はまさにそれを実感したエピソードである。
しかし、単純に日本人の誇るべき気質が発揮されたというだけの話しではない。マクロ視点ではそうかもしれないけど、ミクロ視点に立てば、こうして自分の財布が戻ってきたという結果の前提には、拾得者の大いなる善意が確かにあったのだ。「日本人は〜」などとマクロ的にさも当たり前のように思わずに、ここは真摯に拾ってくれた人へ感謝したいと思う。
本当に、本当にありがとうございました。

 

ちなみに、財布置き忘れのきっかけとも言うべき、大事な書類をテーブルの下に蹴り入れた犯人は、コウくんなのかフクくんなのか未だ判明しない。コウくんもフクくんもいつもと変わらない屈託のない瞳をぼくとさきこに向けてくるだけである。

| 日記 | 07:07 | comments(0) | trackbacks(0)
昔から変わらないゲームのルールって、実はスゴいかも。

先日、自宅近くを歩いていた時に思ったことである。学校の校庭でサッカー部らしき中学生がおそらく学校対抗かなんかでサッカーの試合をやっていた。
そういえば、サッカーって結構昔からあるスポーツだけど、そのルールってたぶん、ほとんど変わっていないだろう。100年前のサッカー選手とだって、今と変わらないルールでサッカーの試合ができるだろうな。
考えてみると、スポーツのルールって、基本的にはほとんど変わっていない。そりゃ、細かい点ではいろいろあるだろうけど、サッカーで言えば、「手を使わずに足だけでボールを蹴り、相手ゴールにゴールを蹴り込む」という基本ルールは変わっていない。野球だって同じで、「ピッチャーの放ったボールを相手チームのバッターが打ち返し、ベースを回って、ランナーがホームインすれば点が入る」という基本ルールは変わっていない。
これって結構スゴいことじゃないかと思ったのだ。
そりゃ、100年前と今では、体つきも違うだろうし、科学的視点での分析も進んでいるから、相対的な能力の面では今の方が高いだろうから、たとえばベーブルースが現代に蘇えったとして、今のメジャーリーグのピッチャーの放ったボールをぱっこんぱっこん打ち返せるかというと、さすがにそれは難しいのでは?と思ってしまうけど、ベーブルースと少なくとも同じルールで野球を楽しむことができる。
科学が発展して、より速いボールを投げられる投法とか、より遠くにボールを打ち返す打法は研究されているのに、ゲームそのものの必勝法、極端に言えば、どちらか一方が絶対的に有利になるような必勝法なんかは未だ開発されることなく、野球を100年前と同じようにプレイすることができるってのは、野球とかサッカーのルールが普遍的で如何に優れたものだったかが分かるというものである。野球やサッカーだけでなく、テニスやゴルフなんかも同じである。
またこれはスポーツに限ったことではない。カードゲームでも、同じことが言える。ポーカーの必勝法は未だ開発されず、より強い役にするため、手持ちのカードを交換するかしないかは、誰がやったって必ず悩むようにできている。51枚のトランプカードのどれが手元に来るか、交換するとどのくらい勝てる見込みが上がるかなど、確実に知る方法がないため、今でも100年前と同じルールでポーカーができるわけである。
それはポーカーのルールが普遍的で秀逸だという理由もあるけど、先ほどのスポーツのルールもそうだけど、果たしてそれだけなのだろうか。
まだ科学的に未発達だった時代に、スポーツやカードゲームなどで今でも通用する優れたルールが作られたというのは、何か鍵になる部分があるのではないだろうか。

 

ちなみに、以前某テレビ番組で放送していたけど、かつてある数学者がカードゲームのブラックジャックの必勝法を編み出して、これをカジノで試してみたところ、かなり高い勝率を得て、カジノへの出入り禁止になったなんて逸話を聞いたことがある。科学の発展でそれまでのルールでは立ち行かなくなる場合もまさにあり得るわけである。
それなのに、なぜ大半のゲームは今でも通用するルールが残っているのか。

 

これはそれぞれのルールに、人間ではどうしても分かり得ることのない、共通の要素があるんじゃないかと思うのだ。
それは「どちらが勝つか分からないドキドキ感」である。サッカーでも野球でもポーカーでも、勝負の行方を予測することができないため、どんなに知的能力・肉体的能力を高めたとしても、勝負に対する魅力は減少しないのである。勝負の行方を予想する思考を曇らせる共通の「何か」があるのだ。この鍵となる何か、人間がどうしても分かり得ない絶対領域とは何か。
ぼくはそれが「確率の計算」だと思っている。

 

世の中がこれほど発展して、ニンゲンの知的水準も高まっている中においても、放り投げて受け止めたコインが手の中で表になってるか裏になっているかを正確に予測することすらまだできないのだ。ピッチャーの投げたボールがどういう方向に来るか、あるいは投げられたボールをバッターが打つか打たないかは、相手には絶対に分からないのである。
宇宙にロケットを飛ばし、生物の住めない領域にさえその生息範囲を拡大しているほどの科学の発展をもってしても、確率を完全に掌握することはできていないというのは、なんだか奇妙なことである。
ニンゲンはスポーツやカードゲームが生まれるはるか前、それこそ狩猟採集生活をしている時から、いやもっと前からその生存を確率に支配されてきた。狩りに出かけて獲物を獲ってくることができるか、目の前のイノシシにあと5メートル近づくことで弓矢の命中率は上がり、しかし同時にイノシシに接近を気づかれる可能性も高まる中、あと一歩を踏み出すかどうか。生存競争の中で、ニンゲンだけでなく生き物すべてが確率の中でその生を紡いできたわけである。ニンゲンはその知的能力のおかげで、脆弱な肉体にもかかわらず、生存競争を勝ち残ってきた。それでもなお、生存競争の根本原理である確率を制することができていないのである。太古の昔から自然を制してきたニンゲンでも、まだ確率の支配から逃れることができないわけである。
しかし見方を変えると、確率を完全に把握しきれないことこそが、ニンゲンが未だ生存競争のただ中にいる証であり、つまり生き物であることの証でもあると言えると思うんだけどね。

 

ニンゲンを取り巻く事象は、いつも予測不可能で、突発的で、驚かされることばかりである。だからこそ、発想の飛躍も生まれるんじゃないかな。手のひらに握られたコインが表か裏かを予想する中で、「いや、表も裏もない。きっと直立してる!」なんて素っ頓狂な答えを出すヤツが出てくることこそが、予想を超えた展開であり、それが知的なブレイクスルーを生み出す素地になっているのではないだろうか。
まさにそういうところに科学の発展の種があるのだろう。いや、科学だけではなく、芸術の分野でも、突如として現れる天才は、それ自体が予測不可能な展開なのである。音楽でも絵画でも、その技術は長年のノウハウの蓄積をその基礎としているけど、素晴らしい芸術に欠かせない天才的な発想というのは、いつも突然やってくるのである。まさに確率予想のできない世界である。

 

スポーツやゲーム、芸術までもが、確率を計算できない欠陥みたいな特性に依拠していると思うと、なんだか妙な気分である。でも、それが世の中を楽しくさせ、常にイレギュラーを生み、種としての画一化を回避させ、環境適応性を高めていくことになり、結果として種としてのニンゲンの永続性を生むわけである。
サッカーの試合にハラハラドキドキしているうちは、まだニンゲンも生き物であり続けているというわけである。

 

ちなみに、前半で登場したブラックジャックの必勝法だけど、これは手持ち札と場に展開された札から、まだ隠れている札をコンピュータを用いて予想していくことで自身を有利にするというもので、テレビを観ていて「ああなるほどな〜」と思ったものだけど、これとまったく同じことを、以前勤めていた会社の役員の方が言っていた。
「麻雀なんて、手持ちの牌と捨て牌を見て、ちょっと計算すれば簡単に勝てるもんだよ、がっはっは!」
いや、ぼくは麻雀をやらない人だから基礎的な知識しかないけど、ちょっとした計算程度で勝てるようなら何百年も前から麻雀があるわけないよなーと思ったものである。しかしウワサではこの役員は学生時代から麻雀では無敵だったそうな。

| 日記 | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0)
千葉の時代。

千葉県市原市の養老川河岸の地層が、地質学における年代の名称「チバニアン」として命名される運びであることが分かったそうな。チバニアンとは、ラテン語で「千葉の時代」を指すそうで、ここの地層が77万年〜12万6千年前の時代の特徴を残しているんだそうな。当時は地球の磁場は今と正反対になっていたそうで、地球の歴史においては最後に磁場の逆転が起こった時代として、重要度が非常に高いんだそう。そんな時代の名前に千葉の名前が採用されるというのは、非常に名誉なことである。チバニアンの名前が、ジュラ紀や白亜紀などと並んで表記されるなんて、嬉し恥ずかし、こそばゆい感じである。
しかし、千葉というのがなんだか違和感を禁じ得ない。いやあくまで個人的な感想なんだけどね。なんだろうな、ちょっと表現しにくいんだけど、千葉という行政区の名称が地質学のような普遍的な名前に使われることの違和感というのだろうか。たとえば、千葉駅のある周辺でそういう地層が見つかったら、そりゃチバニアンでいいんだろうけど、千葉といっても房総半島の中央部辺りなわけで、そこはたまたま行政上の区画としてここを「千葉県」としているからに過ぎないわけで、この土地を千葉というのは、どうもしっくりこない。たとえば、養老川で発見されたことを根拠に「ヨウロニアン」とかなら、分からなくもないけどね。
あまりいい例じゃないかもしれないけど、たとえば伊豆半島の中央辺りで、地質学的に重要な発見があって、これに「静岡」の名前を付けるとしたら、どうだろう。いや、伊豆は静岡県にあるんだから、別に間違ってはいないんだけど、それでも「静岡」よりは「伊豆」の名前をとった方がしっくりくると思う。それと同じかどうか分からないけど、ともかく違和感があるわけである。

 

時代の名称だけではなく、さまざまな分野で国際的な学会が採用する名称というのは、地名を由来にしつつもっと狭い範囲というか、特定的な地域の名称を使っていると思う。
たとえば、ネアンデルタール人の名称は、ドイツのネアンデル谷から化石が発掘されたことが命名の根拠になっている。クロマニヨン人もフランス・クロマニヨン洞窟にその由来がある。時代の名前でも、ジュラ紀はスイス・ジュラ山脈にその語源があり、ペルム紀もロシアのペルミという地名に由来するそうである。
こうして見ると、地層の名前に千葉というのは、やはり違和感があるように思われるけど、さらに調べるとそうでもないことが分かる。
カンブリア紀の由来はイギリス・ウェールズのラテン読み、デボン紀はイギリス・デヴォン州、つまり行政区だよね。シルル紀やオルドビス紀はそれぞれイギリスの古民族の名称シルリア族、オルドウィケス族に由来するんだそうな。つまりまあ、命名については、結局なんでもありというわけである。
だからチバニアンという名称にあれこれ言うのは、難癖をつけているに過ぎないわけである。ぼくがどう感じようと、ね。

 

先に書いたように、なんでもありなのであれば、ぼくも少しは納得してもいいと思うのだけど、それでも違和感がなくならないのは、もしかしたら別の理由かもしれない。たとえば、「チバニアン」という言葉の語感から来ているとか。
そう思うにつけ、即座に連想するのは、つい数年前に幼児たちの間で流行したアニメ「妖怪ウォッチ」である。ここに登場するキャラクターのひとつが、たしか「ジバニャン」といったか。そうだ、チバニアンとジバニャン、ここに違和感の鍵があった。地質学上の名称という重厚なイメージとアニメのキャラクターという軽さの対比。これが違和感の正体かもしれない。せっかく国際学会が認めてくれた名前が、今や流行が過ぎ去ってしまったアニメの名前に似ているという衝撃の事実である。こりゃ、違和感もしょうがないね。

 

そんなわけで、今回のチバニアンの命名で、国際的にも名前が知られ、養老川にはたくさんの研究者や観光客が来るだろう。これをただの観光のネタにしないで欲しいなと思う。この地層が地球が歩んできた波乱万丈な歴史を生き生きと語る重要な場所であることをしっかり理解して保全に努めて欲しいなと思う。そう、観光の具にするあまり、変な看板とか立てないで欲しいわ。
「チバニアンの成り立ちをジバニャンが分かりやすく解説するニャン」とかね。

※これがジバニャン。・・・カワイイ。

| 最近のニュースから | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0)
星の下の火守人(ひもりびと)。

先週末は今年3回目になるキャンプだった。前回は富士山まで少し長めにドライブしてキャンプ場まで行ったけど、今回は初回と同じ場所、丹沢のキャンプ場に行くことにした。夏が過ぎて、紅葉も深まり、冬の足音が聞こえる中のキャンプなので、できれば近場で設備の整ったキャンプ場の方が安心と思ったわけである。
今回は、天気が良くていいキャンプだった。日中は日差しが出て、11月だというのにTシャツで過ごせるほど気温が上がった。しかし当然だけど、山の向こうに日が隠れてしまうと途端に空気に包まれた。

 

この寒い中ではやはり焚火である。
前回で焚火の楽しさを満喫したぼくは、今回も薪を2束ほども用意して、これをナタでばっさばっさと切って、焚火の準備をした。たぶん100本以上は用意したんだと思うけど、焚火が楽しくてあっという間になくなってしまった。
焚火をしている間、買ってきたチーズとワインでただ火を眺める時間を過ごした。さきこもぼくもただ火を見ているだけなのに、非常に充実して心が癒される思いだった。やはり焚火はいいな。
さきこはこの寒さに対応するために、ガスコンロ用のガス缶で点火するストーブやテントの床に敷く断熱マットやらを用意してくれた。断熱マットのおかげで睡眠にはまったく支障がなかった。寝袋で寝るのがとても快適だった。暑くもなく寒くもない寝袋での睡眠だった。

 

夕食はカレーである。そう、前回はカレーを食べようとして買ってきたのが実はシチューだったという悲劇があったけど、これをを繰り返さぬよう、ちゃんと確認してカレーを買ってきた。いや、スーパーの陳列はホントに分かりにくいわ。5段ほどの棚にカレー、シチュー、レトルトカレーの順で並んでいるのに、その境目がそれぞれの段で異なるから、たとえば2段目と3段目でカレー、シチューの境目が異なるわけで、カレーが並んでるすぐ下の段にシチューが並んでいたりするのだ。カレーを確認してその下段にあるのがカレーとは限らないわけである。前回とは別のスーパーでもこの並びなので、つまりカレー、シチューの陳列には、カレーかシチューかでは区分できない別の何らかの法則があるのかもしれない。
ともかく、前回食べられなかったカレーを食べられて、とても嬉しかった。いや、美味しかったわ。また今回はカレー以外の食材はさほど買い込まず、カレーの他は焼肉を少し食べただけで夕食を終えた。食材の適量というのもだんだん分かってきた感じである。

 

食事を終えて、焚火の続きである。火がゆっくり燃えていくのを見ながら、ふと視線を空に向けると、そこは満天の星空だった。いや、ホントはもっとたくさんの星が見えるものなんだろうけど、それでも自宅近くで見るのとはまったく異なる星空が広がっていた。山に囲まれているので、見知った星座を探すのに苦労したけど、ぼやっと浮かぶ星団なんかも見られて、多少暗い等級の星も見えているようだった。
たしか何十年も前に大学のゼミの人たちと一緒に蓼科の方までキャンプに行った時には、もっとたくさんの星が見えていたと思うけど、でもそれに近い満天の星は焚火で癒されたココロをさらに和ませてくれたのである。

 

今回のキャンプで残念だったのは、この天気なら富士山の麓のキャンプ場に行っても良かったかもしれないことである。きっとキレイな富士山が見られただろうし、夜は満天の星空を背景に黒い富士山が浮かび上がる景色、夜明けには富士山の向こうから朝陽が昇る景色も見られたかもしれないからである。まあ、少し残念なところがあった方が次のキャンプに期待が持てるというものである。
同様に、今後はぼくの焚火ももう少し役に立てられないか考えたい。たとえば焚火の上でお湯を沸かして、いつでも暖かいコーヒーやコーンポタージュが飲めるようにするというのもいいかもしれない。そんなキャンプグッズがあったら買っちゃうかもな。
さらに、今回は忘れ物が多かった。さきこが今回新しくランタンを購入したのだけど、これを引っ掛けるためのランタンポールを自宅に忘れてきてしまった。今までは光量が少ないランタンをかけていたけど、今回はガスランタンを購入し、これがなかなかの光量だったので、これを引っ掛けるランタンポールは、今まで以上に必要だったわけだけど、うっかり忘れてきてしまった。細かいものでも忘れ物が多かった。ぼくは事前に「持っていくモノチェックリスト」を作るのだけど、そもそもこのリストに書いてない。今後はこのリストの精度を上げる必要があるだろうな。

 

さて、次のキャンプである。
季節は完全に冬になる。そんな中でキャンプをする機会があるだろうか。ぼくもさきこも年末から年明け以降もちょっとバタバタが続くので、春まではキャンプはできないかもしれないな。次は3月か4月、そしてゴールデンウイーク辺りだろうな。
そう、季節と言えば、この時期のキャンプは寒い代わりに、夏のような暑さによる不快感や蚊やアブのような吸血昆虫の類がいないというのもいい点である。いやむしろ夏はキャンプのベストシーズンではないのではないかと思うほどである。まあ子供のいる家庭では、ナツヤスミにキャンプというのが定番なので、夏と言えばキャンプなのかもしれないけど、ぼくたちにはあまり関係ないことである。ぜひ暑くならないうちに、あと2回はキャンプに来たいなーと思うのだった。

 

※カレーを作るさきこと火守するぼく。

| キャンプライフ | 15:23 | comments(0) | trackbacks(0)
逆走の怪。

先日、会社から休みをいただいて家でゆっくりしていたら、夕方前に急きょ仕事の関係で秋葉原に行かなくてはいけなくなって、まあ天気も悪くて家でゴロゴロしていてもしょうがないので、クルマに乗って秋葉原に向かった。仕事は特に問題なく終わったのだけど、問題はその帰りである。
秋葉原に来た時には晴れていた天気が、どんどん悪化して、暗くなる頃にはかなり強い雨になった。仕事を終えたぼくは日が暮れて薄暗くなった秋葉原を出て、雨の中を運転した。夕暮れ過ぎの雨の運転はなかなか神経を使う。しかも秋葉原周辺は不慣れな道なので、物凄く注意をして運転したものである。
新橋方面から品川に向かう中、ようやく見知った道に出たところで、ふいに前方の影に気が付いた。自転車が走ってきた。雨の中で傘を差して、無灯火で、そして右側通行、つまり逆走で走ってきたのである。ぼくは片道3車線の中央の車線を走っていたので、ふいに現われた自転車に接触することはなかったけど、それでも非常に怖い思いをした。もし端の車線を走っていたら、自転車の接近に気付かず接触していたかもしれない。そう思うとドキドキしてくる。いや、怖い思いをしたものである。

 

それにしても、傘を差して、つまり片手運転で、無灯火で、逆走するというのは、ホントにどういう神経しているのだろう。自転車は交通弱者で、クルマの方に注意義務があるとは言え、これで事故が起きて、責任負担が多くなったりするのはどうにも納得がいかないわ。危ない運転をしていたのはどっちだよ!?と思う。

 

どうして逆走が減らないのだろうか。
法律では自転車は軽車両であり、車道を走ることになっている。ママチャリが歩道を走るのは、あくまで例外的なもので、車道を走行するのが原則である。車道を走行するのであれば、これも法律の定めで左側通行で走らないといけないわけで、右側通行は完全に法律違反なのである。この法律がどうもあまり浸透していないような気がする。
自転車は歩行者に毛が生えたような存在であり、だから歩道を走ってもいいし、いや歩行者が車道を歩かないのと同じように自転車も車道を走らない。歩道を歩く歩行者は右側通行とか左側通行とか特に決まっているわけではなく、歩道を自由に歩くこともできる。歩道が狭くて車道を歩いたりする時も、基本的にはどちらを歩いても構わない。さらに、歩行者に毛の生えたような存在である自転車も同様で、歩道から車道に出る場合でもどちらを走っても構わない・・・そんな間違った認識がかなり根深く浸透しているんじゃないだろうか。「自転車は車両である」という原則すら知らない人もいるんじゃないだろうか。
そこでふと思い出すのは、テレビコマーシャルである。いわゆる商業CM的なものでなく、某公益法人みたいにテレビコマーシャルで啓蒙することはできないものだろうか。いや、そもそも自転車を作ってるメーカーなどがその社会的責任の一環として、啓蒙のためのテレビコマーシャルを作ってもいいんじゃないかと思うのだ。
実際、世の中には逆走してきた自転車と接触して、悲劇的な展開になった人だっているだろうと思うからである。そしてぼくがその当事者になることだってあり得るわけである。

 

自転車に関連する産業において、日本企業は世界でも有数の企業を有している。自転車メーカーもそうだし、自転車の部品メーカーも世界で高いシェアをもっている。そんな企業がその社会的責任において、どうして啓蒙活動をしないのだろうとずっと思っていた。世界企業であるがゆえ、ちっぽけな日本での社会問題にあえて手を出すようなことはしないというスタンスでもあるのだろうか。

 

ちなみに、日本の道路は自転車が車道を走るのに適しているとは言えない。昔からどういうわけか、自転車が歩道を走る現状を許容して、逆に歩道を広げたり、側道がさほど広くなかったりする。首都圏の中でも自動車を念頭に置いて作られた交差点など、自転車で走るのはかなり危険な道路もあったりする。そんな道をママチャリも含めた自転車を走らせるのは、さすがに危険だろう。ママチャリに乗ったお母さんが、最近自転車に乗れるようになってフラフラ走る子供を引き連れて走ってる姿をたまに見かけるけど、彼らに「車道を走れ」というのは酷だろう。
そういう道路事情を慮って、自転車ルールの周知など啓蒙活動にちょっとした躊躇が出るのは分からなくもない。しかし、逆走は話しが別である。逆走だけで、それはもうかなりの危険運転行為なのである。
逆走する自転車を放置することで、自動車との接触事故が多くなり、同時にクルマを運転していた人が悲劇的な人生を送るなんてことに繋がるのである。既にかなり大変な社会問題になってると思うんだけどな。

 

秋葉原からのドライブ中に起こったぼくのヒヤリ体験は、悲劇的人生のほんの小さな前触れかもしれない。ハインリッヒの法則によれば、1件の重大な事故の背景には、29件の軽微な事故、そして300件のヒヤリハット体験があるんだそうである。雨で視界の悪い中、暗闇から突如現れた逆走自転車が、ぼくのヒヤリハット体験の300分の1になったことは確かである。
これからも注意して運転しないといけないなー。

| 自転車日記 | 12:33 | comments(0) | trackbacks(0)
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