「シュンスケニウムの原子量」の大統一バージョン
東京・仮装・マラソン。

先週は東京マラソンだった。さきこは前々日の金曜日にエキスポ会場で、ランナー受付のボランティアに参加したそうで、たくさんのランナーの方にゼッケンなどを渡して元気をもらったそうである。以前ぼくもさきこと品川駅近くの給水所でボランティアをやった経験があるけど、今回のさきこのボランティアはより多くのランナーとコミュニケーションができたそうで、非常に充実したみたいである。機会があればまたボランティアをやりたいと言っていたし、さらに東京オリンピックでも何らかのボランティアに参加してみたいそうである。
ちなみに、さきこ曰く「ボランティアの人に悪人はいない」のだそうな。うん、確かにそうかもしれないね。あえてボランティアをやろうという人なので、性格の良し悪しは別としても、根底には「人の良さ」があるんだろうからね。なるほど、そういう雰囲気の中にぼくも身を置いてみたいなーと思ってみるものの、いやいや、東京マラソンのランナー受付なんて、抽選に連敗しているぼくにはとても務まらないだろうな。ランナーひとりひとりがぼくを落選させた張本人のように見えてしまい、ぼく自身が自分のダークサイドに飲み込まれちゃうかもしれないからね。まさにそこは正気でいられない場所である。うん、自分のためにもランナーの方のためにも、ぼくはしばらくボランティアはやめておくかな。

 

さて、ここ数年のことだけど、東京マラソンの季節になると、このブログのアクセス数が実はちょっとだけ伸びる。ネット検索サイトからぼくのブログのある記事にアクセスが集中するのだ。
その記事とは「矢印キャップを作ろう」である。
そう、ぼくが2014年の東京マラソンに参加した際にランニングキャップに取り付けた矢印オブジェクトの作り方の記事である。ぼくと同じことを考える人は結構いるみたいで、記事をアップした2015年以来、2月のアクセストップ記事は毎年この記事である。
さらに今年が例年と違うのは、記事の中に表示してある作り方の図解を欲しいという人が現われたのである。ブログの中で画像を大きくできなかったために、「見やすい画像が欲しい人は個別にメールください」と書いていたのだけど、ホントにメールをくれる人はいなかった。ブログには作り方のほとんどをテキストで書いていたし、これを読めばまあ分かるだろうからね。でも、画像が欲しいという人がいるというのは、やはりちょっと嬉しいことである。
だからぼくはこの方のメールに早速返信し、「画像データは自宅のPCに保存されていると思うので、帰宅後すぐに送ります」と返信した。
しかし、画像が見つからないのだ。
自宅のパソコンはたしか東京マラソンに参加した年よりも前に購入しているハズなので、あるとすれば自宅のパソコンなんだけど、フォルダに画像をサムネイル表示して、すべてのフォルダを見たのだけど、どうしても見つからなかった。さらに10年くらい前からある外付けハードディスクに保存されている画像ファイルも見てみたのだけど、まったく見つからなかった。
その代わりにいろいろ懐かしい写真なんかも出てきて、たとえばお袋さんが弟の自宅に同居していた時に飼っていたネコ(名前をトラという)を抱っこしてるさきこの写真とかを見て、一気にココロを癒されてしまった。トラはコウくんと同じキジトラ柄のネコなんだけど、コウくんを上回る巨体だった。顔の可愛さはコウくんの比じゃないけどな・・・おっと、閑話休題。

 

そんなわけで、画像がなくて途方に暮れてしまったぼくは、まあ絶対に保存されていないと思いつつ、サーフェスの中のフォルダを確認してみた。主にブログを書くために使用しているサーフェスは、画像も保存されてはいるものの、自宅PCやiPhoneの画像をブログにアップするために複製を保管しているに過ぎなかったからである。サーフェスの中に自宅PCにはない画像が保存されているハズはなかった。
しかし、あったのだ。検索して数分で発見しちゃったよ。そうか、サーフェスに保存されていたのか。
そんなわけで、メールをいただいた方には、画像を画像を無事お送りすることができ、先方もたしかに受け取ったようである。

 

それにしても、この方は矢印オブジェクトを作ったのだろうか。そしてそれをランニングキャップに取り付けて東京マラソンを走ったのだろうか。すごく気になるけど、もし付けなかったとしたらなんだか残念な気持ちになるので、聞けないままでいる。マラソン運営のルールが変更になって、危険回避のために頭上に棒を立てるような仮装はNGになっちゃったのかもしれないしね。

 

こうして、今年も東京マラソンが終了した。
また東京マラソンの会員資格を継続して、夏頃から始まる会員抽選、一般抽選、二次抽選と3回の抽選を楽しみにしたいと思う。前回の参加からもう4年も経過してしまった。そろそろ出させていただいてもいいんじゃないかな。
次に出られた時には、前回同様また矢印オブジェクトを頭上に掲げて走ろうと思う。あの経験はランニング人生でもっとも幸せなものだった。ぜひあの経験をもう一度味わいたいと思う。
東京マラソン2019に向けたぼくの1年は、今また始まるのである。

| Be RUNNER! | 12:34 | comments(0) | trackbacks(0)
渋滞の中の善意の連鎖。

高速道路で渋滞はなぜ起こるのか?渋滞を解消する効率のいい方法はないか?
この問題はかなり昔から研究されているものの、未だ決定的な対策がないままである。ぼくも運転経験は少なくないのだけど、それでも三連休の最終日の午後にうっかり高速道路に乗っちゃったりして、何十キロもの渋滞で辛い思いをしたことが何度もある。それがランニングイベントやキャンプの帰りなど、疲れている時だったりすると、事故のリスクも大きくなるわけで、神経を使ってホント疲れるのだ。
さて、決定的な解決策がないといっても、まったく研究が進んでいないわけではないみたいで、最近は「吸収車」なる考え方が出てきている。
吸収車とは、渋滞の中にあって、渋滞を増長させるような要因を吸収するためのクルマである。やることは酷く単純で、車間距離を一定に保ち、かつ一定の速度で走るのである。急にブレーキなど踏むと、その影響はどんどん後ろに伝わってしまうので、ブレーキは極力踏まないようにする。車間距離を一定に空けておくと、その隙に入り込む輩が現われたりするけど、気にしないでその割り込んできた車両とまた一定距離を保ちつつ定速で走るのである。これが吸収車である。そしてこれが渋滞解消に大きく貢献するらしい。
実験によると、中央高速の渋滞の中に、9台の吸収車を投入して、先に書いたような走り方をしたんだそうな。すると、吸収車がない場合と比較してはるかに早くに渋滞が解消したんだそうな。
たしかに渋滞とは、坂道やコース蛇行など道路のレイアウトや走行する車両数のちょっとした増加など、ほんのわずかな要因が後続車でどんどん増幅されていくものなので、後続に配慮した走りもまた後続にいい形で継承されていくのだろうとは思うけど、吸収車がこれほど大きな影響を発揮するとは思わなかった。
しかし、どうだろう。吸収車は一体誰がやるのだろう。吸収車とはいわば自己犠牲である。自分は一定速度で走っているので、当然ながら進行は遅くなる。しかも車間が空いているために割り込まれたりすることもあって、少しでも早く目的地に着きたい人にとっては、魅力的な役割には全然思えないだろう。渋滞を自身が一身に吸収することを厭わない聖人のような境地が必要である。だからこの考えは根付かないだろうと思った。ぼくが吸収車をやれと言われたら、ちょっと嫌だしね。やはり少しでも早く着きたいために、車間を詰め、割り込みを避けるために車間が空いたら速やかにその隙間を埋め、そのためにはブレーキを踏むのもやむを得ないと思っている。
問題解消のための有効策であることは分かっていても、だからといってそれが現実的でないことはよくあることである。
だから吸収車による渋滞解消を根付かせるには、例えば渋滞の中に吸収車をやるためだけに車両を投入するとか、そのために無人の自動運転車を開発するとか、そういう方法しかないと思った。

 

ところで、ヤヤコシい話しなんだけど、ぼくは金曜日に休みをいただいたのに、その日の早朝、クルマで会社に向かっていた。
どうしても処理しないといけない作業があって、しかも本来なら自宅でも簡単にできる作業だったんだけど、なんとウカツなことにその作業をするためのウェブへのログインパスワードを忘れてしまい、しかもさらにウカツなことにサイト上でパスワードの再発行をしてしまい、再発行メールの送信先が会社のパソコンのメールアドレスになっていたものだから、ぼくは休みの日に会社に行ってパソコンに届いているハズの再発行パスワードを受け取って、作業をしないといけないハメになったのだ。休みの日に会社に行くというのはなんだか気が進まないし、しかも早く会社に行かないと「パスワードを忘れたために会社に来ないといけなくなっちゃった」というヤヤコシくも恥ずかしい姿を同僚たちに見られてしまうので、彼らが来ないうちに会社に行かないといけなくなった。いろいろヤヤコシいけど、ともかくぼくは休みの日の早朝に会社に出張る必要が生じたわけである。そこで電車ではなくクルマで行くことにした。道が空いていれば1時間程度で会社に行けるし、休みの日だという気分転換のためにもクルマを運転したかった。
しかし、懸念もあった。渋滞していたらどうしよう。

 

クルマで首都高湾岸線を走っていると、横浜ベイブリッジの辺りでクルマが詰まり出した。ぼくはクルマを減速させた。渋滞が始まりそうな雰囲気である。たしかにこの辺りは複数の合流があって、さらに若干の上り坂にもなっているので、クルマが減速しやすく、つまり渋滞になりやすいポイントではある。まあどうせ休みなので、渋滞で時間がかかっても問題ないし、同僚に見られるのだってテキトーにゴマかすこともできる。しょうがないので渋滞でもゆっくり行くかーと思っていた。
想像していたとおり、合流地点では多くのクルマで渋滞になっていて、時速20キロそこそこくらいで進む感じになった。さらにこの先にはアクアラインからの合流もあるから通行量はどんどん増えるわけで、これは最悪の場合、高速道路を降りるまでずっと渋滞が続くかもしれないなーと覚悟した。
しかし、途中で気が付いた。ぼくの後ろを走るクルマが妙に遅いのだ。バックミラーで見ると、かなり車間を空けて走っているようである。また周囲を見ると、どのクルマも一定の速度で走っている。少なくとも空いた車間を即座に埋めるというような走り方をしているクルマはない。だからどのクルマもブレーキランプを踏むようなこともないのだ。なんとなく変な雰囲気を感じつつ、見晴らしのいい直線コースに入ると、1、2キロ先までクルマで埋まっているのが見えた。その光景は完全な渋滞なんだけど、どういうわけか速度は一定だった。いや、先ほどの時速20キロそこそこから、いつの間にか若干上がって時速40キロくらいになっている。そしてほどなく速度は50キロを超えた。これはもしかすると、走ってるクルマのそれぞれが吸収車のような振舞いをしているのか。
その後速度はどんどん上がっていき、東京都に入る頃には時速80キロを超えるようになっていた。しかも妙なことに、クルマの量に変化が感じられないのだ。フロントガラスがら見えるのは、多くのクルマが一定の車間で走っているというノロノロ渋滞の時のような景色なのだ。しかし実際の速度は時速80キロを超えているのである。こんな奇妙な渋滞は今まで経験したことがないけど、これが吸収車が投入された場合の景色かもしれないと思うと妙に納得がいった。そしてほどなくして、渋滞が完全に解消したのである。これは驚いた。これが吸収車のいる渋滞の解消のプロセスなのだろうか。
いや、実際は違うかもしれない。走っているクルマはトラックが多かったから、高速道路沿いの倉庫や物流センターなんかに向かうために高速道路を降りたのかもしれない。これが道路の走行数を減らして、結果として渋滞が緩和しただけなのかもしれない。吸収車的な振舞いをしているクルマたちは、単に偶然そういう風に見えただけかもしれない。たしかに、吸収車どうのに関係なく、一定速度で走ることは運転者自身のストレスも減らすように思われる。結局のところどういう理由だったかは分かりようがないのだ。
しかし、今回のことで分かったことがある。
吸収車という方法は誰かに自己犠牲を強いるのではなく、多くの人がそれぞれ吸収車の役割を同時に担うことで、渋滞の悪化を抑えることができるということである。吸収車が及ぼす渋滞への効果を多くの人が知り、渋滞を目の前にしてもそのような振舞いをすれば、渋滞が悪化することもないし、もしかしたら渋滞そのものの発生さえも抑制できるようになるのかもしれないのだ。平日の早朝の高速道路という職業ドライバーが圧倒的に多い場面で、これがまさに理想的な形で現れたのかもしれない。
これが休日の渋滞の場面でも現れたらいいなーと思う。そのためには休日ドライバーにも吸収車の話しを啓蒙して、多くの人が自己犠牲ではない、吸収車の役割を知ればいいのだ。そうなれば、もはや吸収車は自己犠牲ではない。吸収車的振舞いは、ただの運転マナーになるわけである。それこそ渋滞の手前でハザードを点けて後続車に渋滞の存在を伝えるような、そんな善意の連鎖になるかもしれないのだ。そんな日が近いような気がした平日の朝のデキゴトだった。
※ちなみに渋滞の手前でハザードランプを点けるのは、後続に渋滞を知らせるだけでなく、自分のクルマが渋滞で減速することにより、追突を防ぐためという意味もあるだろうから、この行為が単に善意でのみ成り立っているというわけではないんだろうけどね。

| 日記 | 14:00 | comments(0) | trackbacks(0)
先週は。

以前所属していた楽団で大変お世話になった方から誘っていただいて、楽団の練習に参加させていただいた。ちゃんと楽器を吹くのは、実に8年振りくらいである。
この楽団に所属していた時には代表と首席奏者という、内閣総理大臣と大統領を兼任するような大役をいただいて、非常に苦労した経験があるのだけど、楽団から離れて数年も経つと、やはり懐かしいものである。
楽団は先月定期演奏会を終えていて、この日の練習は次の演奏会に向けての譜読み的な雰囲気だった。だからほとんど初心者レベルになってしまったぼくでもなんとか練習に参加することができた。それでも合奏では、初心者に優しい吹きやすい音域のパートではなく、主旋律を担当するパートを割り当ててくれたところに、なんだか配慮を感じて恐縮するばかりだった。大して吹けなかったんだけどね。
でも、合奏はいいものである。
大勢の人が集まって、楽器を拭くというのは、ただそれだけでいいものである。ぼくはこういう雰囲気が大好きである。自身の演奏技術はかなり落ちていて、安定した音が出ないとかタンギングが壊滅的にできなくなっているとか、ホント恥ずかしいばかりなんだけど、それでも練習を重ねていけば、以前の8割くらいまで持っていけるかもなーという感触を得ることができた。
練習の後には、ぼくのために飲み会があったりして、これも非常にありがたかったし、とても楽しくお酒を飲むことができた。懐かしいメンバーとお酒を飲むことができて、ぼくもかなり飲み過ぎて、気が付くと終電の駅で冷たい風に吹かれている自分を発見して愕然としたくらいである(いや乗り過ごしていないんだけどね)。

 

さて、冒頭に書いたとおり、今回の練習は誘っていただいたものである。以前のブログにも書いたけど、「戻ってきてもらえませんか?」のあの話しの続きなのである。だからぼくは近いうちにこの楽団に戻って団員として参加するかを決めないといけないわけである。
これにはかなり迷いがある。
音楽は楽しいし、楽器を吹くのも楽しい。しかし、もう一度どっぷりハマるには戸惑いがある。なんだろうな、何かが足りないのだ。理由はいろいろ考えられるけど、その一つは「演奏者として上達が見込めないこと」かもしれない。週1回の練習では、以前のようなレベルまで技術は追いつくかもしれないけど、それ以上になることは恐らくないだろう。先に書いたとおり、往年の8割くらいにはすぐに追いつけて、そこからあと2割をどこまで持ち上げられるかといった感じに留まるというわけである。つまり、当時の100%を超えて上手くなることはないのだ。そして、100%だった当時でさえ、一般的な奏者と比較して決して上手い部類には入っていなかったのである。決して上手いと言えるわけでもない状態でさえ、追いつけるかどうか分からない。それが今の時点で分かってしまっていること。これが戸惑いのひとつかもしれない。
それにしても、ぼくにとって音楽表現とは、どういうものなのだろう。今回参加させてもらった楽団や一般の吹奏楽団で演奏することだけなのだろうか。もっと気軽に手軽に楽しくできる方法はないのだろうか。ランニングのように思いついた時にぽっとできて、それで大きな満足感や達成感が得られるような形では続けることができないだろうか。その答えはまだ分からない。だから悩ましいのである。
音楽はいいものである。普段の生活では絶対に得られないような感覚を味わうことができる。これをどういう形で続けていくことができるのか。その答えをどう出していけるだろうか。

 

ところで、先の練習の後に行った飲み会で、20年ほど前にまだ赤ちゃんだった子が20歳を迎えて、一緒に飲む機会を得た。これはなんだか嬉しいような、こそばゆい感じだったな。

| 音楽日記 | 06:19 | comments(0) | trackbacks(0)
キャンプの季節。

今年の冬は強い寒波に見舞われて、特に日本海側で雪による被害が大きかったけど、2月も中旬を過ぎ、だんだん暖かい日も増えてきた。春は着実に近づいているわけである。自宅近くの梅の木にも白い花がほころび始めた。

 

ところで、暖かくなってくると、そろそろキャンプの季節である。
去年は「キャンプ元年」ということで、テントやら寝袋やらを買って、慣れないキャンプに出掛けたものである。今年は2年目で、ツールの使い方にも慣れてきて、知識やノウハウも増え、キャンプが一番楽しい時期である。いや、何を始めるにしても2年目ってのが一番楽しいんだろうなと思うけど、ぼくにとってキャンプが一番楽しい時期なのである。
取り揃えたいグッズはまだまだあるし、これを少しずつ買っていきながら、細く長くキャンプを楽しみたいと思っている。
目下のところ、さきこはテントと接続できるようなシェルターが欲しいと思っていて、ぼくは焚火周りを充実するグッズが欲しいと思っている。どちらも安からざる買い物なんだけど、財布と相談しつつ、どんな風に揃えていこうかと話し合ったりしている。

 

先週末は少し長めにクルマを走らせて、昭島にあるキャンプグッズ専門のショッピングモールに行ってきた。
さきこもぼくも、揃えたいキャンプグッズの実物を見に行くためである。しかし、先に書いたとおり安からざるその値段になかなか決断もできず、モール内をウロウロしていたら、某モ〇ベルでハンモックを売っていて、思わずこれを買ってしまった。
いや、もともと欲しいなーとは思っていたけど、優先順位はそれほど高くなくて、まあお遊びグッズみたいなものだし、それよりもシェルターやらダッチオーブンやらを揃えたいところだったのだけど、それらの安からざる値札に金銭感覚がおかしくなっていたのか、2万円弱ほどのこのハンモックを見て思わず「安っ!」なんて思ってしまい、ほとんど勢いで買ってしまった。
このハンモックはただのハンモックというわけではなく、専用の蚊帳を被せることで、虫に悩まされることなく、夏場でも屋外で眠ることができるんだそうな。うん、なかなか面白そう・・・って、キャンプの質を向上させるために、衣食住にかかわるグッズを増やしていこうと思っていた矢先に、どういうわけか遊び道具に近いグッズを衝動買いしてしまったよ。
いや、まあいいんだけどね。シェルターだって手に入れるのはもっと先だろうし、焚火周りの調理グッズにしても、ぼくがどんな料理をするかによってどんな器具を買うか、さらなる検討を重ねる必要があるわけで、つまり近々に購入するわけじゃないからね。

 

2月はさすがに寒いだろうけど、3月は少し暖かいだろう。3月下旬にもなれば、夜も朝方の冷え込みも弱まってくれるに違いない。この時期を狙ってキャンプに出かけることにした。ホントは湖畔のキャンプ場に行きたかったけど、あまり冒険はせず、近場の行き慣れたキャンプ場を予約した。今からキャンプが楽しみである。今回も焚火を見て、ココロを癒したいものである。
3月のキャンプの次は4月、そしてゴールデンウイーク、雨の時期の前にもう一回くらい行けるかな。盛夏の時期を外して、9月、10月、11月とキャンプに行きたい。合計で春4回、秋3回で7回はキャンプに行けるかな。うん、これは楽しみだ。

| キャンプライフ | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0)
ウイークポイント。

先日、お袋さんが目の手術をした。
白内障が悪化して、どんどん視力が低下するので、ここでぱぱぱっと治しちゃおうというわけである。ぼくは付き添いということで、会社を休んでお袋さんが病院に行くのに同行した。
お袋さんは去年の年始に胃の大部分を切除する手術をした。胃がんが進行している形跡があり、今後のことを考えて切除することにしたわけである。しかし結局のところ、胃がんではなく良性の腫瘍ということが分かったのだけど、手術の前後に入院があったり、しかも周囲はがんを患った患者さんばかりということもあって、かなりナーバスになっていたものである。今回も手術なので、お袋さんのメンタルは大丈夫かなと思ったけど、かなり意外なことにとても楽観的だった。ぼくが拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。「手術が失敗して失明したらどうしよう」くらいの不安を口にするかなと思っていたから、いや、ぼくだったら必ずそんな風に不安になるだろうと思ったから、お袋さんのメンタルが心配だったのだけどね。
どちらかと言えば、我ながらぼくの方が心配だった。
そう、問題はぼくだったのだ。

 

今回の件で分かったけど、ぼくは目の話しに弱い。
今回の術式は、目の角膜に切り込みを入れて、そこに人工のレンズを埋め込んで固定するのだそうだけど、もうこれを説明されるだけで、身の毛がよだつ。背筋が寒くなる。足がぞわぞわっとくる。お袋さんがあっけらかんと説明するのを聞くだけで、こうなっちゃうのだから、事前に病院で執刀医に図解付きで説明されちゃった時には、もうつま先から腰の辺りまでがぞわぞわで自分の身体じゃないみたいな感覚になったものである。いや、目の話しは苦手である。
身体を切り刻む的な話しが苦手な人は、たしかに一定数いる。血が苦手な人とかね。それこそコピー用紙で指先をさくっと切っちゃったような時でも、じわっと滲んできた血を見て卒倒しちゃうような人も男女問わず少なからずいるものである。しかし、ぼくはそういう人じゃない。たとえば、お袋さんが胃の切除手術をした時は、術後に執刀医から手術の状況を説明された時、摘出した胃の写真を見せられても平気だった。その前だって、さきこの子宮筋腫の手術の時は、写真どころか摘出された筋腫が目の前にどでんっと置かれても何も感じなかった。いや逆に、感じたのは強い好奇心と触ってみたいという強い衝動だった。そんなぼくだから、こういう話しは別に苦手ではないと自負していたのである。
しかし、どうも目の話しだけはダメみたいである。
お袋さんが手術室に誘導されて、付き添っていたぼくも一緒に移動したんだけど、看護師の方から「手術の様子をご覧になりますか?」と聞かれて、ほとんど即答で「いえ、結構です」と言っていた。ぼくが寄りかかるベンチの後ろの壁のその向こうでは、お袋さんが手術台に横たわり、穴の空いたシートに左目だけ露出させて、先の尖がったいろいろな器具でいじられているのかと思うと、もう居たたまれなかった。しかも、しかもである。この手術では目の部分だけの局所麻酔なのである。つまり眼球やまぶたを動かす筋肉は麻酔がかかっているけど、視神経は機能しているのだ。つまり、先の尖がったいろいろな器具は、見えているのである。うおおおおーーーーっ!ぞわぞわくるわーーー!書いてるだけでキツいわーーー!

 

・・・そんなわけで、お袋さんの手術は無事終了した。
まだ視界がぼんやりしているそうだけど、医師の診たところ、術後の経過は順調だそうである。このまま順調にいけば、来週は右目の手術である。これにも付き添って欲しいとのことなので、会社を休んで付き添ってこようと思うけど、なんだかぼくのメンタルが心配である。
看護師の方が言っていたけど、目の話しが苦手なのは、主に男性なんだそうな。手術を受ける側はさほどでもないのに、付き添いの男性が参ってしまう場合、時には卒倒してしまう男性もいるんだそうな。どうも目が弱いのはぼくだけじゃないみたいだね。
これはきっとぼくが周囲の状況を認知するのに、視覚に大きく依存しているからだろう。だから視覚が失われたり、損なわれたりすることに大きな恐怖感があるのだろう。古代から狩猟をしてきた男性は、生き延びるために視覚は重要だったんだろうな。
ともかく、お袋さんの左目の手術が無事に終わって安心している。

 

それにしても、ぼくが白内障になったらどうしよう。お袋さんと同じような手術を受けなければならないのだろうか。いや、これは怖いわー。

| 日記 | 14:19 | comments(0) | trackbacks(0)
呪いのヘッドホン。

久し振りに物欲が発動してしまった。いや、物欲は最近いろいろと発動しているのだけど、その中のあるモノについて、ふと物欲が顕在化して、ついに購入に至ってしまった。
それは、ヘッドホンである。
しかも、ワイヤレスである。しかもさらに、ノイズキャンセル機能付きである。
つまり、ノイズキャンセリング機能付きの、ワイヤレスな、ヘッドホンである。くどいか。いや、これはスゴいわ。
我ながらよくぞこんなものを購入したものだと思う。一般的なヘッドホンなら自宅に2個くらいあるし、イヤホンならそれ以上、5個くらいはあるだろう。いやもっとあるかな。通勤途中くらいしか音楽を聴かないぼくにとっては、既にこれだけのヘッドホンやイヤホンがあれば充分以上のハズである。聴いている音楽だって、どうせ大したものではないのだ。それなのに、なぜ、新たにヘッドホンを購入したのか。しかも、ワイヤレスでノイズキャンセリング機能の付いた高価なヘッドホンを購入したのか。

 

それはほとんど呪いみたいなものである。
実はノイズキャンセリング機能付きのヘッドホンを手に入れるのは今回が初めてではない。もう何年も前になってしまうけど、かなり昔、それこそノイズキャンセリング(ノイキャン)機能付きのヘッドホンが発売された当初に購入したことがある。最近主流の内臓バッテリーではなく、単4電池で給電するタイプだった。当然ながら、ワイヤレスではなく、有線である。
そのヘッドホンを購入する前は、ノイキャン機能を訝しく思っていた。周囲の音を消すために、わざと逆位相の音を流して、音を打ち消し合うようにするという考え方になんだか抵抗があったのだ。音を聞こえないようにするために、わざわざ音を流すというのは、まあたしかに逆転の発想ともいえるけど、それはヘッドホンから流れるべき本来の音楽ではなく、周囲の雑音が重ねられた、いじられた音楽ということなわけで、なんだか違う気がしたのである。
しかし、ヘッドホンを耳に当て、ノイキャン機能をオンにした瞬間、その考え方は一変した。衝撃が走った。世界が転換したと言っていい。周囲の喧騒が一瞬で消え、突如として静寂が目の前に立ち上がったのである。もちろん、完全な静寂ではない。人の話し声も靴の足音も聞こえるのだけど、環境音というか空気の音というか、どの環境でも必ず聞こえているような「ゴーーー・・・」とも「コーーー・・・」とも言えない音は完全に消え去ったのである。なんとも言えない静寂の圧力みたいなものが感じられた。
そして、音楽を流してみる。するともう音楽しか聞こえないのだ。話し声も靴の音もまったく聞こえない。完全に音楽だけの世界である。コーヒー屋でノイキャンヘッドホンで音楽を聴いていても、音楽ホールにいるかのような鳴りが頭に響き渡り、逆に目の前に広がるコーヒー屋の景色の方が異質に感じるのである。ぼくは音楽ホールにいるハズなのに、なぜコーヒー屋の景色が見えているのだ?と。
そのヘッドホンはしばらく使って残念ながら故障してしまい、その後は主にイヤホンで音楽を聴いていた。
しかし一度でもノイキャン機能を経験してみると、その魅力からは逃れられない。音楽をただのBGMとして聴く以上に聴くのなら、なおのことである。何個か一般的なヘッドホンを買ってみたけど、「なんか違う」とずっと思っていたのだ。ノイキャン機能のヘッドホンへの憧憬は依然として強かったのだ。

 

そんな折、たまたまさきこが貯めていた携帯電話使用料のポイントがある一定の額に達した。そのポイントを使って、さきこがぼくに何か買ってくれるということになった。これは千載一遇のチャンスである。ぜひ、ノイキャン機能付きワイヤレスヘッドホンを購入しよう!
さきこと会社帰りに待ち合わせて、早速家電量販店に行った。どうせ買うなら、ちゃんとしたノイキャン機能のあるヘッドホンにしようということで、ちょっと高めのノイキャン・ワイヤレス・ヘッドホンを購入した。あの静寂をもう一度体験できるのである。やったー!

 

思えば、かつて音楽とは、音楽ホールでのみ聴くことのできるものだった。音楽を聴きたければ、チケットを購入して音楽ホールに行かなければならなかったわけである。しかしレコードの出現で、蓄音機のような再生機を使って自宅で音楽を聴くことができるようになった。音楽が生活の中に入ってきたのである。そしてウォークマンの登場で、音楽は生活の中で場所を選ばなくなった。リビングでもキッチンでも、通勤途中でも音楽を聴くことができた。生活に入ってきた音楽がその影響範囲をどんどん広げていったわけである。それでもウォークマンが登場して以来、これ以上の生活への浸食はないと思われた。音楽を再生する媒体は、レコードやカセットテープ、CDや記憶媒体などと変化していったけど、音楽と生活の関係性、浸食度合いは大きく変わらなかった。
しかし、ノイキャンヘッドホンがそれを少しだけ変えた。生活の中に音楽が一歩踏み出してきたのだ。生活の中にあった音楽は、その一歩で逆転し、音楽の中に生活を置く瞬間を生み出したのである。
ノイキャンヘッドホンで音楽を聴きながら電車に乗っていると、電車の音は聞こえない。アナウンスの音さえ聞こえない。それまでは多少とも車内アナウンスが聞こえていたけど、今回のヘッドホンでは音楽に集中していると車内アナウンスすら聞こえないのだ。今電車がどこを走っているか、どこの駅に停車しているかが分からないのである。
電車に乗っていて、周囲の音をシャットアウトして音楽を聴いていたら、下車すべき駅を乗り過ごしてしまう。ポータブルで音楽を再生する機器で初めて怖いと思った。

 

そんなわけで、過去の呪いに抗えず、またノイキャンヘッドホンで音楽を聴く生活になった。だからと言って、高尚な音楽を聴くわけではないのだけどね。でも、周囲に雑音のない音楽だけの世界というのはいいものである。実際は雑音がないのではなく、逆にヘッドホンから雑音を聞かされているわけだけど、ともかく音楽に集中できる時間ができるのはうれしいものである。
去年感銘を受けたサックスだけの演奏会のCDを先日購入して、これを聴けるようになるとまたサックスがやりたくなっちゃったりするのかな。

※コーヒー屋の景色を一変させた呪いのヘッドホン。

| 物欲日記 | 14:46 | comments(0) | trackbacks(0)
先週は。

先週は自宅近くで毎年参加しているランニングイベントがあり、10キロを走ってきた。さきこは所用で参加できなかったけど、まりこさんが走った。
ぼくはこのランニングイベントが好きで、さすがにハーフマラソンはキツいけど、10キロにはここ数年参加している。
1月は大寒波が襲来して、横浜でも雪が降る日があったりしたんだけど、この日は気持ちよく晴れてくれて、風もなく日差しが暖かかったので、とても走りやすかった。地元を走るというのもなんだか嬉しいしね。
結果としては、54分30秒ほど。うん、まあなかなかの記録である。
去年までは1時間を切るのが精いっぱいだったので、1キロ当たり5分30秒を切るペースで走り通せたのは嬉しいことである。
これはダイエットの効果なのか、ジムでの筋トレの効果なのか、ともなく去年とは違った何かを感じさせるランニングだった。
思えば、1月中旬から毎週のようにランニングイベントに出ているけど、リタイアしちゃったフロストバイトでの10キロ、その翌週の城南島での10キロ、またその翌週に代走で参加した駅伝での4キロと、どれをとってもタイムとしてはそれなりの記録になっている。これは偶然とかではなく、ぼくの身体に何らかの変異があったからだろう。この変化を萎ませないで、さらに高めていけたらいいなと思う。
それにしても、ランニングはいいなー。いい記録や気持ちいい走りができた時の充実感はホントに格別である。これがさらに速くなって、50分を切るような境地に至ったらどうなるのかね。そう、1キロ当たり4分台で走る境地である。いや、今のぼくにとっては異次元の世界だな。でも、もしかしたら・・・なんてつい想像してしまうのが、楽しかったりする。
さて、ランニングイベントの連続はこれでひとまず終わり、3週間後には三浦国際市民マラソンである。何度も書いているけど、過酷なランニングである。制限時間が長くなったとは言え、以前から参加しているランナーとしては、ぜひ過去の制限時間内にフィニッシュしたいと思っている。天候などのコンディションの影響を受けやすいけど、ランニング練習を重ねられたらいいなと思うのである。

| Be RUNNER! | 13:34 | comments(0) | trackbacks(0)
近況。

2月である。先月はあっという間に過ぎたよう・・・に思えつつ、いろいろとバタバタしていたために何だか長い1か月だったような気がする。さきことお袋さんと一緒に渋谷に第九を聴きに行ったのが、はるか遠い記憶のようである。それから大阪に行ったり来たりしたんだから、なかなかのハードっぷりである。その他にもいくつかのプロジェクトがあって、今週はそれらが一気に動いたこともあって、それも含めてなかなかハードな1月だった。複数のプロジェクトを動かしていれば、そりゃ1か月は長く感じるというものである。
しかしそれらも昨日までにヤマをある程度越えて、今はちょっと一息ついているところである。疲労感とじわーっとした達成感もありつつ、残りの期間も頑張ろうと思うのだ。

 

さて、今週は皆既月食があった。会社を早くに出ると、東の空の低めの位置で大きな月が見えていた。東京は薄曇りのようで、シルエットがぼやっとした感じだったけど、皆既月食が待ち遠しかった。
さきこと自宅に帰り、着替えて近くの公園に行った。数年前の金環食の時もその公園に行ったな。天文ファンがたくさん集まって空を見上げているのかなと思ったら、2、3人ほどのおじさんがカメラを上に向けていただけだった。
寒いから子供は出てこないのかな。今年はインフルエンザが猛威を振るい、学級閉鎖もあるそうだから、寒い中をあえて出ていこうとは思わないのかな。せっかくの天文ショーなのにもったいない話しである。
ぼくとさきこが帰宅中から月が欠け始め、自宅を出て公園に着く頃には半分以上が欠けていた。双眼鏡で覗いたり、カメラで撮影したりしながら月食を眺め、月が地球の影に隠れた頃に自宅に戻った。さきこも興味はありつつも、かなり寒そうだった。ぼくたちが帰途に就く頃には、先ほどまでいたカメラおじさんたちの陰も形もなくなっていた。ぼくには分からないけど、ああいう天文ファンの人って、月が欠けている状況に魅力を感じるんだね。ぼくは欠けている途上よりも欠け切ったところの方が好きだけどな。

※会社近くで見た月。大きいな。

| 日記 | 12:17 | comments(0) | trackbacks(0)
夢想の地平面
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